アースガルドの神々事情 ‐α‐


 暖かな感触が、体の奥底に沈んでいたロキの意識をすくい上げるように明るさの中へと浮上させた。
 ん、と呼吸とともに一音を小さく開いた唇からこぼして、ロキはゆるゆると瞼を開く。
「……ロキ? 気がついたのね。よかった」
 聞き覚えのある声がした。暗闇から一転して眩しくなった視界に、ぼんやりとひとりの人物の姿が映る。
 何度か瞬きをするうちに、目の前の像は明確な形と色を成していく。優しい色合いの緩く癖のある金髪、自分を見つめる明るい青色の眼差し。清楚な印象のその容姿には、たしかな覚えがあった。
「シギュン……」
 己の妻の名前を紡げば、霞がかっていたロキの思考が急速に本来の動きを取り戻し始める。
 ――ここは、どこだ? 自分は、どうしたのだ?
 浮かんできた疑問にロキははっとして、顔を動かして周りを見回し、すぐに一部に答えを得た。
 装飾は少なく小綺麗で暖かみの感じる室内にはいくつかの寝台や棚が整然と並び、肺に落ちる空気には薬草の独特な香りが混ざっている。
 ここは、自分の家ではない。
 どうやら、どこかの医務室のようだ。
 今、自分はそこの寝台の一つに寝かされている。
 そこまで理解すると、覚醒した意識が芋蔓式に目覚める前の記憶を引き出してきた。
 オーディン発案の剣術大会。それに強制的に参加させられることになってしまった。他の神々の面目なんて知ったことか。だったら自分が優勝してやると半ば自棄気味に意気込んで、試合を勝ち抜いていった。とくに、昔から因縁のあるヘイムダルとの試合では、彼を堂々と叩きのめすにはいい機会だと、本気で剣を振るって、そして――。
(どうなった? あいつとの勝敗は……?)
 おかしい。戦っている場面までしか思い出せない。そもそも、大会に参加していたはずなのに、どうして医務室で眠っていたのだろうか。
 眉を寄せてロキが、寝台の傍らに座るシギュンに訊ねる。
「シギュン、何があったんだ? 大会は?」
「覚えて……そうよね、ないわよね」
「?」
 意味深な科白にロキの怪訝が深まる。
 シギュンは躊躇いがちに一呼吸の間を挟んでから再び口を開いた。
「大会は、あなたが目覚める少し前に終わったわ。優勝したのは、チュールさん。あなたはヘイムダルさんとの試合で、引き分けになったの」
「引き分け?」
「審判のウルが、あなた達がなかなか決着がつかないからって、その、強制的に弓矢で気絶させたの」
(……ウルが……)
 後半に行くほど言い難そうに告げられたシギュンの言葉を手がかりにして、ロキは頭の隅に埋もれていた欠片のように小さな記憶を見つけ出した。
 そうだ、あのとき――拮抗する戦いに嫌気がさしてきて、決め手となる攻めの方法を考えていたとき、不意に頭に大きな衝撃と痛みを感じた。その直後に視界は暗転し、意識もそこでぷっつりと途切れたのだ。
 『審判にそんな態度をとっていいと思ってるの? ロキ、本当に失格にするよ』
 ふと、大会が始まる前に出会ったウルの不敵な言動が、求めてもいないのにロキの脳裏によみがえってきた。
(あの野郎っ……!)
