神ニ祈ル


(これは、どういうことなんだ?)
 眼前に広がる光景に、ロキは困惑した。
 顔をしかめて、端から端まで碧色の瞳を走らせるが、戸惑いは解消されるどころか強くなっただけだった。
 主神オーディンからの命令で、アースガルドからミッドガルドに降りたロキが目的地として到着したそこは、すでに人間は住んでいないと一目で察しのつく、廃れた村だった。放棄された住居群はそばに寄らずとも、造られた役目が満足に果たせないことがわかるほどに腐敗している。動くものはといえば、風によって揺れて乾いた音を立てる植物や、地面を転がる何かであった物の破片だけだ。生物がいる気配はまるでない。
 戦に巻き込まれたのか、盗賊にでも襲われたのか。それとも、住むことに不具合が生じたのか……。
 だが、どれであろうとなかろうと、今のロキにとっては、残骸となった村の原因についてはどうでもよかった。
 最も考えなければいけない疑問は、眼前の村のことではなく、なぜこんな廃墟に自分がいるのか、ということだ。
 まず、教えられた道を間違えたのではないかと思った。しかし、会話やそのときの胸中などを鮮明に思い出すことのできるほどに真新しい記憶と、辿ってきた道のりを何度照らし合わしてみても、寸分の違いはなかった。自信を持ってそう断言できる。
 次に他の可能性として考えられたのは、この仕事を言い渡してきたオーディンが指示を誤ったことだ。だが、その推測は浮かんですぐに「ない」と自分自身で否定した。
 あの抜け目のないアース神族の主が仕事に必要な事項を間違えるとは到底思えなかった。現に今まで、そのときに与えられた情報に誤りはなく、また、あったという話も聞いたことはない。伝え誤りの可能性はほとんどゼロに近いだろう。
 それなら、考えられることは一つ。
 消去法で残ったのは、否ではなく正だった。つまり、ここが正しい。この廃村が告げられた目的地だということだ。
 だが、ロキは納得できなかった。導き出した答えが正解だとして、ここでどうやって仕事をしろというのか。
 今回、ロキがオーディンから任された任務は、とある人間の暗殺だ。指示した場所にいる人間を殺めてこいという、単純明快なもの。殺す理由について、ロキは知らない。言われなかったし、聞かなかったからだ。全く気にならないわけではないが、尋ねたところでまともな答えが得られるとは今までの経験からして思えなかった。今回の任務は何日も拘束されるような類ではないため、面倒の度合いは低いと感じ、問答を無駄に繰り広げるよりかはさっさと引き受けたほうが賢明だと判断したのもある。
 しかし、現実はどうだ。目的地に着いたはいいが、人間なんてどこにもいない。こんな場所に誰かがやってくるとも思えない。
「何を考えているんだ、あいつは」
 よろしくない機嫌をさらに悪くして不満を独りごちる。
 暗殺以外の命令は聞いておらず、こんなところで何をどうしたらいいのか、さっぱりわからない。
(……帰る)
 ロキはほんの少し逡巡して、引き返すことにした。アースガルドに戻ってこのことをオーディンに問いただしてやらなければ、この無駄足の怒りはおさまりそうもない。
 しかし、ロキのその決定は行動に移されることはなかった。
 不意に、微かな物音と、はっきりとした生物の気配を感じた。
 ロキは素早く後ろに振り返った。気配の正体を視界にとらえるや、不審と警戒から碧眼を細めた。
 そこにいたのは、人間の若い男だった。外見から推測するに年齢は二十の後半、身長はロキよりも頭一つ分ほど高く、鎖帷子を身につけた体からは、戦うために必要な筋肉が備わっていることを離れていても見て取れた。
 明らかに、通りすがりの旅人、といった風体ではない。
 青年はロキと視線を交差させても、微動だにしなかった。まっすぐ向けられている瞳や態度からして、ロキがここにいることにたいしての驚きは微塵もないようだ。
