邪神と軍神


「うっ……」
 うめき声をこぼして手で腹部を押さえた男が地面に倒れる。
 ロキはうつ伏せに横たわって動きを止めた男を正面から見下ろして、血のにじむ唇から細く息を吐き出した。
「軟弱って言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
 微かな痺れと痛みを発する右の拳を逆の手でおさえながら吐き捨てるように言ったが、とうに意識を手放している男から返事があるはずもない。
 足元の微動だにしない相手をとらえるロキの緑がかった碧色の瞳から猛る獣のような光が引いていき、かわりに空虚さをはらんだ闇が浮かんでくる。
 風が通り過ぎ、葉擦れの音や鳥の鳴き声が淡白に辺りに響く。
 高ぶった気分がいくらか落ち着いてくると、殴られた箇所から感じる熱と痛みが強くなってきてロキは顔をしかめた。渇いた口内に血の味がする。
(くそ……)
 こんなところにいつまでもいる意味は、自分にはない。
 さっさとこの場から離れようと体を動かしたとき、けんかで乱れた長い黒髪が視界を遮るように顔の前に垂れてきた。うっとうしくて、ロキは頭を横に振り、左手で後ろに髪を払った。
 ふと、適当に目をやった場所にこちらを見ている数人がいることに気がついた。
 遠巻きの見物者達に不快感を覚えてロキが睨みつければ、皆一様に空々しく目をそらした。
(文句も言いにこれないのか)
 ロキは舌打ちして視線を外し、倒れた男を一瞥することもなく足早に歩き出した。
 体の周りで揺れる黒髪は乱れ、唇や鼻や額には流血の跡が残り、服にもところどころ赤茶けた染みが付着している。端正な顔がときどき痛みに歪む。
 荒事を起こしたあとだと明らかにわかる出で立ちのロキに、通りかかった誰もが視線を寄越す。しかし、そこに含まれているのは心配や同情といった類いのものではない。
(ちくしょう)
 遠慮なく向けられる侮蔑や好奇な目に雑言を吐きたくなるが、感情と距離を置く賢明な思考がこれ以上の問題は起こさないほうがいいと判断を下して、ロキは苛立ちを胸中に堪えて歩き続ける。
 向かう先は、居候しているオーディンの館でも、エイルの診療所でもない。目指しているのはとにかく人気のない場所。求めているのは傷の手当てよりも、泡立った心を静められる時間だ。
 建物が並ぶ居住区を一度も立ち止まることなく抜ける。周囲から建造物がなくなり、視界が開ける。時刻はすでに昼下がりを過ぎてそろそろ夕闇が迫り始める頃で、木や草花ばかりの場所に人影は見えない。
 ……この辺なら、よさそうだ。
 ロキは長く伸びた木陰の中に腰を下ろし、ゆるゆると草の上に仰向けで横になった。傷に響かないようにゆっくりと呼吸しながら瞼を下ろす。全身の力を抜いて、心臓の鼓動をとらえ、自分が淡い薄黄色の光に包まれていくのを想像する。擦り傷、切り傷、打撲……身体にできた傷が一層強く熱を発して、深い一呼吸のあと、ほどけるように熱だけでなく痛みも消え去っていった。
 頭の中に満ちていた暖色の像が溶けるように闇に沈んでから、ロキは瞼を開いた。一つ息を吐く。
「………」
 魔術によって外傷は治ったが体はだるく、ロキはすぐに起き上がる気にはなれなかった。枝葉の間からこぼれ落ちてくる陽光に碧眼を少し細めて、肌を撫でる風の軽い感触と木々の葉擦れの音を耳にしながら、寝転がった状態でぼんやりとする。
(……誰だ?)
