影踏み、君の名を口にする 1


「シギュンと別れようと思ったことはないのか?」
 何の前置きもなく投げかけられたその問いに、ロキは碧色の瞳に不愉快の情を湛えて端整な顔をしかめた。
 これが酒の席であったのなら、寄越された台詞は間違いなく質の悪い冗談である。旅の途中ならば、続く道の先で待ち受ける面倒事への布石の可能性、あるいは前述のそれだろう。
 だが、今のロキの手元には思考を緩めて理性を溶かす黄金や深紅色の液体はなく、周囲にも見当たらない。突っ立っているそこから見える景色は、前方にいる相手と普段のようなひねくれた言葉遊びをするにはいささか澄み過ぎていて、また厳しく重たい。
 つまり、これは、
「……帰る」
 明確な目的のない気まぐれ、もとい暇つぶしだと判断してロキは玉座に腰掛ける白短髪の人物から部屋の扉のほうへと体を反転させた。
 とん、と硬質な音が静寂に返ったばかりの広い空間に短く響く。それは丁寧に研き上げられた石の床上に、ロキの足が新たな一歩を踏むよりもわずかに先だった。
 本能がロキに背後を振り返らせた。視界に映った闇色――自身のひるがえった髪の毛ではないそれに自然と焦点が絞られる。
 はっとして、腰に帯びている短剣を引き抜いた。ほぼ同時に、中央にとらえた黒が躍動する。
 迫り来た鋭い牙と爪を半歩の動きでロキは避けて、すかさず短剣を振るって反撃に出た。しかし、黒毛の狼は紙一重で刃をすり抜けて、ロキから五歩以上の距離を取って静止した。四の脚を地につけて、金と銀の二色の眼で一挙一動を測るようにじっと見つめてくる。その後ろには幾何学な模様が彫刻された、馬に乗っていても余裕で通ることができるほどに大きな両開き式の扉が見えた。
「オーディン!」
 ロキが声を張り上げて、玉座の相手を睨みつける。
「どういうつもりだ」
「それはこちらの台詞だ。まだ話は終わっていないぞ」
「さっきの返答なら言わなくてもわかるだろう。俺はあんたの暇つぶしに付き合うつもりはない」
「なるほど。つまり、わたしの考えで判断してかまわないということか。わかった。じゃあ、話はこれで終わりだ。帰っていいぞ」
 オーディンが眼帯をはめていないほうの目を微かに細めて、凝った装飾が施された肘掛けの上で召使いを下がらせるときのようにひらひらと片手を振る。
「………」
 ロキは口を真一文字に引き結んで背後に目をやった。普段は主が鎮座する席の一段下の床で退屈そうに腹這いになっている狼の片割れが、現在は鋭利な雰囲気をまとって立ちふさがるようにしてそこにいる。
 視線を前に戻す。必然的に交差した左側だけの瞳はいつもながらにその色彩から連想させる暗雲に覆われた空のようで、自分よりも一回りほど年上の顔貌には見慣れ過ぎた気にくわない微笑が目につくだけで、どこからも相手の心中は読み取れない。
 けれど、あの言動を返してきた思惑ならば考えずともロキにはわかった。腹の底からこみ上げる不快感は苛立ちと悔しさの二種添えだ。今の状況、この場から立ち去ることを選んでも、残ることを選んでも、オーディンの手中からは抜け出すことはできない。ならば、ロキが選択するのはまだましだと思われるほうしかない。それすらもきっと相手の思考の範疇だとしても。
 ロキは短剣を鞘におさめた。
「別れようと思ったことはない」
「そうだろうな。予想していた通りの答えだ」
「………」
「なら、おまえはシギュンのことを心から愛しているのか?」
 知りながらもしかたなく苦いものを口にしたときのように表情を歪めたロキにかまうことなく、オーディンが新たに無遠慮な問いを放つ。貼りついた薄い笑みからは相変わらず、真意どころか真面目か不真面目かもわからない。
 ロキは腕を組み、ほとんど間を置かずに返答した。