 一連の出来事を把握するや、抱いていた懐疑の念が一気に怒りへと変化して、ロキが掛け布団をはね跳ばす勢いで起き上がった。
「ぅ……」
 が、寝台から足の指一本さえ出す前に呻くほどの目眩に襲われて、前のめりに倒れてしまう。
「ロキ!」
 シギュンが慌てて椅子から立ち上がり、支えるようにロキの肩に手を伸ばした。
「大丈夫? いきなり起きたら危ないわ」
「……平気だ……」
 数回瞬き、呼吸を整えてから、ロキがゆっくりと上半身を起こし直した。
 吐き気はないが、頭部に鈍痛がする。痛みが発するところを撫でるように触ってみると、小さく盛り上がったしこりの感触がした。どうやら、たんこぶができているようだ。
 忌々しさに、思わずロキが顔を歪める。
「ロキ、エイルを呼ぶ?」
 その声に傍らを見やれば、手は引いたがシギュンの表情からは不安の影がまだ残っていることに気がついた。
 ロキはなんだかばつの悪さを覚えて、眉間の皺を解くと首を小さく横に振った。
「いい。それよりも、水をくれ」
「ちょっと待ってて」
 足早にシギュンが部屋の隅にある円卓へ向かう。
 卓上の銀の水差しから木製のコップに水を注ぐ彼女の姿からロキは視線を掛け布団のほうに移して、現在までに繋がった記憶を回想すると、ひっそりとため息を吐いた。
(結局、オーディンの奴に遊ばれただけか)
 腹立たしさと悔しさがない交ぜになってもやもやとする。掛け布団に意味もなく爪を立てる。
(しかも、ウルにはバカにされたままだ、し……?)
 反射的にそう思って、何かが思考の端に引っかかった。
「ロキ」
 シギュンがコップを手に戻ってきた。
「はい」
「ああ……」
 差し出されたコップを受け取る際にロキはついシギュンの顔に注目してしまい、急いで手中の水面に目線を逃した。
 三秒にも充たないことだったからか、シギュンは全く気づかなかったようだ。しかし、ロキは生じた違和感の正体に見当がついてしまった。
 あのときの続きが鮮明さを増して、頭の中に浮かんでくる。
 『シギュンに格好いいところを見せられる良い機会なんだから、もっと張り切ったら?』
 『なんでそこであいつが出てくる。そもそもシギュンは観に来ない』
 『えっ、ついに見捨てられたの?』
 『俺が来るなって言ったんだ!』
 『負けて格好悪いところを見せるのが嫌だから?』
(……くそ)
 今でも不愉快さを感じてならない。ウルと交わしたその会話こそが、己の中に気の乗らない大会にたいしての意気を生んだのだ。
 ロキがコップからシギュンへ目を戻す。ここが会場の医務室だとわかって、気絶する前のことをはっきりと思い出して、彼への感情よりも気にかかることができた。
 訊かずにはいられなかった。
「シギュン、どうしておまえがここに……大会の会場にいるんだ?」
「えっ」
 青の瞳が見開かれる。やがて、そこに宿る憂いの曇りよりも濃く、焦りの色が滲み出す。
 その反応にロキは了知した。
 彼女は自分が医務室に運ばれたから呼ばれたのではなく、大会を観に来ていたのだ。
 来るな、と言ったのに。
「ロキ……あの、ごめんなさい」
 シギュンがうつむく。膝上で重ねた両手にぎゅっと力がこもる。
「来ないつもりだったのだけれど、シフさんに誘われて……。それに、あなたが戦っている姿を見てみたかったから」
「そうか」
 応えたロキの声色は無意識のうちに淡泊なものになっていた。
 だが、それに気がついても、ロキは言い直す気にはなれなかった。
 怒りは、わいてこない。声から起伏と勢いを奪ったのは、激情とは逆の感情だ。
(あれをシギュンが見ていたのか……)
 大会のことをもう一度思い返せば、心がまるで雨に濡れて肌にはりつく衣服のようにじっとりと重たくなる。
「約束を破ってごめんなさい」
「………」
 シギュンの謝罪に、ロキは何と返したらいいのか判断できない。
 互いに言葉を失って、ふたりの間に沈黙が落ちる。
 ……気まずい。
 ロキは水を飲むが、流れゆく冷たい感触に気持ちが緩むことはなく、さしたる時間稼ぎにもならない。最後の一口があっさりと喉元を過ぎていった。
 シギュンはうつむいたままであれ以上何も言わない。
 彼女は言えないのではなく、自分の返事を待っているのだ。
 推し量ったロキは空になったコップを握りしめて、それからゆっくりと余分な力を抜いていった。
 ――とにかく、今は、シギュンの罪悪感を取り除かなければ。
 ロキは意識的に息を吸った。
「失礼するわ」
「?!」
 突然、ふたりのものではない凛とした声音が響き、医務室の扉が開かれた。
 驚いてロキは、開いた唇を何の音の形にもなっていない状態で停止させる。けれど、思考のほうは唐突に現れた人物について、瞬時に認識していた。
「あ、フレイヤさん」
 そう言ったのはシギュンだ。顔を上げて居住まいを正す。
 ふたりの視線の先で、堂々とした態度の訪問者は部屋の半ばまできたところで動きを止めた。腰に届く緩やかに波打った金髪が小さく揺れて、意志の強さが漂う深青色の瞳がまっすぐに眼差しを返してくる。
「あら、元気そうね、ロキ。あんなに面白い倒れ方をしたにしては」
「っ……」
 どう受け取っても揶揄でしかない言葉にロキは言い返したくなったが、目の端に映るシギュンの姿を意識した途端、わき上がった怒りを喉元で詰まらせた。
 フレイヤの目線がほんの少しだけ向きを変える。
「残念ね、シギュン。せっかく見に来たのに、旦那が情けなくて」
(なっ……。なんでそこでシギュンに話をふるんだ!)