 静けさの中に草を踏む音と誰かが近づいてくる気配を察知して、緩慢に漂っていたロキの意識が急速に現実へ戻った。
 すぐに半身を起こして、気配のほうに振り向く。こちらに歩み寄ってくる人物がひとりいる。ロキは警戒心を強めて顔をしかめた。
 耳のあたりで短く整えられた黒みをおびた茶色の髪に、それよりかはいくらか明るい同系色の瞳をした男だ。服の上からでもわかる均等に筋肉のついた体は、男が戦いに慣れていることをうかがわせる。けれど、屈強な容姿ながらもまとう雰囲気には不思議と、戦の中に身を置く者特有の荒々しさは感じられない。
(あいつは……軍神のチュール、だったか)
 近づいてくる視界の男のことをロキは記憶から引っ張り出したが、名前と簡単な役割ぐらいしかわからなかった。
 軍神とも戦神とも呼ばれているチュールとは、これまで交流をしたことがほとんどないからだ。会話程度で、それも一言二言の挨拶ぐらいで回数も少ない。チュールのことを他者に尋ねたこともないため、具体的にどんな人物なのか全くといっていいほど知らない。
(俺に用なのか……?)
 少なくともロキには、今チュールと顔を合わせる必要性は感じていない。偶然こっちの方向に歩いているだけか、気のせいかとも考えたが、目的地になりそうな場所は周囲に見当たらない。
 疑問に思っている間に距離が縮まる。チュールの足はまっすぐロキのほうに向けられたまま、やがて、二歩ほど手前で立ち止まった。
 身構えるロキを茶色い双眸が見据える。
「ロキ、またけんかをしたそうだな」
 チュールが発した第一声はそれだった。その口調は穏やかで、表情には一欠片の険しさもなく、咎めている様子ではない。
 しかし、ロキは警戒心を緩めず、碧眼に剣呑な光をにじませて言葉を返す。
「だったら、なんだ。あんたも俺にけんかを売りにきたのか」
 ロキが今回のような殴り合いのけんかをしたのは、これが初めてではなかった。ここアースガルドにアース神族として仲間入りをしてからもう何度もしている。
 けんかの原因は、ロキの出身に関してがほとんどだ。他に、アース神族の長であるオーディンに気に入られているという理由も少なからずあるのだろう。
 発端はいつも他の神々なのだが、因縁をつけられたらロキは受け流さずに相手の気分を逆撫でするような応酬をするため、しょっちゅう殴り合いのけんかに発展してしまっている。もっと柔軟に対応したほうがいいとオーディンには何度か言われ、ロキも頭ではわかっているのだが、生まれ育った場所での習慣はそう簡単に変えられるものではない。
 だから、今も眼前に立つ相手が自分よりも地位の高い者だとわかってはいるが、けんか腰の態度をやめることができない。
 だが、チュールはロキの無礼を全く気にした様子なく、眉一つ動かさずに平静に会話を続ける。
「いや、違う」
「じゃあ、何しにきたんだ」
「おまえのけんか相手だった男は、おれのところの召使いだ」
(……なるほど)
 けんかではなく、報復にきたのか。
 チュールがわざわざこんなところにまで足を運んできた理由をそう決めつけて、ロキの双眸は鋭さを増して半眼になった。
 今までよりも格上の相手だ。今回はさすがにオーディンに手酷く怒られるかなと頭の端で思いながらもロキに引く気はなく、軍神の相手をするために立ち上がる。
 そのつもりだった。
(なんだ?)
 腰を浮かそうとしたとき、目の前の相手から妙なものを感じた。
 ロキは心に引っかかった違和感の正体が気になり、動作を止めて探るようにチュールを見据えた。
 あれだけ敵意を受けてもその表情は無に近いままで、落ち着いた雰囲気もやってきたときと変わりない。見返してくる茶色の瞳にも、とがったものは見受けられない。しかし、ほんの少しだけそこに変化があることにロキは気がついた。冷静さと穏やかさの中間の双眸に、それらとは別の感情がうっすらと浮かんでいる。
 怒り、ではない。
「ロキ」
 チュールがどこかあらたまったように名前を呼んでくる。その声色を耳にしてロキははっとした。彼が抱いている感情の正体がわかった。
「謝罪なんて聞かないからな!」
 相手の続くだろう言葉を遮りたくて、ロキはとっさに声を荒げていた。
 突然の怒号にチュールは目を瞬いた。その顔に小さな驚きと疑問が浮かぶ。
(冗談じゃない……!)