(さて……)
 ロキは現れた人間を注視して、どう対応するべきか考えた。一見してすぐに、目の前の相手が自分を目的としてやってきたことは察せられた。その目的がどうしてなのかはわからないが、なんであるかはまとっている雰囲気から大方予想はついた。
 碧眼を見返す黒の双眸は磨き上げられた矛先のように鋭い眼光で、見かけは落ち着いているように映るがたしかな強い殺気を放っている。
 無視はできない。したくとも、させてはくれないだろう。
 だから、本当は面倒事は嫌だが、ロキは口を開くことにした。
「何の用だ?」
「………」
 寂れたその場に響いたのは返答の声音ではなく、鋼のすれる冷たい音だった。青年が腰におびていた剣を抜き、慣れた様子でかまえる。
 ――おまえと交わす言葉はない。
 一連の動作が、そうロキに告げていた。
 なんとなく予想はしていた展開だったが、実際になってみると頭痛がしそうだ。
 ロキは内心辟易しながらも、言葉を重ねることにした。命をかける理由のわからない戦いほど、望まない戦いはない。
「いきなり物騒だな。自己紹介もなく、決闘の申し込みとはいささか無礼じゃないか? あんたは何者だ? どうして俺に剣を向ける?」
「………」
 だが、待っても返事はなく、剣をしまう様子もない。
 ロキは警戒しつつもまだ臨戦態勢はとらずに、今度は若干語気を強めた。
「俺はあんたと剣を交える関係になった覚えはない。復讐の相手でも探しているのなら人違いだ。無駄な時間と力を浪費する前に、さっさと帰ったほうが賢明だぞ」
「おまえの記憶にはなくとも、おれにはある」
「……なんだって?」
 一拍、反応が遅れた。正直なところ、返答をほとんど期待していなかったからだ。
 先の台詞の何が、青年の心を揺さぶったのだろうか。
 だが、それがわかったとしても、事態は願っているような好転にはならないのだろう。
 わずかに表情を崩したロキとは対照的に、青年の険しい顔つきは全く微動だにしてない。
「家族の嘆きと恨みをこの剣で晴らさせてもらう」
 変わらず声音は低く、隠そうともしない黒々とした感情が含まれていた。
「おい、」
 待て、とロキが放たれた台詞の真意を尋ねる時間はなかった。
 青年が地面を蹴り、銀の刃が迫る。
 ロキは舌を打ち、応戦のために腰の鞘から短剣を抜いた。
 踏み込んできた青年の剣を正面で受け止める。
 腕につたわる一撃の重さ。鋼の間で散る火花。それらが眼前の相手の本気を雄弁に物語っていた。
 けれど、向けられる殺意の理由が、ロキには全くわからない。だが、素直に殺されるつもりは毛頭ない。
 ロキは手首を返して、叩きつけられた刃を外側に流した。そのまま間髪入れずに斜め下から切り上げにかかったが、短剣が触れるものはなかった。
 紙一重でかわした青年は後退して、距離を取った。
 ロキは追撃しなかった。
 互いに武器をかまえ直し、一挙一動を睨み合う。
 不穏な沈黙は、長くは続かなかった。
 青年の斬撃が再びロキを襲う。
 ロキは迎え撃ったが、容赦のない鋼の一手を自身に接するのを防ぐ程度で、本格的に攻めには転じなかった。
 相手の力量は最初の一撃でほぼわかっている。この人間は強い。だが、修羅場を数えるのも億劫なほどくぐってきたロキからすれば、恐れるような相手ではない。
 しかし、勝てるとわかっていても威嚇以上の攻撃をする気にはなれなかった。可哀想などという慈悲の心からではない。今回のオーディンからの仕事に、見ず知らずの人間からの殺意と、答えの出ない出来事の連続から生じたわだかまりが、目の前の青年を打ち倒すことを引き止めていた。
 攻防はほぼ防御に徹して、ロキは胸中でからまった糸をほどく方法を探る。
 ――家族、嘆き、恨みを……晴らす。
(なんだ……?)
