アースガルドの神々事情 1


 ひとり森の中にいる銀髪の少年の耳に、頭上の枝のほうから風もないのに葉擦れの音が聞こえてきた。
 少年が木々の合間に覗く山並みの景色から顔を上方へと動かせば、深緑の葉に囲まれて一羽の大鴉がいるのが視界に映った。
 頭の天辺から尾の先まで艶やかな黒一色の来訪者をとらえて、数秒後、少年の晴天の空色をした瞳がほんのりと曇りを帯びた。
(ああ、これはあれだよね……。珍しいなぁ)
 すぐに思い当たった可能性に少年は無視をしたい衝動に駆られた。気がつかなかったことにして視線をそらそうかな、と考える。
 だが、動く前に己の名を呼ばれた。
「ウル。シキュウ、アースガルドニ、モドレ」
 鼓膜を震わせたのは、滑らかでいながら抑揚に乏しく、男とも女ともつかない声音。その発声源は他でもない、青の双眸が見上げる先の大鴉からだ。
 本来その動物がもつべき鳴き声ではなく人語を耳にしても、ウルに驚きはなかった。顔に滲むのは、わずかばかりあった『違う』可能性が消え去ったせいの落胆の色である。
 向こうにも気づかれているのならば、応えないわけにはいかない。
「急ぎ? 何があったの?」
「シキュウ、モドレ」
「あ、ちょっと!」
 問いかけに返されたのは返答とは言えない、素っ気ない科白と羽ばたきの音だった。大鴉は自分の用事は済んだとばかりにさっさと枝から煙ったような曇り空へと舞い上がり、ウルの自慢の弓矢も届かない場所へと去ってしまった。
「なんだよ……本当、勝手だな」
 げんなりとウルが独りごちる。文句の矛先は飛んでいった黒い影にだけではなく、その飼い主も含まれていた。神の種族の一つであるアース神族の中で、最も高位の神で長であるオーディンだ。
 現在のウルにとってもオーディンは主に当たるのだが、あの大鴉のように忠実にはなれない。というか、なりたい気がしない。
(こっちの予定も考えてよ。あと、用件ぐらい先に教えてくれたっていいじゃないか)
 ウルは胸中で愚痴をこぼしながら、視線を来訪者が邪魔をしにくるまで目にしていた景色へと戻した。
 森の向こう側には、薄い雲がかかり灰色をした山脈が広がっている。まるで巨大な壁のように連なる山々は壮大ではあるが、目を奪われるほどに壮麗とは言い難い印象だ。輪郭はなだらかな曲線を描くことなく、生物を殺める目的で研がれた剣先のように鋭く尖り、やって来ようとする者を拒み、威嚇しているかのようである。
 けれど、荒涼感すら漂うそこを眺めたウルの瞳は、たちまち好奇心という光によってその青色を輝かせた。
(あーあ。せっかくここまで来たのにお預けか)
 今回はあの山のほうまで遊びに出かけるつもりだったのだが、呼び戻しを受けたのならば自分の意思が何であれ、己の居住地であるアースガルドに帰らなければならない。
 アース神族に所属しているのなら嫌でも知ってしまう、己の主神の仕事の割り振り方の横暴さ。こちらの予定など全く関係がない上に、基本的に拒否権というものが存在しない。
 わかっていても、当事者となったら大きくため息を吐かずにはいられなくなる。
(……でも、こんなことって何時ぶりなんだろう?)
 ウルはふと思った。
 こうして外出中に呼び出されるのはウルにとっては、実は珍しい出来事であった。よほど人材が足りないのか、それとも、自分にしかできないことなのか。後者で物事をとらえれば、不服な気分はいくらか薄れた。
「愉しいことだったらいいなー」
 心をのせるようにつぶやきながらウルは、遠くに鎮座する山脈の景色に背を向けると、来た道を戻り始めた。