 相手の反応が己の考えを肯定していた。
 波立った感情が自尊心を傷つけられたことによる苛立ちに変わる。チュールが自分のところにやってきた本当の目的を悟って、ロキは奥歯を噛み締めた。
 茶色の瞳に見えたのは、ロキへの詫びと心配の色だった。チュールは報復をしにきたのではない、けんか相手だったあの男の主人として謝りにきたのだ。普通なら、自分よりも格の高い者と問題を起こさずにすんだことを喜ぶべきなのだろうが、明るい感情は少しも浮かんでこない。
 同情、憐れみ……チュールの行動の意味をロキはそう受け取った。それらはロキにとって何よりも嫌いなものだ。謝罪されるぐらいなら殺気を向けられたほうがましだ、と物騒なことさえ思ってしまうほどに。
「ロキ」
 チュールが再び名を呼ぶ。まるで、最初とは別種の怒りを向けるロキの思いを読み取ろうとするかのように、静謐な瞳で見つめてくる。
 今度は何を言う気か、また謝るのか、と身構えるロキに、チュールはゆっくりと言葉を重ねた。
「けがは大丈夫か?」
「……魔術で治した」
 ぶっきらぼうにロキが答える。
「そうか」
 チュールが小さくうなずく。それ以上の言葉はなかった。チュールは踵を返して元きた道を歩き出す。
(なんだったんだ……?)
 きたときと変わらない静かな足取りで居住区に戻っていくチュールの背中を、ロキはどこか気の抜けた表情で見送った。
 自分の思いを汲み取ったのか、それとも諦めたのか。けがについて尋ねるだけで去っていったチュールの思考の動きが、ロキには全く理解できなかった。
 だが、胸中には不完全燃焼といった感じの澱が残ってはいるが、面倒な状態から脱出できたことはたしかだ。
 ロキは軍神を訝しむ自分自身に、あんな奴のことは気にするな、と言い聞かせて吹っ切るように居住区に背を向けた。
 気づけば、陽光はすでに朱色をおびて、大気は夜の冷たさを含み始めている。あと一時間もすれば、辺りには闇が降りることだろう。
「………」
 暗くなる前に帰るべきか。そう思いながらも、ロキは一向にその場から動くことができなかった。何をするわけでもなく、刻一刻と周囲から光が弱まっていくのを見るともなしに眺める。
 夜の気配が濃くなっていくにつれて怒りは冷め、しかし心は安定するどころか暗く沈んでいく。
 産まれ育った巨人の世界を裏切るように去って、自分はこの、神の世界にやってきた。きっかけは偶然だったとはいえ、自分の現在と未来を変えることができる好機だと思った。だから、ここにくることを選んだ。
 なのに、このざまだ。
(くそ……)
 ロキは頭を左右に振って、額に手をあててうつむいた。
 これでは、ヨツンヘイムにいたときと変わらない。
 頭の中に薄暗い景色が浮かび上がってきて、息苦しさと鈍い胸の痛みを感じた。
 記憶の中から、自分と同じ色合いの双眸がこちらを見つめてくる。その眼差しに温かみはない。あるのは拒絶するような、冷えきった感情だ。
「――ロキ」
「!」
 突然そばで聞こえてきた声に、ロキは怯えたように体を震わせた。
 振り返って、目を見開く。
「どうかしたか?」
 そばにいたのは、帰ったと思っていたチュールだった。ロキの傍らに片膝をついてじっと視線を返してくる。
「チュール……? なんで……戻ったんじゃ……いいや、また、何しにきたんだ……?」
 記憶を引きずる意識と現実をとらえる思考がうまく噛み合わず、途切れ途切れになりながらもロキはなんとか尋ねた。
「ここに着いたのは、おまえが顔を下げていたときだ。おまえにこれを持ってきた」
 チュールが答えて、ロキの前の地面に水の入った小さな木桶を置いた。そのふちには乾いた白い布が一枚かけられている。
(……どういうことだ?)
 眼前に現れた謎に、乱れていた意識と思考が引かれて落ち着く。
 ロキは木桶を五秒ほど見つめたあと、チュールに視線を戻した。
「なんで、木桶と布なんて持ってきたんだ?」
「……ブラシのほうがよかったのか?」
「そういう意味じゃない!」
 乱れた黒髪をまじまじと見つめて小首をかしげたチュールに、ロキは思わず大声で突っ込み返してから疲れたように息を吐いた。
(本当に何なんだこいつは)
 しかし、ロキの困惑に気づいた様子はなく、チュールは相変わらずの調子で会話を続ける。
「オーディン様のところに帰る前に、顔についた血をふいておいたほうがいいと思ってな」
(血……?)