「別れたいって思わないのなら、そうなんだろう」
「遠回しだな。その様子だと、彼女にたいしても自分の気持ちをはっきりと言っていないな」
 推測でありながら口調は揺るぎない確信に満ちていて、ロキは胸の奥が熱を帯びて疼くのを感じた。意識にのしかかる面倒さが気に入らなさに取って代わって、言い返す語気が荒く低くなる。
「さっきから何なんだ。まるで俺とシギュンとのことを問題みたいに訊いてきて」
「わたしは心配しているだけだ」
「心配?」
 驚き以上に不審が返事を復唱させていた。
 オーディンが口角を緩く上げたままで、左の腕で肘掛けに頬杖をつく。
「そう、おまえ達の仲の心配を。おまえは妙なところで得意の頭と舌が巧く回らなくなるからな。察せられる態度だとしても、率直に示さなければきちんと伝わらないときもあるぞ。とくに愛というものは」
 胡散臭い。
 淀みなく語られた理由にロキが納得するわけがなかった。目の前の人物に愛を説かれるなんて、怪訝が増す以上に腹立たしいことこの上ない。
「ロキ」
「大きなお世話だ。あんた達と違って俺達には何の問題もない。心配なんてしてもらう必要はない」
「本当にそうか?」
「しつこい」
 重ねられた問いかけをろくに考えもせずに一蹴して、ロキが背を向ける。
「フレキ」
 再び相対することになった黒い獣が主の声にゆらりと動いた。
 どの時機で歩み出すべきか。ロキは短剣の柄に右手をかけて、進行を妨げている相手を注視した。
 だが、予想に反して刃を抜く必要はなかった。狼は威嚇することさえなく扉の前からあっさりと退いて、普段の定位置に戻っていった。この場を去ることにたいしての妨害は新たに何も、呼びかけの一つも起きない。
 ――オーディンはあれで満足したのだろうか。
 話を強制的に断ち切ったのは自分自身であるが、今までの経験もあってかこの状況を好都合とは解釈できなかった。奇妙な腑に落ちなさを覚えて、狼の挙動をうかがっていたロキの目線が自然と上方に向く。
「っ、」
 不意に頭の芯を締めつけられるような感覚に襲われた。息が詰まり、視界がかすみ、しかし、疑問を抱いた途端に蝕むような苦痛はぱたりとおさまった。
 ……今のは、一体……?
 瞬いてとらえ直した瞳に映るのは見覚えのある、己が属する世界の主神の姿で、見下ろしてくる唯一の灰色からは威圧や敵意に類するものは感じられない。
 ロキは微かに眉をひそめて、顔を本来の目的のほうへ戻した。そして、無言のまま歩き出した。錯覚のような先の不調について気にはなったが、なぜか話そうとは思えなかった。そのことに思考を分けるのも面倒な気分だ。
 見た目ほどには重量のない石造りの扉を片手で押し開く。
「ロキ、己の目に本当に映すべきものは何か、よく考えろ。でないと、自分自身を失うぞ」


 去り際にオーディンから放たれた一言が耳に残って消えない。
 面倒な場からようやく解放されたというのに家路を辿るロキの表情は未だ晴れることがなく、足取りは地面を蹴りつけるように荒っぽかった。後にしたヴァラスキャルヴはすでに伸ばした手のひらにおさまってしまうほど小さくなっているが、耳にした最後の言葉は一向に存在を薄れさせない。まるでしがみつき、訴えかけてきているかのようだ。
 しかし、どれだけ繰り返されてもロキの思考はたしかな意味を導き出さなかった。何度目か、戯れ言だと心の中で吐き捨てて、煩わしいそれを追い払おうと頭を左右に振る。
「……とさん。お父さーん!」
「? いっ、づ……!」
 ふと聞こえてきた呼び声にロキは反射的に足を止めて周囲に視線を巡らそうとしたが、体に走った突然の衝撃に邪魔をされ、予想したものをとらえるどころか目の前が一瞬真っ白に染まった。
「やったー! きしゅう!」
「成功した! きしゅう!」