 不意打ちを受けたかのような衝撃に襲われた。自分へかけられた言葉よりも胸がざわついて、ロキは慌ててシギュンを見やった。
 彼女は、首を横に振った。
「そんなことないわ。ロキの戦う姿はかっこよくて、素敵だったわ」
 穏やかに言い切ったシギュンがロキに振り向いてふわりと笑う。頬が淡く朱色がかったその表情は、どことなく照れくさそうだ。
 彼女とまっすぐに視線が交わってロキはどきりとしたが、嫌な感覚は生まれなかった。むしろ、暗く寒い空間に暖かな光が射し込んできたかのようだった。
 内側でつかえるような不快感がじわりと溶けていき、なんだかふわふわとした感情が込み上げてくる。
「……シギュン」
「はいはい。仲が良くて大変よろしいこと。でも、そういうのはお家でやってちょうだい」
 ロキが名を呼ぶのとほぼ同時に、フレイヤの冷めたような声音が穏やかに変化したふたりの間の空気に水を差した。
 無遠慮なそれにロキはフレイヤを睨んだが、相手は一瞬目を合わせただけで顔の向きを大きく変えた。その先にあるのは、ロキのいる寝台の隣に位置する、今は仕切り用のカーテンで隠された寝台だ。
「こっちね?」
 目を離さずにフレイヤが訊ねる。
「あ、はい。でも、今は……」
 答えたのはシギュンだ。
(なんだ?)
 ロキには、彼女達の問答の意味がさっぱりわからない。
 自分の隣については色々と余裕がなかったこともあって、全く気に留めていなかった。どうやら、フレイヤはそちらの寝台に用があってここに来たらしいが……。
 向けられる疑問とどこか落ち着きのない二種類の視線を受けたまま、フレイヤは隣の寝台に歩み寄ると躊躇なくカーテンを開いた。
(……あ)
 露わになった寝台に横たわっている者の姿を見つけて、ロキは反射的に眉間にしわを寄せた。
 枕に頭を預けて瞼を閉じている彼は、見間違えようもなくヘイムダルだった。
 ヘイムダルも自分と一緒に気絶したそうだから、ここにいてもおかしくはない。そう、ロキにも理解はできるのだが、やはり同じ空間にいると知ると居心地が悪くなってくる。眠っているのがまだ幸いか。
「どうりで……帰りが遅いと思ったら」
 ため息混じりにフレイヤが言う。
 だが、その一言がヘイムダルにたいしてではないことに、ロキは一呼吸を挟んでから気がついた。
 寝台のヘイムダルのそば、立っているフレイヤのすぐ前に、椅子に座っている人物がひとりいる。その、長めの金髪に細かな装飾が施された髪飾りをつけた、突っ伏すように頭部を寝台の端に預けている少女が何者なのか、ロキは知っていた。
「……フノス……?」
 フレイヤの娘だ。
 思わず発したロキの声や傍らにきた母親に何の反応も示さず、上半身にかけられた薄い毛布の下で肩がゆっくりと上下している様子から、どうやら彼女も眠っているようだ。
(なんで、フノスがここに……?)