 疑問に思ってロキが顔を触ると、指の腹にざらついた感触がした。見れば、赤茶色をした粉っぽいものがついている。乾いた血液だ。
「………」
 ロキはチュールに何か言うべきだと思った。が、何を言えばいいのかわからず、結局、顔をそらすように無言で木桶を見下ろした。水面にぼんやりと映る自分は無愛想で薄汚れていて、なんだか情けなく映った。
「ロキ。ここでの生活にまだ慣れていないのはわかるが、あまり問題は起こさないほうがいいぞ」
 水面が微かに揺れる。
 チュールが動く気配がする。
 ロキが少しだけ顔を上げれば、チュールは立ち上がり、背を向けて歩き出したところだった。
 声をかけるのなら、今ならまだ間に合う。
「………」
 しかし、やはり言うべき言葉は見つからなかった。
 木桶と布を残して、チュールは一度も振り返ることも立ち止まることもせずに居住区のほうに去っていった。
 ひとりきりとなったその場を夜の気配とともに静寂が包む。
 最後までよくわからなかった。チュールの真意は何だったのだろうか。自分のところにきたのは言動の通りなのか、何か裏があってのことなのか。
(……変な奴だ)
 ロキは先程のことを思い返してしばし考えたが、たどり着けた答えはそれだけだった。あの軍神への謎は解けそうにない。逆に、深く考えれば考えるほど謎がこんがらがっていく感じがする。
(……どうでもいい)
 あいつと自分とでは根本的に思考が違うんだ、とそう結論づけて、ロキは残された物のほうに思考も視線も移した。
 ――これは、どうするべきか。
 施しを受けるようなのが癪で、木桶をひっくり返して中身をぶちまけて放っておく、という考えが真っ先に浮かんできた。が、そんな子供じみたことをしたらすっきりするどころか、みじめになるだけの気がした。
「……ちっ、うっとうしい」
 しばらくの逡巡の末にロキは布を手に取った。清潔感あふれるそれを強く一睨みしてから、やや乱暴に桶の水の中に手ごと突っ込んだ。

   ◆

「ロキ、出かけるなら、ついでにこれを返しにいけ」
 館の玄関で突然、背後から声をかけられた。
 扉に手をかけるのをやめてロキが振り返ると、オーディンが立っていた。自分に伸ばされたその片手には、ふちに一枚の白色の布がかけられた空の木桶がある。
 見覚えがある。
(これって……)
 数日前にチュールが、けんかでけがを負った自分へ持ってきたものだ。
 悟った瞬間、ロキの表情が苦く歪む。
「自分で借りたものは、自分で返しにいくのが道理だろう」
 拒否の気配を漂わせたロキに、オーディンがすかさず正論を説く。
 その通りだ。相手の言葉の正しさは深く考えずともロキにもそうわかったが、受け取ることはできなかった。眼前の『借り物』を睨みつけるように見つめる。
 ――だめだ。返しにいくなんて面倒くさい。
 見れば見るほど強くわき上がるのは、嫌気だ。
 これを持ってきたチュールの真意が結局わからなかったロキにしてみれば、勝手に持ってこられて返す間もなく相手が去ってしまったのでしかたなく受け取った、という認識である。借りたいと思ったわけではないのに、どうして自分がわざわざチュールの館まで返しに行かなければならないのか。納得できない。
 それにロキはあの一件以来、チュールに会いたくなかった。実際、今まで会っていない。あのときから、チュールのことを思い出すだけでなぜか妙に嫌な気分になるのだ。
「ロキ」
 オーディンが名前を呼ぶ。
 視線の交わった灰色の隻眼が、さっさと受け取れ、と無言の圧力を放っていることに気づく。
 受け取らずにこの場を切り抜ける方法は、悔しいことにロキには浮かんでこなかった。
「……わかったよ。返しに行けばいいんだろう」
 ロキはしぶしぶ木桶と布を受け取った。


「くそ、なんで俺が……」
 愚痴を吐きながら、ロキは借り物を片手にチュールの館に向かっていた。
