影踏み、君の名を口にする ‐2‐


 起きろ、と言われたような気がした。
 途端、水の中にいるような浮遊感が心身から消え去って、目に映る無機質な黒が薄れて端から仄かな朱に色づいていく。
 ……考えていた以上に寝てしまったようだ。
 室内に射す陽光に時間の経過を認識して、ロキは布団から半身を起こした。寝過ぎたせいか、体がだるい、頭がぼんやりとして鈍痛がする。けれど、心は落ち着きを取り戻していた。眠りに落ちる前のことを思い返しても平然としていられる。むしろ、シギュンの顔が見たくなってきた。
 寝台から立ち上がって部屋を出て、そこでふと気がついて足を止めた。
「シギュン?」
 黄昏時の廊下に響いた音はそれだけで、巡らせた瞳に求める像は映らない。居間に足を踏み入れて、ロキは自分の直感の正しさを知った。
 暖かな色彩の光を受け止めながらもその裏側には尾のように長い影を引く調度品に、来るべき夜の予感をはらみながら停滞している空気が、家内には他に誰もいないことをひっそりと教えてくる。
 ナルヴィとナリはまだ帰ってきていないのか。シギュンは、庭にもいないようだから買い物だろうか。
 まだ少し霞がかった頭で考えたロキの耳に、木材が軋む小さな音が滑り込んできた。
 ――シギュンか。
 来訪者の情報は何もないのになぜかそう思って、ロキが玄関へと歩を進める。そして、それは当たっていた。正しく言えば、予想の八割は。
「……シギュン?」
 無意識に声が怪訝によって低くなった。帰ってきた彼女を迎えようとしたロキだったが、それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。
 碧色の瞳の先で、木造の扉を閉めて振り返ったのは見間違えようもなくシギュンである。しかし、様子がおかしい。普段の彼女から感じる日溜まりのような雰囲気がなく、見つめ返してくる青は透明感と輝きを失っている。ひどく虚ろな印象は暗いからそう見える、のではない。
「ロキ」
 シギュンから発せられた二音はいつもと違い妙に濡れていて、鼓膜に貼りついてくるようだった。
「……ロキ……」
 繰り返された声は前よりも小さく、続きを押し込めるように閉じた唇は微かに震えている。
 視線を彼女の上に置いたままでロキは応答も身動きもできないでいた。こんなシギュンを見るのが初めてで、取るべき行動がわからない。
 時間の感覚が麻痺するような静寂が、不意に細長い吐息によって揺らされる。
 ロキは困惑や緊張以上に得体の知れない恐怖を感じて、とっさに何か言おうと口を開いた。
「ロキ、別れましょう」
「!」
 けれど発声は叶わず、言葉は呑んだ息とともに喉の奥で霧散した。
 己の耳を疑う。聞き返したい。先と同じであるのならその理由を。
 しかし、今のロキには彼女から目をそらさないでいることだけで精一杯だった。心臓が早鐘のように速く打っているのに全身から血の気が引いていくようだ。悪寒に軽い目眩が誘発されて、ふらつきそうになるのを冷たい手を握り込むことで堪える。
 シギュンは強張った表情で、「ごめんなさい、ごめんなさい……」と消え入りそうなほど弱々しくつぶやくと、両手で顔を覆って泣き崩れてしまった。細い肩が小刻みに震えて、手のひらの間から嗚咽がこぼれ落ちる。
 ――何があった。
 先の決別が、全て彼女の意思だけで放たれたようにロキには思えなかった。
 何者かが、彼女をそそのかして――?