 ふと、思い返した青年の数少ない台詞にひっかかりを覚えた。
(もしかして……)
 それらが意味するところを理解した途端、糸がほどけ始めた。
 探していた方法は、青年の発言の前にロキが自分で口にした言葉にこそ、あった。
 復讐、だ。
 何気なく混ぜていたその単語が答えを導く鍵だった。皮肉なことに、特に深い意味をこめずに言った台詞が、聞いた相手にとっては真実だったのだ。
 青年の一撃の重さを、ロキは改めて意識する。
 これは正真正銘の復讐のための戦いで、その対象は他の誰でもなく、自分である。
(くそ……)
 今のロキには、青年が向ける感情の刃を無視することはできなかった。
 はっきりと心当たりがあった。
 しかも、それは今回と同じく、オーディン絡みの出来事で。

   ◆

 一ヶ月前のよく晴れた日。その厄介ごとは何の予兆もなく、突然にやってきた。
 正面の樹木に舞い降りてきた一羽の大鴉に、ロキは表情を曇らせた。
 微かな眩暈すら起こしそうなほどに光のあふれる周囲にたいして、やってきた者の姿は対極的であるが、かすむ気配は微塵もない。むしろ反対に、清々しかった空間とロキの気分をその真っ黒な身によって濁らせた。
 ――不吉の使者。
 視認したロキの脳裏に、そんな言葉が即座に浮かんだ。ただしそれは、一般的に鴉という動物に付きまとうイメージからの比喩ではない。ロキにとっては言葉通りの相手なのだ。まさに現在の自分にとって不穏を呼ぶ使い。大鴉を見た瞬間、嫌な予感がした。できることなら逃げろと、本能が警告している。
 全身にのしかかる不快な気分を感じながら、ロキは威嚇するように碧色の双眸を鋭く細めた。
 しかし、睨み付けられても大鴉に動じた様子はない。己が他を凌駕するのが当然だといわんばかりに堂々とそこに鎮座して、しかと見返してくる。
 逃げたい。が、できない。
 たとえそうできたとしても、一時的の回避以上にはならないということが誰に指摘されずとも、冷静な頭の隅で理解してしまった。
(なんで俺なんだよ)
 こいつが知っているあいつではない、というささやかな希望さえ抱けないのをロキは悟る。もう受け入れるしか選択肢はなかった。
「……用件はなんだ」
 仕方なく、ロキは口を開いて問うた。発した声音には、運動もしてないのにいささか疲労感がにじんでいた。
「届ケモノ」
 耳に届いたその声音は女か男か判断のつきづらい曖昧なもので、主語も述語もない要点のみの言葉に感情の色はとらえられなかった。それは視界の大鴉、もといオーディンの使者たる相手から発せられたものだ。
(届け物?)
 ロキが眉根を寄せる。
 わざわざミッドガルドにいる自分のところに使いを出してまでの『届け物』とは何なのか。ロキには思い当たる節はなかった。
 抱いた疑問を察したかのように、使者が抑揚のない声で言葉を続ける。
「コレ、手紙」
 太いくちばしで、自身のかぎ爪あたりを示した。
 ロキがそこに視線を落とすと、脚の付け根に細長い円筒の入れ物がくくりつけてあった。
 大鴉が一度、翼をばさっという音が立つほどに大きく動かす。それが、手紙を取って読め、という意味だということはすぐにわかった。
 逃亡の余地はないため、ロキはおとなしく現実を受け入れて、嫌々ながら円筒を手に取った。大儀そうにふたをあけて、入れ物から丸められた紙を引き抜く。長方形の紙を伸ばして内側を見ると、普通の手紙にあるような宛名も差出人も前文の挨拶もなく、用件のみが短く書いてあるだけだった。
 ロキは、手紙というよりも最早覚書のような小さな紙切れに綴られた文字列を視線でなぞっていく。読み終え、内容を理解するまでには一分とかからなかった。
「復讐の手伝い……?」
 つぶやかずにはいられなかった。今回の仕事に対する怪訝が顔に浮かぶ。
 紙面には、『人間の復讐の手伝いをしろ』という命令と場所が記載されていた。