 了承の返事をしてしまったからには、返しにいくのをやめるわけにはいかない。やめたら、これよりももっと面倒くさい事態に陥ることになる。オーディンが絡んでしまった以上、その可能性が高い。
「くそ……」
 いくしかない、それしかない、と頭では覚悟しているが気分は一向に上向かない。むしろ、目的地に近づくにつれて心も足もどんどん重くなっていく。
「とにかく返せばいいんだ。渡して、さっさと帰ればいいんだ」
 念じるようにロキは自分に向かって小声で言い聞かせる。
 チュールと他に何かする必要はない。借り物を返せばいいだけだ。
 館から出ていくときに背中にかけられた、「礼を忘れるなよ」というオーディンの言葉はこの際耳に届かなかったことにする。
 それに、チュールが不在の可能性もある。そのときは召使いに渡せばいいのだから、そこまで憂鬱になることはない。
(いや、まてよ)
 『召使い』で思い出すものがあり、ロキは顔をしかめて木桶に目を落とした。
 これを渡されることになったきっかけのけんかの相手は、たしかチュールの召使いだったはずだ。
「………」
 気楽さが急速に減少し、行きたくない思いが一気に増大した。
 もういっそのこと玄関の前に置いてくればいいか、とロキが自尊心を捨てた発想をし始めたとき、金の装飾がほどこされた建物が視界に入ってきた。
(あれだな)
 進行方向に見えるのは、目的地であるチュールの館だ。ロキが居候しているオーディンの館と比べれば一回りは小さいが、それでもアース神族の中では高い神格をもつ者らしい立派な建物だ。
 ロキはさらに強まる引き返したい気持ちをぐっと堪えて、重い足を前に進める。
 視界に映る建物が、少しずつ大きくなってくる。
 残り、三歩、二歩、一歩……玄関の前で立ち止まる。扉を見据え、呼吸を整え、ロキは呼び鈴に手を伸ばした。
「――ロキ?」
「?!」
 できれば聞きたくなかった声音が自分の名前を呼ぶのを耳にして、ロキは反射的に手の動きを止めた。
 空耳かとも一瞬考えたが、周囲に向いた意識が背後にこちらへやってくる足音とたしかな気配を感じ取る。間違いないようだ。
 ロキは反応するのを躊躇ったが、ここまできて無視をするわけにもいかない。手を下ろして、背後に振り向いた。
「……チュール」
「どうした、何か用か?」
 予想した通り、館の主であるチュールが立っていた。
(なんでだよ……)
 最悪な事態に内心戸惑いながらも、ロキは手に持っていた布つきの木桶を突きつけるようにチュールに差し出した。
「返しにきた」
 チュールはすぐには受け取らなかった。眼前のそれが何なのか考えるように無言で五秒ほど見つめてから、木桶を手に取った。
「わざわざすまないな」
「別に……じゃあ、俺はこれで……」
 ロキは一秒でも長くその場にいたくはなくて、適当に別れの言葉を口にすると、相手の返事も待たずに足早に横を通り過ぎた。
 チュールが呼び止めてくることはなかった。彼がどんな表情をしているのか、少し気になったが振り向いて見る気にはなれなかった。
(ああ、疲れた……)
 歩いてきた道を戻りながら、ロキは安堵と疲労感から深く息を吐いた。

   ◆

「………」
 ロキの後ろ姿を見送ったチュールは返された木桶と布に視線を落としたあと、自身の館の屋根を見上げた。普段ならとがった建物の先は空だけが広がっているが、今は青い背景に一つの黒い影がある。
 大鴉だ。
「もしかして、早急に館に帰れとの指示はこのためか?」
 投げかけた言葉に呼応するように、屋根の上の大鴉が翼を広げてチュールのそばまで滑空してくる。
「ゴ苦労サマ」
 横を過ぎる際に無機質な声色でそう一言発すると大鴉は上空に舞い上がり、そのまま飛び去っていった。瞬く間に黒い影は小さくなっていく。
(……なるほど)
 チュールは影の消えた景色から視線を外して、もう一度、手元の返されたものを見た。
(オーディンにはお見通し、か)
 軽く苦笑をこぼすと、白い布がのせられた木桶を持って館の中に入った。