「オーディンか」
 真新しい一連の記憶が脳裏に甦る。確証はないが確信を抱いて、不安定だった意識が一つの方角に定まり、急速に熱を帯びていく。
 己がするべきことは何か。ロキは眼中にとらえた。
「……シギュン」
 静かな声音で呼びかけながら傍らに膝をつき、金色の髪を指先ですくように触れる。しかし、少し待ってもシギュンからの返事はなく、顔を上げることもなかった。
 ロキは名残惜しそうに手を離して立ち上がると、眼差しを慈しみから射るようなものに変えて正面を見据えた。そして、うつむく妻の横を通り過ぎて家の外へと出た。
 陰り行く世界の中を強い足取りで前へ前へと進んでいく。途中どこからか、トールが自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきたがロキは無視した。彼に急ぎの用事があろうが、かまっている余裕は今の自分にはないのだ。
 脇目も振らずに歩き続けて、濃紺の夕闇が空を包み込む前に目的地へと辿り着いた。まるで来訪を待っていたかのように館の門番に詳しい用件を話す必要もなく、ロキはヴァラスキャルヴの中に入ることができた。腹の底にむず痒いものを感じながら低い階段を上がっていき、大きな両扉を躊躇なく開くと、目の前に現れた、幾本もの太い石柱に支えられた広々とした空間に目的の人物はいた。呼び出されたときと変わらず、部屋の奥、床よりも一段高い場所に据えられている玉座にオーディンは腰掛けて、その下には二頭の黒毛の狼が居座っている。突然の来訪にたいしての驚きは微塵もない。
「そんなに急いでどうした、ロキ」
 挨拶や低頭をせずに近づく来訪者にたいして、その無礼を咎めようとする様子もオーディンにはなかった。あるのはいつもの喰えない面持ちと言動だ。
 ロキは間合いを測りながら相手の前で立ち止まった。睨み上げて口を開く。
「見てたんだろう」
 端的に言い放てば、言葉の代わりに薄い笑みだけが返された。
 わき上がって止まない感情が一層強くロキの胸中を焼く。吐き出す意思がさらに低く鋭さを帯びる。
「シギュンに何をした」
「………」
「答えろ」
「………」
「オーディン!」
「何かしたのはわたしではなく、おまえのほうだろう」
「なに……」
 対照的な冷淡とした調子の応答に、苛烈していく思考が怯えたように失速した。だが、抱える激情はそう簡単には鎮まらない。
 微かに揺れながらも眼から剣呑な光を衰えさせないロキを、オーディンは呆れたように顔をしかめた。
「これだけ言ってもまだ自覚がないのか」
「何の話だ」
「おまえのことだよ、ロキ。おまえの弱さと愚かしさのことだ」
 それも、ロキには理解できなかった。解釈は文言としての意味だけにとどまって、込められた意図も示す先も不明のまま頭の中でたゆたう。
 ……シギュンとのことと関係がある、のか……?
「今さらわかるとは思っていない」
 惑いを読み取ったオーディンの辛辣な物言いに、ロキは不愉快を強くするよりも先に相手から自分にたいする普段の気安さがなくなっていることに気づいた。
 喉を絞められるような、嫌な感覚がする。
「ロキ、シギュンと別れろ」
 見下ろしてくる隻眼は無情の静けさだけを宿して、顔には微かな笑みもない。彼がいるところがこの世界の玉座だと、己がその下方にいるのだと、否応なしに意識させられる。厳然とした雰囲気に圧倒されてしまうのをロキは意地でなんとか耐えた。
「誰が、そんな指図」
「受けない、と? これは前のような忠告ではないぞ。族の長としての命令だ。これ以上おまえといてはシギュンのためにはならない。彼女を想うなら、傍から離れろ」
「ふざけるな。なんであんたにそんなことがわかるんだ。勝手なことを言うな」
「勝手なのはどっちだ。なぜおまえにはわからない? どうして物事をとらえ直そうとしない。……もう少し聡い奴だと思っていたのだがな。しょせんは、生まれた地にすら認められなかったはみ出し者か」
「っ……」
 ロキは言葉を失った。しかし、絶句したのも一瞬。
「オーディン!」
 身の内に収まりきらなくなった感情が大気を強く震わせて、ふたりの間にわずかに残っていた平穏を打ち砕いた。
 二つの牙が音もなく立ち上がる。
「やれやれ。言ってわからないのなら、その身で理解してもらうしかないな」
 淡々とオーディンが言って、それが合図となった。後退の選択肢とともに張り詰めた空気が弾かれる。