 ロキが手元から目を上げて探るように使者を見るが、身体と同色の眼は口とともに何も語らず、自分の姿をただ静かに映しこんでいるだけだ。
「………」
 ロキは唇を閉じた。追求はしたい気はあったが、しなかった。
 眼前の使者が、抱いた疑問の答えを持っている確率は低いだろうし、先程のあれは返答を期待して発言したわけでもなかった。ただ普段とは異なる仕事の内容に違和感を覚え、声に出さずにはいられなかったのだ。
 しかし、実際に音として耳で聞いてみても、釈然としなかった。
 復讐という物騒な任務が、なぜ自分に割り当てられたのか。オーディンの単なる気まぐれか、あるいは、何かしらの意味があるのか……。
 手紙には一切記載のないそれらの疑問の答えは、意外なところから返された。
「受ケタ祈リニハ応エルベキ」
 沈黙を有していた大鴉が、ロキの考えを読み取ったかのように不意に口を開いた。
 相変わらずの前後が削ぎ落とされた物言いで、外面からは内心を全く窺えなかった。
(受けた祈り……つまり)
 返された言葉が指し示すところをロキはすぐには見つけられなかった。胸中で三度ほど反芻してようやく、人間が復讐のために自分に祈りを捧げた、ということを把握した。だから、今回の任務が己にきたのだということも。
「幸運ヲ祈ル」
 呼びかけて制止する暇はなかった。
 まるでロキの疑問が解決するのを見計らったかのようにその一言を別れの言葉として、使者は漆黒の翼を広げた。ロキが気づいたときには、すでに黒色の身は空高く飛翔していた。
 せっかくの一人旅の最中に唐突に現れて、己の用事を果たしたら相手の返答も聞かずにさっさと帰っていく……実によく主人に似た大鴉にロキは舌を打った。
 オーディンの使者が空の彼方へと消えていくのを見届けて、ロキは再び視線を手中の手紙に落とした。
 もう一度、確認するように文を読み直して、口元に自嘲と不思議を混ぜた笑み浮かべる。
「俺に祈りなんて……奇特な人間もいたもんだ」
 紙を握りつぶして、ロキはその稀なる祈願者に向かい重い足を進めた。


「――殺してくれ、必ず」
 それが、復讐を望む人間からの具体的な内容だった。
 最初、ロキが現れたとき、人間は半信半疑といった反応を見せたが、その疑いと躊躇いはほんのわずかのことだった。目の前の来訪者が祈りを捧げた神だという明確な証拠がないにもかまわず、少ない会話から信じた様子で、すぐに願った復讐について話し始めた。
「……わかった」
 ロキは仕事の内容や対象相手に関しての必要な情報を細かく聞いたが、私情だけはその語りを遮った。
 ロキにとって、他者の想いはどうせ理解できないもので、また、積極的にしたいとも思わないものなのだ。もし、少なからず感じるところがあったとしても、同情は仕事の精度を狂わせるものにしかならない。その考えから、なぜ人間が復讐をしたいのかまでは詳細に聞かなかった。単純に、時間がもったいないというのもあったが。
 人間は病から床に臥し、余命は幾ばくかしか残されていないようだった。そのため必然的に、復讐はロキが人間を手伝うというよりも、発案から実行までの全てを独りで行うことになった。
 結局そうなるのか、と心の中でロキは愚痴を吐いたが、複数でよりも単独での行動を得意とする性分である。すぐに、足手まといがいるよりはましだな、と思い直した。
 人間との会話を終えたあと、まずロキは対象相手の行動の調査をした。数日をかけて、日課や交友といった仕事に利用できそうな情報を集めた。
 失敗が許されないことから、慎重を要するその作業はあまり好むところではなかったが、怠けたくなる気持ちを堪えて情報収集に時間を費やした。そこには当然、失敗したくないという気持ちがあったからだが、それ以外に、オーディンが何かしらの方法で自分のことを監視している可能性があるというのを今までの経験からわかっているからだった。結果が悪いと、どんな目に遭わされるか、大方見当がつくから気を抜くわけにはいかない。