 似通った高めの二種の声音がよろめいたロキのすぐ後ろで、無邪気な調子には合わない物騒な単語を織り交ぜてはしゃいでいる。
 何が起きて誰の仕業なのか。そんなことは確認せずともとうに明白で、ロキは振り向きざまに怒鳴った。
「おまえらっ、何するんだ! 危ないだろう!」
「なにって。ね、ナルヴィ」
「きしゅうだよ。ね、ナリ」
 ロキの胸元よりも下方の位置で、額一つ分ほど背丈の違う金髪の子供がふたり、どことなく誇らしげな様子で青い瞳を交わしてにこにこと笑い合う。
 薄い雲の欠片さえもない晴天の下、瑞々しい緑の中で朗らかに楽しそうな息子達の姿を目にしてロキの心は穏やかなものに――なるはずがなかった。がしっ、という擬音の形容がふさわしい勢いで、眼下の黄金をそれぞれ両手で押さえつけるようにつかんだ。
 子供はそろって「うっ」と短く呻くと笑みを不満に変えて、ロキを見上げた。
「お父さん、いたーい」
「ぼーりょくはんたーい」
「いきなり後ろから体当たりしてきた奴に、そんなことを言われる筋合いはない」
「なに言ってるのさ。やるよって言ってからやったら、きしゅうにならないじゃん」
「気づけなかったからって、ひがむのはやめてよ」
 唇を尖らせるナルヴィとナリにはどちらにも反省の色も形もない。もちろん、悪びれや怯えといった感情も。
 叱られているというのに、ああ言えばこう言うこの態度はなんとかならないものか。しかも、『奇襲』とは……。
 いつのまにかまた一段と口が達者になっている我が子を知って、ロキは複雑な表情を浮かべた。やや眉間の皺が濃いめのそれが、子の成長を実感した親心から作ったものだったのならどんなによかったことか。
 ……本当に、こいつらはどこから妙なことを覚えてくるんだ。
 父親のそんな苦い胸中を息子達が察するわけもない。
「お父さん。持つのならこれを持ってよ」
 左側に立つ背の高いほう、ナルヴィが思い出したように片腕を上げてロキに差し出した。その手には彼の顔よりも一回り小さい、巾着型の革袋が下がっている。
「ラズベリーだよ! シフさんからもらったの」
 ロキが中身を問う前に隣のナリが言い添えて、それに返事をする前にナルヴィが底に向かい曲線を描く薄茶色の袋を、自身の金髪の上に置かれた手の甲に無断で乗せた。
 なめした革の滑らかな感触越しに、丸みをおびた小さな実が中にいくつも詰まっているのが伝わってくる。けれど、そんなもので懐柔されるロキではない。
「おい」
「帰るんだよね? ぼく達まだ外で遊んでるから、お父さんが家に持って帰って」
「何を勝手に」
「お母さんにラズベリーをもっていってあげてよ」
「っ……」
 そう、されないはずだったのに、喉を詰まらせたようにロキは応酬ができなくなった。強く言い放ってこの場を逃れようとする意識に反して、拒否の言葉は体の奥へと沈んでいってしまう。思考が圧迫されているかのように重苦しくなり、脳裏にちらつく日常の像がやけにうるさい。徐々に、内と外の境界が曖昧になってくる。
「いまだっ」
「!」
 耳を打った高いかけ声にロキは我に返った。何がと考えるよりも先に鮮明さを取り戻した視界に映り込んできた、地面に傾きかけた革袋を慌ててつかんで落下を間一髪のところで阻止した。
「こら、おまえら……!」
 しかし、声を張り上げたときにはすでに子供達の姿は眼下にはなかった。
「お父さん、寄り道しちゃだめだよー!」
「つまみぐいもしちゃだめだよー!」
 手を伸ばしても指先にかすりもしない位置で艶やかな髪が二つ、揺れながら走り去っていくのが見えた。
 すばしっこいが子供の足である、追いつこうと思えば可能だ。
「……ったく」
 ロキは強引に渡された袋を一瞥してため息混じりに舌を打つと、小さな影とは別の方角に足を向けた。


「おかえりなさい」