 碧が据える視界の中心が玉座の人物から、地を蹴った黒へと切り替わった。飛びかかってきた狼をロキは身を引くことで避けながら腰の後ろに右手を回し、空を滑る感触にはっとして舌を打った。
 短剣がない。
「くそっ」
 どうする、と思案している時間はない。再び容赦なく狼が襲いかかってくる。ロキは身をひねってぶつかるすれすれの位置で牙をかわすと、過ぎる相手の鼻めがけて蹴りを見舞った。狼は甲高い鳴き声を上げて床を転がり、体勢を立て直そうと数度足掻いた後にぐったりと伏して沈黙した。
 息吐く暇はなく、ロキは視界の隅に間近まで迫りきていたもう一頭を見つけ、とっさに歯を噛み締めて左の腕を顔の高さまで上げた。
「く……」
 鋭い爪と牙が腕に食い込んで、走る痛みに戦意が揺らぐ。それでもロキは足を踏ん張り、握った逆の手で狼の腹部を殴りつけて地に振り落とした。赤い滴が足元をまだらに濡らす。
「――往生際が悪いな、ロキ」
「!」
 唐突に真後ろから聞こえてきた声に背筋が凍りつく。本能が警鐘を鳴らす。
 ロキは振り向こうとした。
「責めるのなら、愚かな自分自身を責めるんだな――」
 しかし、全てを聞き終える前に割れるような衝撃を頭に感じて、ロキの意識はわずかも抗うことはできず、引きずり下ろされるように暗転していった。


 月も星もない暗闇の中で、何か聞こえたとそう思ったのが始まりだった。それは徐々に形を表し明確な意味をもち、やがてその空間全体に響き渡るほどになった。
「ロキ……おいっ、ロキ!」
 ――うるさい。
 静謐を壊し、脳髄まで揺らしそうな大声にロキは苛立った。自分の名前を連呼するのが誰なのか、思い当たる前に黙らせたい気持ちが先行して、声の元に目を向けた。
「! ロキ、よかった……」
 途端、聴覚に滑り込む声音が和らいだ。
 それだけではない。
「トー、ル……?」
 いつのまにか周囲から暗闇は無くなっていて、ロキは真っ先に視界に入ってきた短い赤髪の男の名前をやや呆然とした調子で口にしていた。それを自分の耳でとらえてから、つい先程まで意識を失っていたことに気がついた。自身が固い場所で横たわっていることにも。
「もう目を覚まさないかと思った」
 九つの世界に轟く名高い剛勇さが嘘のように、表情に焦燥の名残をとどめて安心するトールに、ロキは応えられなかった。
 状況が把握できない。自分はどうして寝ていて、一体何を……?
 そう考えたところで、脳裏に覚えのある像が浮かんできた。
 オーディン。シギュン。唐突に告げられた別れ。
 そのとき、たしか自分は――
 碧色の瞳を見張る。
「トール! お、っ……!」
 一連の出来事を思い出し、ロキは起き上がり彼らについて訊こうとしたが、突然の頭痛と吐き気に邪魔をされた。背を再び地に落として、片手で頭を押さえて低く呻く。
「ロキ、無理はするな。魔術で死にかけていたんだぞ」
「魔術……」
 少しずつ苦痛がおさまる頭で、その単語から連想する原因は一つ。
「オーディンは……どうした」
「オーディン……? アースガルドじゃないのか。ここにはいないぞ」
「いない?」
 言い様に奇妙なものを感じた。ロキは手を離すと、トールがいるのとは逆のほうに目をやった。初めて意識を赤髪の相手以外にも向けて、認識した周囲の景色に眉を寄せた。
 そこは記憶に残る荘厳な館の広間でも自分の家でもなく、林のようなところだった。だが、ロキが訝しんだ理由は場所が外だからではなかった。目につく辺りの木々のいくつかが、まるでもぎとられたかのように枝が折れていたり、幹の半ばから朽ちていたりする。草や花も、千切れて潰れて地面に散らばるように伏している。空は青というには薄雲が多く暗い印象で、過ぎていった風は乾いていて冷たい。
 この地はアースガルドではないとロキは直感的に思った。
 なら、一体どこなのだろうか。
「……もしかして、覚えてないのか? 俺達は巨人退治に来て、おまえは戦いの最中にいきなり倒れたんだぞ」
 見つめてくる二つの茶色に偽りは見受けられない。時々鬱陶しくも思える、自分へのまっすぐな感情があるだけだ。
「巨人退治……、あ」
 溶け出した雪が屋根から滑り落ちるように、脳裏の中心に視えていた像が消え去って、空いたそこから別の像が浮上してきた。トールの言葉が腑に落ちる。