 フレイヤの目的はフノスであることがわかったが、そのフノスがヘイムダルのところにいる理由がわからない。
 新たに発生した謎にロキがしかめっ面を濃くする。
「フノスちゃんは、倒れたヘイムダルさんのお見舞いにきたのよ」
 シギュンが察したように小声で教えてくれたが、渦巻く疑問が完全に解消されるまでには至らなかった。ふたりの仲がそこまで良いということ自体、ロキには全く認識がなかったのだ。
 怪訝するロキの視界の中で、フレイヤが顔だけで振り返る。
「この毛布は、シギュン?」
 人差し指で示すのは、眠るフノスの体を温めている一枚の毛布。
「はい。起こそうかと思ったんですが、気持ちよさそうに眠っていたので……」
「そう。わざわざありがとう。――ロキ」
「なんだよ」
 未だ状況を把握し切れておらず、また突然呼ばれたことにロキが身構える。自分の疑問に答えが与えられるのかと淡い期待もわいてきたが、残念ながら、期待は期待のままで終わった。
「好奇心を発揮できるほど元気なら、こんなところにいないでさっさとお家に帰ったら? あなたとヘイムダルの面倒な口喧嘩に巻き込まれたくはないの」
 素気ない表情で淀みなく言い終えるや、フレイヤは返事も待たずに内側からカーテンを閉めてしまった。
 あからさまな嫌みでしかない言動に当然、ロキは反抗の気持ちを覚えたが何も言い返さなかった。代わりに舌打ちをしてから、胸の内に発生した負をため息に混ぜて外へと吐き出した。
 今日はもう心身ともに疲れてしまったのだ。不満はあるが、ヘイムダルやその他の奴とやりあう気分には到底なれない。
 ロキは視線を遮られた寝台から手前へと移した。
「シギュン、帰るぞ」
「体調は大丈夫なの?」
「これ以上ここにいるほうが悪くなる」
 唇を尖らせてロキが言えば、目の前の青の眼がいつものやわらかな印象を帯びて、くすりと笑みがこぼされた。
「わかったわ」
 シギュンにコップを手渡してロキは寝台から降りた。体勢が変わったことで一瞬足元がふらつき、たんこぶのある頭は未だにずきずきと痛むが、動くことに支障はない。
 シギュンが使い終えたコップを戻しに行く。
「………」
 ロキはカーテンに覆われた静かな隣の寝台を一瞥してから、彼女に続いて足を扉のほうへと踏み出した。

   ◆

 目が覚める。
(……ここは……)
 暗闇から一転、眩しくなった視界にヘイムダルは深い紫色の瞳を細めながら、自身の状況を把握しようとする。
「起きたのね、ヘイムダル」
 明るい光の先に天井があることを認識したとき、凛とした高い声音が鼓膜を震わせた。
 電灯の光が何かに遮られる。
 ヘイムダルの再起し始めていた思考が一瞬固まって後、遅れを取り戻すかのように高速で回転し出す。
 金の髪に、青の瞳。まるで装飾品のように艶やかな女性の顔を視界の中に認めて、ヘイムダルは息を詰めた。
「っ……、フレイヤ?!」
「どうも」
 反射的に口からこぼれた名前に、視線の先の彼女が微笑みを返してくる。
 けれど、神界一と謳われる美貌の持ち主から愛想を向けられても、ヘイムダルの心は全く休まらなかった。逆に、嫌な感覚を覚える。
 なぜ、フレイヤが自分の傍にいるのか。
 そもそも、ここはどこなのだろう。
 自分は一体……?
「ここは剣術大会会場の医務室よ。貴方は審判の判断でロキと引き分けになったの。といっても、実質は両者負けになったのだけれど」
 ヘイムダルが辺りを見回す前に、フレイヤがそんな言葉を寄越してきた。
「あ……」
 それに、ヘイムダルは思い出した。
 ――剣術大会のこと。ロキとの戦いの始終。
(引き分け? 負け? じゃあ、大会は……?)