   ◆

 応接間は訪問者が立ち去ったあとも、妙な緊張感をはらんだままで静まり返っていた。
 閉じた扉を見据えていた青年の深みのある青の双眸が、ゆっくりと手前の卓上に置かれた杯へと移る。表面に鹿の浮き彫りが施された杯の内側は、黄金色の液体で半分よりも少し充たされている。
「……フレイ様」
 青年の座る椅子の傍らから、躊躇いを帯びた声が聞こえてきた。
 しかし、青年は無視をして杯を手に取った。自身の髪色に似た黄金の麦畑から作られた麦酒を一口、飲み下す。ふわりと鼻腔に香ばしい大麦の匂いが広がって、くせのない苦みが心地よく喉を流れていく。
 青年は柳眉を微かに顰めた。
 普段ならば美味しいと感じるべきものなのだろうが、あいにくと今はそうは思えなかった。
「フレイ様、先のお話を本当にお受けになるおつもりですか?」
 再びの慇懃な声に、ようやく青年は手中の杯から顔を上げた。
 まっすぐに見つめた先には、己と同じ色合いの髪と瞳をした男がひとり立っている。
 彼の印象は見上げるフレイとは対照的で、結える長さもないほど髪は短く刈られており、向ける瞳はややくすんだ光を宿している。
 そこにあるのが憂いだと知れて、フレイは泰然とした様子で己の従者に聞き返した。
「ならば、スキールニル。貴方には、私の館にまで出向いてこられたオーディン様からの直々の誘いを、断ることができると?」
「……アース神族とヴァン神族の不戦協定に障る恐れがございます」
 スキールニルの思案の間、明言を避けた物言いはフレイにとっては予想の範疇だった。
「『剣術大会』、ただの遊びですよ。殺し合いではない」
「存じておりますが、それにフレイ様が出場なさるという点に異論がございます。フレイ様は二族間との戦争において前線で戦っていらっしゃいました。また、アース神族に身を置かれた今もなお、ヴァン神族としての地位は完全になくなってはおりません」
「それはつまり、あの戦争のことで私が復讐でもされると?」
「もしくは、その逆の疑いをかけられる可能性もございます」
「……ここに来てから、貴方はさらに言うようになりましたね」
「主人への進言は従者の役割の一つです」
 揶揄を含んだ科白にきっぱりとした言葉が返る。彼の眼が宿す光は強く、恭しく主に仕えるだけの者ではないことを雄弁に物語っている。
「素晴らしい従者をもって、私は実に幸せ者ですね」
 フレイは口元に微笑を作って言い、視線をスキールニルから手の中の杯に戻した。施された鹿の浮き彫りの鼻先から尾までを、人差し指でなぞりながら黙考する。
 スキールニルの言い分は間違ってはいない。自分達がここまで来た経緯を含めて考えれば、そう思うのは当然だろう。フレイだって、実際は乗り気ではないのだ。大会、という戦ではなく単なる遊戯だとわかっていても、昔の記憶が疼かずにはいられない。
 ――己は彼らの多くを殺し、彼らに己の多くを殺された。
(わかっている……けれど、今回のことは、感傷だけで決めていいことではない)
 心の中で己に言い聞かせて、内側よりも外側を視る。
 いつもなら相手を自らの宮殿へ呼び出すあのアース神族の長が、今回の件に関してはわざわざ手土産まで持って相手のほうの館にやってきたのだ。その意味を正しく解釈して、考慮しなければならない。
 フレイは杯を卓上に置いて、椅子の背もたれに背中を預けた。
 一呼吸を置いてから、口を開く。
「大会には参加します」
「フレイ様」
「ですが、貴方の言うことも一理あります」
 諌める口調に凛とした言葉を追わせ、フレイは傍に控える従者を見やった。
 目が合うと、スキールニルは何も言わずに少しだけ身じろいだ。
 自分とは正反対の疑問と困惑気味な青の双眸をとらえて、そこに導き出した答えを与えてやる。
「大会に私は出ません。代わりに、貴方が出なさい、スキールニル」