(早く終わらせたいな)
 今日も、唯一自由となるわずかな睡眠のあと、清々しさのあまり悪態を吐きたくなるような朝日の下で、ロキはいつもの場所にいた。碧眼を昨日と同じく、詳細に外観を語ることのできるほどに見飽きた建物に向けて、来るべき瞬間を待っていた。
 神としての義務とはいえ、どう考えても乗り気になれない。それに、誰かの祈りに応えて働くというのは、ロキにとってはいささか奇妙な気分だった。今までにあっただろうか。胸中がなんだかむず痒く、浮かぶ感情は喜怒哀楽のどれに当たるのかはっきりとわからない。
 全く上がらない気分のせいで、気を抜いたら弛んでしまいそうになる緊張感をこれからの行動の枷にならない程度に保ちながら、ロキは根気強くその場にひそみ続ける。
 今日は、今までやっていた情報収集のための観察ではない。ようやく復讐の構想が固まり、決行のときを迎えたのだ。
(そろそろ、か……)
 ロキが思ったのと同時に、視界に映る扉が開いた。建物から出てきたのは一人の、若い人間の女だ。
 その人物が待っていた人間だということを頭の中で確認すると、ロキは一度深呼吸して心を落ち着かせたあと、行動を開始した。物陰から出て、対面する相手に不愉快を与えない受けの良い表情を作って女に歩み寄った。
 復讐の方法は、手っとり早く自分で手を下すなど様々な発案があった中で、ロキは『不和を起こす』ことにした。利用できそうな人間の一人に接触して、内部での抗争を引き起こすためのもとを送り込むのだ。昔から何度も使い古された手段だが、自分と相手の能力を考慮した結果、最良の方法だと確信している。
 仕事は、そんなロキの計算通りに順調に進んだ。
 家の関係者とそれなりの親睦を深めて、得意の甘言とともに美しい外形の奥に悪意をひそませた贈り物をする。それを境に人間との接触は断ち、あとはただ起こる時期を待った。
 復讐の種はほどなくして芽吹き、滞りなく成長し、成果を実らせた。
 ロキが仕事を始めて半月目の朝、嫌というほど目にしてきた建物は様変わりしていた。
 碧眼に映るそれは、記憶にあるよりも黒く、最早住居の体を成していない。そこにあったものは本来の色を失い、地に乱雑に崩れ落ち、焦げ臭いにおいを漂わせている。
 ロキは何食わない顔をして、野次馬の中へ混ざり込むように近づき、復讐の対象者を含めて住居人が亡くなったという情報を得た。それが偽りではないとの確認のために三日ほど様子を見たあと、仕事の終了を確信した。
 人気のなくなった朽ち果てた家屋を通り過ぎて、ロキは依頼者のもとへ足を運んだ。
 人間は、最初に訪れたときと変わらず、静かに寝床に横たわっていた。
 大きくはない一つだけの四角形の窓から差し込む陽光のみが照らす室内は薄暗く、浮かび上がる人間の姿から生気はほとんど感じない。
「おい」
 ロキが声をかけると、返答はなかったがゆっくりと顔を向けた。その動作で、まだ生者であることをはっきりと確認できた。
「終わったぞ」
 ロキが短く仕事の完遂を伝えると、人間はただ小さく頷いた。そして、視線を天井に戻すと瞼を閉じた。
 眠ってしまったのか、それとも、感慨深く過去でも思い返しているのか。
 病で衰弱し、乏しいその表情から読み取れるものは少なく、室内の暗さもあって、戸口近くで見つめるロキには判断がつかなかった。
(まあ、いい。ともかく、やっと終わった)
 胸中で気だるく呟いて、ここにはもう用はないと、ロキは別れの挨拶もせずに寝台に背を向けた。
「……ありがとう」
 前触れなく背後からかけられた細い声が、室外に向かい踏み出そうとした足を引き止めた。
 ロキは顔だけで振り返って人間を見たが、両目を閉じて臥せる様子に先と変わるところはなかった。だが、発せられた感謝の声音にはたしかに喜びと満足の響きがあった。
「………」
 ロキはしばし人間を見つめてから、無言で部屋をあとにした。