 告げられた中に記憶にはない言葉に引っかかってヘイムダルが顔をしかめる。
 もう少しよく現状を確認したい。そう思ってヘイムダルは体を起こそうとしたが、背中を寝台から上げる前にフレイヤにほっそりとした人さし指の先端を額に軽く押しつけられて動きを制された。
「起き上がるのならゆっくりやって。もしフノスを起こしたら、怒るわよ」
「?」
 新たな疑問にヘイムダルは三度瞬き、起き上がるのを保留にして、フレイヤが目線でうながしたほうに顔を向けた。
 寝台の端の、横たわっている自分の腰上辺りの位置に、反対側にいるフレイヤと似た金髪の少女が椅子に座り、顔をシーツに預けるような格好で眠っている。
 ヘイムダルが深紫色の目を少し丸くする。彼女とは、昨日も昼間に会った。星の欠片をちりばめたかのような髪飾りのその持ち主を見間違えるはずはなかった。
「フノスは、気絶したあなたのお見舞いに来たのよ」
(俺の……? どうして?)
「本当、なんで、『あなた』なのかしらね」
 自分の思考をまるで覗き見ているような発言の間の良さに、ヘイムダルは思わずフレイヤに顔を戻した。
 夜が迫る空のような濃い青色をした双眸とまっすぐに視線が交わって、ほんのわずか細められる。
 その仕草に何やら意味が込められているようにヘイムダルは感じたが、それを読み取るまでには至らなかった。
 一つの深い瞬きを挟んで後、フレイヤが椅子から腰を上げる。
「じゃあ、ヘイムダル。フノスのこと、よろしくね。ちゃんと今日中に家に帰さないと、ただじゃおかないから」
「え……、連れて帰らないんですか?」
「あなたが起きないまま日が暮れたらそのつもりだったわ。でも、目覚めたし、体も平気そうだし。それに、一番はフノスの意思を尊重したいから。私はここで帰るわ」
「フノスの意思?」
 ヘイムダルが高まる困惑に思わず復唱して聞き返すと、フレイヤは態度に面倒臭いという感情をありありと滲ませた。
 ……見下ろされる形になる体勢のためだろうか、若干睨まれているようにも映った。
「本当、そういうところはロキにも負けないほどの鈍さね」
「っ、どういう意味……!」
「うるさい。そんなことでフノスを起こさないで」
 聞き流せない名詞を耳にしてついかっとしたヘイムダルだったが、冷静なフレイヤに起き上がる前に額を中指で弾かれて激情を散らされた。
「ま、そうやって、わりとすぐに大人しくなるから、あいつよりはましだけど」
「………」
 ヘイムダルが苦い面持ちを作る。一言でも返したかったが、何を言っても無駄な気がして唇は開かなかった。
 フレイヤが口角を上げる。
「そうそう。剣術大会はもう終わったわよ。優勝はチュール。頑張ったのに、残念だったわね」
「………」
「お大事に」
 言葉とは裏腹に気の毒さよりも愉しげな響きを残して、フレイヤがヘイムダルに背を向ける。そして振り返ることはなく、さっさと医務室から出ていった。
 扉が閉められる小さな音を寝台のカーテン越しに聞いて、ヘイムダルがため息を吐く。それは別に、大会の結果について無念を覚えたからではない。
(相変わらず……よくわからないな……)
 フレイヤの言動だ。とくに、フノスのことが絡むと見つけづらい謎を一層含むように思える。
 自分と娘が一緒にいることが気に食わないわけではないようで、しかし距離が近くなるのは不満のようだ。
 ヘイムダルは何度か理由を考えてみたことがあるが、答えどころか推測すら得られなかった。フレイヤに直接訊ねても、言いたくないのかあえて言わないのかよくわからず、疑問に一筋の光さえ差さなかった。
(フノスは、)
 ヘイムダルが残された女神の愛娘を再度見やった。
 安らかな寝息を立てているその顔はあどけない。起きているときの彼女の母親似のツンとした態度を思い返す。
(お見舞い、か。嫌われてはいない、とは思ってはいたが……)
 ――行方不明の父親を探すのとは無関係のこの場所にフノスは来てくれた。
 その事実を先程よりも深く認識すると、ヘイムダルは胸の奥から暖かくなるのを感じた。
(……起こすのは、まだあとでいいか)
 もう少しこのままでいてもいいかな、とそうヘイムダルは思って頬を緩めた。