   ◆

「剣術大会?」
「そうだ」
 驚きと怪訝が入り交じった声音にたいして、落ち着き払った返事がされる。
「それで、ヘイムダルは参加するか?」
 そう訊ねてきた相手を、暗い場所では闇のように沈んだ色合いになる深紫色の瞳が探るように見つめる。
 視界の中心に据えた男の精悍な顔には暗も明もなく、けれど無というには確固たる意志を宿しており、茶色の双眸でさえ瞬き以外で微動だにしない。
 ――零だ。
 昨日今日会ったばかりの相手ではないのに、何を思っているのか考えているのか、さっぱり読み取れなかった。
 ヘイムダルは早々に自力での解釈を諦めて、とりあえず脳内に浮上している疑問を口にすることにした。
「チュール、この話題に関して、俺の発言の有効性はどれぐらいある?」
「決めるのはおれではなく、オーディン様だ」
「………」
 だろうな、というのが返答の感想であった。
 結局、目の前の人物はあの主神の使い走りなのだ。人間達から戦いや軍の神様として崇められる、アース神族において高い地位をもつ者を召使いのごとく使うのはどうなんだろう、とヘイムダルは思ったが、発したところで無意味な会話になりそうだと察せられたため、その話題は思考の彼方へ飛ばしておいた。
 それよりも今は、自分が気にするべき事柄があるのだ。
 ヘイムダルは顔をチュールから自身の背後へと転じた。
 立っている場所から二十歩ほどで地面が終わり、そこから先は表面が陽炎のように揺らいでいる虹がかかっている。アースガルドとその下にある人間の世界ミッドガルドを繋いでいる虹の橋だ。
 その向こう側までをヘイムダルが眺める。橋を渡ってくる者はいない。外から不穏な気配がやってくる様子はない。
 深紫の視線と茶のそれが再び交わった。
「俺には、アースガルドの見張り番としての仕事があるんだが、それはしなくてもいいのか?」
「オーディン様が『それでいい』と考えているのならば、いいのだろう」
「………」
 ――たかが遊戯にそれでよくはないだろう。
 しかし、すかさずわき上がってきたその反論を呼吸とともにヘイムダルは胸の奥へと呑み込んだ。
 代わりに、別の問いを投げかける。
「チュールは、剣術大会をやることに賛成なのか?」
「まあ、いくつかの懸念はあるが、概ねは。普段は知れない奴の戦闘力を測れるし、エインフェリア達にもきっと良い刺激になる」
(……誰のことだ?)
 知れない奴、の言葉に特定の人物にたいする含みをヘイムダルは敏感に感じ取った。チュールが関心を寄せている者がいるとは初耳だ。彼の口調から察するに、その対象が指導しているエインフェリアでも、自分ではないことだとはわかる。
 ならば、アースガルドでそんなことを言われそうな奴といったら……?
 考えるヘイムダルの脳裏に、アース神族では珍しい漆黒の長髪をした男の姿が浮かんできた。頭の中から、緑がかった碧眼で自分を見るその人物を意識した途端、頭の芯がちりっとひりついた。
(っ、あいつのことなんてどうでもいい……!)
「――もしかしたら、ロキと決着がつけられるかもしれないな」
「!?」
 不意に耳に滑り込んできた、まるで頭の中を盗み見られたかのような台詞に物思いを強制的に切断された。
 ヘイムダルは瞠目してチュールをまじまじと見つめる。だが、惑いが明らかな視線をいくら受けても、気を乱した発言なんてしなかったようにチュールは眉の一つも動かさなかった。
「で、ヘイムダルは剣術大会に参加するのか?」
「………」
 どこまでも平然とした相手の問いかけに、ヘイムダルは目前の問題を思い出し、開きかけた唇を閉じた。
 ああ、そうだ。今の彼はそれしか聞く気はないのだ。
(剣術大会、か……)
 面倒くさい、というのがヘイムダルの内心である。力比べに興味はない。己に与えられたアースガルドの門番の役割を疎かにはしたくはない。
 ――だが。
 沈黙を破ろうとするかのように、ヘイムダルの背後から強い風が吹きつけてくる。
 ヘイムダルは陽光の下で薄く紫の色を乗せる自身の髪が視界を遮るのを止めようと、反射的に片手で髪を押さえつけた。
 正面にいるチュールは指すら動かさない。彼の耳の上で整えられた、黒みを帯びた茶色の髪もほとんど揺らがない。
 ざわめくような草木の葉擦れの音が、わずかな余韻の後に消える。
 ヘイムダルは腕を下ろした。
 チュールが返答を待っている。
 変わらぬ視線を深い色の瞳で受け止めて、ため息を一つこぼした。
「……わかった。参加する」
 結局のところ、あの主神の意思に従う他に道はないのだと、身に染みてわかっていた答えが出ただけだった。