 台所と居間が一続きになった部屋に入ると、少し前に外で目にしたのと同じ色合いの金と青が穏やかにロキを迎えた。
「ずいぶんと早かったけれど、お仕事の話だったの?」
「ああ……いや、いつものくだらない暇つぶしだよ。それよりも、シギュン、これ」
 頷けず、だからといって用事の内容を説明したくもなく、ロキはオーディンからの呼び出しのことははぐらかすように適当に答えて、右手に持っていた革袋を示した。
 シギュンが食卓にも使う卓上に縫い物を置いて椅子から立ち上がり、袋を受け取って中を見ると目元を綻ばせた。
「美味しそうなラズベリーね」
「ナルヴィ達がシフから貰ったんだと」
「ふたりは?」
「……それを俺に押しつけて遊びに行った」
 息子達とのやりとりを思い出してついむっとしたロキに、シギュンがくすりと笑みをこぼした。
 愉しげだが嫌味のないやわらかな印象のそれに、ロキは不可解に胸がざわつくのを感じた。よく見知っているはずの彼女の笑顔を直視していられなくなって、肩に流れ落ちる緩やかに波打った金髪にそっと視線を移した。
「せっかくだから、夕食のデザート用にラズベリーパイでも作ろうかしら」
「ああ……それは、いいんじゃないか」
「ロキ?」
 耳に届く澄んだ声音が薄く曇りを帯びる。
「どうかしたの?」
 だめだ、とロキは思った。内側に生じた違和感が拭えない。無視もできない。意識は平静に対応することを望んでいるのにどうしても気をとられて、返事がぎこちなく抑揚の少ないものになってしまう。
「……ちょっと疲れただけだ。部屋で休む」
 結局、シギュンの顔を見直すことはできずに、ロキは言い終えると早々に自室へと歩き出した。
 後ろからの声はなかった。けれど透き通るような空色の双眸が、見えなくなるまでの間ずっと自分を見つめているのを感覚的に知って、再びロキの胸中は大きく波立った。
 ……これは、何なんだ。
 部屋の扉を閉めて、腰に提げていた短剣を書き物机に適当に放って、ふらふらと寝台に倒れこむ。力ない全身を受け止めたのはほんの数時間前に身も心も安らげていた慣れ親しんだ感触であるのに、今はさっぱり効力を発揮しなかった。
 清潔な白布に皺が寄るのも、長い黒髪が乱れるのもかまうことなく、ロキは寝返りを打った。カーテンを引いて窓を閉め切り、明かりも灯していない室内は真昼の曇天の下よりも薄暗い。闇に沈む木目をすくい上げるように天井に差し込む淡い陽光の帯を見るともなしに見ながら、ロキはうまく言うことをきかない心と向き合おうとする。
 この変調の要因はシギュンだろう。では、最もたる原因は……? 彼女の笑顔も視線も珍しいものではない。今までに何度も目にしてきた。なのに、こんな感覚に陥ることははじめてで――いや、違う。ああ、そうだ。前にも、あった。
 思索の隙間をぬって飛来してきた過去の像に、ロキの胸が再びざわついた。
 それは、彼女と出会ってまだ間もない頃。どこぞの主神の傍迷惑な、策謀という名の遊戯に巻き込まれていたときの出来事。
「……また、あいつのせいか……」
 苦々しくロキはつぶやかずにはいられなかった。記憶のふちに放置しておきたかった思い出がもたらしたのは、それ相応の答えだった。
 避けた気でいたのに、まんまと相手の手のひらで踊らされているような感じがして苛々とする。
 ――シギュンのことを意識させて、今度は何をするつもりなんだ、オーディンの奴は。
 そう思い、すぐに思うことさえ罠のように思えた。
 ロキは天井を一瞬だけ睨みつけると、視界から光を追い出すように瞼を閉じた。浅いため息を薄闇の空気に落として、以降沈黙する。
 少し眠ることにした。このままだと落ち着くどころか、さらに感情が乱れるだけだ。一度頭の中を空にすれば、きっといつもの調子が戻るだろう。