 ――そうだ。ここはヨツンヘイムで、目的は彼が言った通り。あの出来事は現実にあったことではなく、『夢』。しかも、単なる悪夢ではない。
 ずきり、と左腕に疼くような痛みを覚えた。顔をしかめてロキが眼前まで持ち上げると、真新しい裂傷があった。
 これはオーディンの狼に……否、巨人との戦いのときについたものだ。
「く、は、ははは」
 不意に響いてきた、かすれた低い笑い声にロキは思考するのをやめて、トールと同じ方向に視線を動かした。
 ふたりから十歩以上離れた場所にその主の姿はあった。アース神族の中でもとくに体格のいい部類に入るトールよりも優に二回りは大きい肉体が、赤黒く濡れた地面の上に倒れている。彼の体勢は仰向けと表現していいものか。頭がほとんど背中のほうまで曲がっていて、片足は膝から下がひしゃげるように変形し、反対側の腕は手首から下がない。他にも皮膚を破り、骨にまで達していそうな傷が多々あった。
「あいつ、まだ生きていたのか」
 険しい表情でトールが手元の地面に置いていたミョルニルをつかみ取って立ち上がる。
 巨人の濁った両目は空を向いたまま、血のにじんだ唇だけが動く。
「それがおまえの恐怖か、ロキ。愛する者に見放され、殺される。怖いのなら、気をつけろよ、あれが現実にならないように。ヨツンの裏切り者よ。はっ、ははは――」
 風を切る短い音がして、直後、嘲笑は止んだ。くぐもった声音を発していた口は開いた状態で沈黙し、ねじれた首には一本の短剣が突き刺さっている。
「ロキ」
 トールが怒りを引き、半身を起こして明らかな殺気をまとい巨人を睨みつけているロキを見た。
「大丈夫か?」
「……問題ない」
 ロキは短剣を投げ放った右手を一時強く握り締めて昂ぶった心を落ち着けると、ゆっくりと腰を上げた。自分の失態をこれ以上見せたくはなかった。それに全て終わり、事実がわかった今、すぐにでも確認したいことがあった。
 しかし思いに反して、短剣を回収しようと一歩踏み出したとき、視界が翳り、落下するような感覚に襲われた。
「ロキ!」
 前方へ倒れ込みそうになったロキの体を、トールが受け止める形で支えた。
「まだ動くな。もう少し休んでいたほうがいい」
「必要ない。……もう平気だから、離してくれ」
 わずかの逡巡の後、心配そうにしながらもトールは言われた通りにした。己の二本の足で立ち、意識を正すようにロキが一度深く呼吸する。次からは大丈夫だ。
 ふと、茶の目線がずっと自分に固定されているのに気づいて、ロキはばつが悪い顔を作った。
「なんだ。今回の用事は済んだんだろう。さっさと帰るぞ」
「ロキ、おまえなんか焦ってないか? もしかしてまた巨人が何か」
「違う。疲れただけだ」
 不機嫌を装ってそっぽを向く。
 言えるわけがない。あれが本当に幻だったことを早くこの目で確認したいから、などと。相手がいくら気心の知れた、救ってくれた人物だとしても。
 ……ん、トールが? 魔術から自分を助けてくれた……?
 何気ない思考にたいして端から疑問が呈される。自分は目覚めるまで巨人の術中にはまっていたと気がつかなかったのだから、彼しかいない。しかし、どうやって? トールは『力』は強いが、魔術の知識や情報に関しては疎いほうだ。
 気になり、答えを探して顔を正面に戻そうとしたロキは、相手の持つ特徴的な柄の短い鎚を目にとめた。
 頭に未だ残る鈍痛。術の中で最後に感じたのは、たしか衝撃だった。
「――殺す気か!」
「ぐっ! う……、いきなり……なに、するんだ、ロキ……」
 ロキが怒鳴ると同時に繰り出した拳をもろに鳩尾に受けて、トールは腹を抱え込むようにしてうずくまった。
 そんな彼の苦しむ様子を見下ろす碧の眼には、罪悪も慈しみの欠片もない。
「トール、ミョルニルで殴って俺を起こしただろう」
「そ、それは、しかたがなかったんだ……。おまえの顔色はどんどん悪くなるし、方法はもうそれしか思いつかなくて……。でも、ちゃんと加減はしたんだぞ」
「当たり前だ!」
 今度の一撃は思いっきり脳天に落とした。
 呻いてさらに身を小さく丸めたトールを無視してロキは事切れた巨人のもとへ、その首から短剣を抜き取った。流れ出す血に注意しながら死骸の服で刃の汚れを拭って、腰の定位置にしまうと深いため息を吐いた。
 今日は散々だ。ひどく疲れた。早く帰ろう、アースガルドに。
 ――そう、シギュンのところへ。