   ◆

 鋼の鋭利な音が、枯れ果てたその場の空気を冷たく震わせる。
「やっとわかったよ。おまえ、家族の復讐のために、俺を殺すために来たんだな」
 交差する刃越しに、ロキが開口した。向かい合う青年は一音さえ返さなかったが、険しい表情の中で頬の筋肉が微かに動いたのを見逃さなかった。
 ロキは肯定であることを感じ取り、さらに言葉を続ける。
「俺がやったってことを誰から聞いたんだ?」
 人間たちの間で、あれは事故として処理されたことをロキは確認していた。復讐だということは、依頼者を除いて、誰にも知られていない自信がある。
 そもそも、勘ぐる誰かがいたとしても、実行犯が何者で、その人物が今日ここにいるということがわかるはずがない。……普通の人間には。
 待っても応答はなかった。青年が、家族殺しの犯人を教えた人物がただの者ではないと知っているのなら、答えたところで無駄だと思っているのかもしれない。それとも単に教えたくないのか、答えないという約束でもしたのか。
 だが、ロキにとっては返答の有無は別にどうでもよかった。眼前の青年が復讐のことを誰に教えられ、ここに来たのか、微かな反応からすでに自分の中で答えを出していた。同時に、わだかまりが解消したことで、目の前の人間と同じく戦う理由ができた。
 今、ロキが刃を交えているのは、自己防衛のためではない。仕事のためだ。
 そう。これが今回、オーディンから言い渡された仕事の正体だ。
 殺める相手は今まさに対峙している、自分を復讐の対象としている人間の男。
 彼に自分が復讐の対象だと教えたのは、オーディン。
「ったく……相変わらず、よくできたシナリオだな……」
 ロキが小さく愚痴をこぼすと、間近にいる青年には聞こえたのだろう、黒色の視線に訝るものが混じった。
 だが、ロキは無言の疑問には答えることはなく、代わりに挑発的に唇を歪めた。
 会話も、つばぜり合いも、そこまでだった。
 ロキは巧みに、重なっている相手の長剣を滑らせて、鋼の均衡を崩した。そして、交わりが解けた瞬間、躊躇うことなく前へと踏み出した。無茶無謀にも思える動きだが、相手が次の動作に移ろうとするときに発生する、わずかな無抵抗の時間を的確にとらえていた。
 空を滑るように迫る短剣の刃を、青年は紙一重で避けることはできなかった。
「ぐっ……」
 防具は易々と切り裂かれ、腹部がたちまち鮮血で赤く染まっていく。頑なに閉ざされていた唇から押し殺したような低い声が漏れる。
 ロキは即座に、動きの鈍った青年の急所に狙いを定めた。
 だが、次に振りかぶった短剣は横から差し出された剣によって邪魔をされてしまった。
 惜しいところで一手を弾かれたが、ロキは怯まず、攻めるのをやめなかった。今の相手が次の行動にすぐには転じられないと判断して、血の滲む腹部めがけて蹴りを放った。
 肉体を強打する鈍い音が、苦痛のうめき声が、殺伐としたその場に重く響く。
 開きっぱなしの傷口に潰すような衝撃を受けて、踏ん張っていた青年の体勢がついに崩壊した。片膝と剣が地面につく。
 目の前の絶好の機会を、ロキが見逃すはずはなかった。
 すかさず、青年の首側面を短剣で深く切り裂いた。
 無数の赤が大気に飛び散る。体が地に倒れ込む。
 その一撃を最後に復讐劇は終幕した。


 短剣についた血を拭って鞘におさめる。無造作に横たわる肉塊を一瞥して息を吐いたロキの表情は優れない。
 戦いの高揚が冷めた胸中に残ったのは、満足感とはほど遠い、肩を落としたくなるような無気力感だった。仕事は終わったというのに、全然清々しくない。
 たぶん……いや、きっとあいつのせいだ、とロキは確信じみて思った。
 結局のところ、一ヶ月も前から始まったこの一連の出来事は、関係者が全て知らない間に、主宰であるオーディンの意図した通りに演じさせられた舞台だったのだ。