   ◆

 遠くへ向かい、風を切る小さな音がする。
 次いで、ちっ、と舌打ちがその場に鳴った。
「……ロキ、当たったら危ないだろ」
 隣からのやや呆れ気味な咎めの言葉に、緑色がかった青の瞳が鋭い眼差しを返す。
「当てるつもりで投げたんだ」
 けれど、放った石は空に翼を広げた大鴉にはかすりもしなかった。よく見知った不吉の使者は、淡い紅の裏側から忍び寄る夜陰へと紛れ込むように飛び去っていった。
 目標を見失った夕空を一瞥して、ロキが再び舌を打つ。苛立ちはそれだけで治まることはなく、足下にあった小石へと伝播した。
 容赦なく蹴られた小石は地面を勢いよく転がっていき、直線上にある湖へ落ちていった。静謐な湖面に滑るように波紋が広がって、そこに映る長い黒髪と短い赤髪の対照的なふたりの男の像を不安定に乱した。
 揺れる水鏡の中で赤のほうが、大鴉が去った方角を眺めやってつぶやく。
「……至急戻れ、ってアースガルドで何があったんだ?」
「どうせくだらないことだ」
 ロキが疑問を一蹴する。
 夕日を受けて赤土のような色合いとなった双眸が、黒髪を背に流す彼を中心に映した。
「大事かもしれないだろ?」
「だとしても、俺にとっては面倒事であることに変わりはない」
「ロキ……今日のおまえは、いつも以上に機嫌が悪いな」
「トールはいつも通りにお人好しだな」
 吐き捨てるような物言いだった。ちっとも誉めてなどいない。
 けれど、そんな言い方をされても、トールは別段気にした様子はなく、湖に体を向ける相手を見つめる。
「……なんだ?」
 何も言ってこないのに外されない視線が気になって、ロキが顔だけでトールに振り返った。
「いや、文句を言っていたわりには、おまえもシギュンに贈り物をしたがっていたんだな――いってぇ!」
 片足を強かに踏みつけられてトールが台詞を悲鳴に変えた。
 ロキはふんっと鼻を鳴らし、自身よりも体格のいい相手を見上げているのにまるで見下ろしているかのごとく睨みつける。
「違う! 俺は、自分勝手に割り込んできたオーディンの奴に腹が立っているんだ! シギュンは関係ない!」
 三日前に、ロキはトールに誘われてアースガルドからミッドガルドへと降りてきた。人間の庇護を役目とするトールにしては珍しく、今回の旅の目的は人間絡みではなく、愛する妻に贈り物をしたいから、というものだった。以前に助けた人間達から貰って持ち帰った装飾品についた宝石を妻が大層気に入ったらしく、今度は自分の手で鉱石を採って形にして送りたいのだという。愛妻家と謂われるトールらしい思いつきだ。
 そんな彼にたいしてロキはなぜかといえば、どうせアースガルドにいてもやることはなく、家にいると子供達が遊べとうるさいので、トールについて行くことにしたのだ。
 だから、自分の妻のことは関係ない。ただそういう思いで同行を決めたのだ、が。
「この湖の先だっていうのに……!」
 目的地を目の前にしているせいか、怒りに変わるほどの不満が渦を巻いて止まない。
「ロキ、おまえの気持ちはよくわかるが……戻らないわけにもいかないんだろ?」
 トールがまた踏まれないようにと自身の足をそっと後方に引いて、傍らの熱へ言葉を注意しながら放り込む。
「………」
 途端、碧眼に不愉快な光がたゆたう。舌すら打てない無言は、肯定の返事である。
 人間の時間の感覚で例えるならば、実感すら危ういほどの遠い過去にロキは偶然にもオーディンと出会った。現在の世界が九つとなった要因のアース神族の長は、邂逅する前に耳にしていた噂と違わない印象で、ひどく食えない人物だった。ひょんなことから、巨人族のロキがそんな彼の導きによってアース神族に仲間入りをして、様々なことを経験した現在となってはその人物評価欄には『こいつと関わるとろくでもないことになる』が追加されている。
 そして、もう一つ。
(あの野郎……いつか見てろよ)
 ここで要求を無視をしようものなら、さらにろくでもない事態に陥ることを、悲しいかな、嫌というほどにロキは知っていた。