 ロキは空を仰ぎ、疲労のにじむ声で憎々しげに愚痴をこぼす。
「あの野郎、自分は高みの見物を決め込みやがって……」
「その『野郎』とは、もしかしてわたしのことか?」
「ああ……っ!?」
 背後からの応答に返事をしかけたロキだったが、ここで会話が成立するのはおかしいことにすぐに気づき、慌てて振り返った。
 ……いつのまに、来たのだろう。
 見開いた碧眼の先にいたのは、今し方思い描いていた人物、主神オーディンだった。
 予期しなかった人物の登場に、ロキがとっさにできたのは顔を向けることだけだった。驚きから、内側にため込んだ文句の一つも口にすることはできなかった。
「ご苦労だったな、ロキ」
 惑うロキの胸中なんてかまうことなく、いつもの調子でオーディンが労いの言葉をかける。
 だが、労苦をいたわる言葉であるはずのそれは、今まで一度もロキの疲労を拭ってくれたことはない。そもそも、そこに言葉通りの感情がこもっているのを感じない、また、視線を寄越す表情が愉快そうなのだ。今回も例に漏れず喜色を覚えることはなくロキは、オーディンを見据え返したまま、二回分の呼吸を意識して乱れた気を落ち着かせた。
「……何しに、来たんだ」
 数秒の沈黙を挟んでようやく発することができたのは、苦々しい響きをした疑問だった。本当は言いたいことは多々あったが、愉しげな相手を見ていると、不満を口にする気が急速に失せていったのだ。ここで吐露すれば、自分の負けになるような気がしたのもある。
「迎えにきた」
 オーディンの短い答えに、ロキはしかめっ面を作った。
(俺を?)
 まさか、そんなわけがない。目の前の相手の性格からどう考えても、本意とは思えなかった。
 ロキは返答をいつものからかいだと解釈して、いい加減なことを言うなと、碧眼を細めて睨んだが、返されたのは意地の悪い微笑だけだった。
 オーディンは、あれ以上は何も言うことなく歩き出した。ロキの訝る視線を気にもとめず、一瞥することもなく、横を通り過ぎていく。
 オーディンが足を止めたのは、地面に仰向けに倒れた人間の前だった。死者の傍らにしゃがみ込むと、開いたままになっている瞼をそっと手で閉ざした。
(ああ……)
 そこまでを視線で追って、ロキは疑問の答えを得た。正しくは、受け取った答えの不足部分を補った。
 オーディンの言った『迎えにきた』は偽りではなかった。しかしその対象は自分ではなく、死者となった人間――エインフェリアだ。
(ったく……)
 ロキはふたりに背を向けて、行き場のない視線を空へと向けた。
 抱えていた負の熱が、意思とは関係なく冷めていくのをまるで他人事のように感じる。発したかった台詞は心の中で散り散りになって徐々に消えていくが、その破片を集めようとは思えなかった。諦めなのか開き直りなのかわからないが、もうどうでもいい気分だった。
 とくに眺めたいわけではなく、ただなんとなく空を見ているロキの脳裏に、ふと薄暗い室内に居た、祈りを捧げた人間のことが過ぎった。
 はっきりと終わりの見えた人生の中で、あの人間はなぜ自分に祈ったのだろう。輝かしい神話をもつ他の神々ではなく、どうして邪神とも呼ばれる者を選んだのだろう。
 そもそも、本当に彼は祈りを捧げたのだろうか。
 ロキは浮かんだ疑問を考えて……数秒で思考を断ち切った。その問いに答えを出せば、さらに虚しくなる気がしたのだ。
「ロキ」
 事が済んだのか、オーディンが呼びかけてきたが、ロキは天を仰ぐのをやめただけですぐには振り返らなかった。
 打ち捨てられた村をしばし見つめたあと、ゆっくりとオーディンに顔を向けた。
「……またこんな手間のかかったことをしたら、ただじゃおかないからな」
 不機嫌に軽く睨みながらそう言えば、返ってきたのはいつもの愉快を含んだ笑み。
「ああ、肝に銘じておこう」
 オーディンの全く信憑性のない返事に、ロキはこれからのことを思って、深いため息を吐かずにはいられなかった。