Loki ‐隻眼のアース神‐ 1


「ねぇ、ロキ、知ってるかい? 今、オーディンがヨツンヘイムに来ているそうだよ」
「オーディン?」
 長い黒髪をかき分けて耳元で囁かれるようにして言われた言葉に、ロキは顔をしかめて振り向いた。
 視界に据えた女、アングルボダの暗色の瞳が少しだけ細められる。まるで闇夜を写し取ったかのように深い色合いのその中に、鋭い光が走るのをかいま見た気がした。
「だから、なんだ」
 ロキは碧眼を瞬かせ、顔をわずかに後ろに引いて、低い語調で聞き返した。本当はそっぽを向いて、あからさまに興味のない態度をとりたかったのだが、いつのまにかアングルボダが自身の指に黒髪を巻きつけていてできなかった。
 返事を待たざるを得ないロキの目の前で、紫がかった唇が笑みを形作る。
「絶好の機会じゃないか。あんたの株を上げるさ」
「まさか、俺に、あのオーディンをどうにかしろって? 本気で言ってるのか?」
 言葉にこめられた意味を悟ったロキの表情と口調が揺らぐ。批判じみてしまったのは、しかたがないだろう。
 『オーディン』――その名前を巨人族で知らない者はいない。彼は、人間族から神と崇められるアース神族を束ねる長であり、古くから巨人族の宿敵だ。出会ったことがなくとも見かけたことがなくとも、巨人族ならば誰もが幼い頃に彼との因縁の話を周囲から聞かされており、その存在を認識している。
 因縁の始まりは、まだ世界全体が現在のように九つの世界で構成されていなかった時代まで遡る。そこは大地も海も空もない、炎と氷ばかりの世界だったという。そんな世界であるとき、オーディンを筆頭にした者達が自分達にふさわしい世界を創るために、全ての巨人の始祖であるユミルを殺した。目的は、ユミルの肉体。世界を創る材料とするため、強い魔力を有する肉体を欲したのだ。ユミル殺害の際、その巨体から流れ出た大量の血液によって一組の夫婦以外の巨人は全員溺死してしまった。だが、オーディン達は大勢の巨人の死など気にもとめず、ユミルの肉体を用いて新しい世界の礎を創った。まとまった肉塊からは大地を、残った肉からは土を、骨からは山を、骨の中でも最も大きな頭蓋骨は大地の上に置いて空にし、歯や骨の破片は岩や砂、血は川や海とした。
 新しい世界はこれまでの世界よりも生命力に満ち、変化に富み、その中心に向かうほど美しかった。だが、そこに巨人族の居場所はなかった。巨人族はオーディン達によって、世界の中で最も侘びしい土地へと追いやられてしまったのだ。
 我欲によって自分達の始祖を殺害し、自分達を迫害した神族、とくに首謀者であるオーディンのことを、長い時間が経った今でも巨人族の多くが恨んでいる。苛烈な敵愾心を抱く者も少なくない。
 だからこそ、オーディンを捕まえるなり、殺すなりできれば、巨人族の中では最高の手柄になる。
 当然ロキもそのことはわかっている。わかっているが、気乗りしない。
 オーディンは一つの種族を治めている者である。簡単にどうこうできる相手ではない。現に、彼と対峙して痛手を負った者や命を落とした者は少なくない。
 そもそもそんな博打のようなことをするのは、ロキの気性には合わないのだ。
「ま、そうだね。あんたには無理だね」
 ため息混じりのそんな言葉とともに髪から手が放され、同時に据えられていた目も外される。アングルボダは顔から笑みを消して、ロキに詰め寄るようだった身を引いた。
(そんなにはっきり言うか……!?)
 自ら話題をふっておきながら一瞬ですっかり興味を失われて、ロキはむっとした。
 ――おもしろくない。
 否定的だった意識が波立った感情に揺り動かされる。
 刺激された自尊心がロキに、自分から距離をおいた女の横顔をまっすぐに見据えさせた。
「アングルボダ」
「なんだい」
 黒い眼が横目で視線をくれる。
 どこか冷めた気配のそれをロキは真剣な眼差しで見返しながら、強い口調で言葉を続けた。
「そのオーディンの話について、詳しく聞かせろ」

   ◇

 鬱蒼と生い茂った草や木の間を縫うように進んでいく。森の中はまだ昼間だというのに薄暗い。頭上の七割は深緑の葉に覆われ、その隙間からのぞく空は煙っているかのようにうっすらとした灰色の雲がかかっている。陰気くさい景色のそこで聞こえるのは、踏みつけた枝の折れる音、触れた草の擦れる音、木の葉が風で揺れる音、細く甲高い鳥の鳴き声ばかりだ。
(本当に、こんなところにあのオーディンがいるのか?)
 顔にぶつかりそうな枝を手で押しのけながら、ロキは抱く疑問の念を強くする。
 結局ロキは、アングルボダの話を無視することができなかった。名誉や地位といったものにさして関心はないのだが、臆病者だと情けない奴だと思われることが嫌で話にのってしまった。
 正直、オーディンと対峙して自分が勝てるのか、ロキには自信がない。ある程度の武術や剣術、また巨人族には珍しく魔術の心得はある。しかし、それらがどの程度アース神族の長相手に通用するのか。
 ロキは茶色の外套の上から左腰あたりを手で軽く触った。少しざらついた布越しに固い感触がする。腰につけた革袋の中にあるそれは、アングルボダからの餞別だ。得ているオーディンの情報を元に彼に対抗できるように作ったもの、だそうだが、果たしてこれもどれだけ役に立つのか。未知数過ぎて、わずかの安心感もわいてこない。
(面倒なことになったな……)
 不安と後悔に足取りを重くしながらも、ロキは歩みを前へと進める。進行方向に生える植物をかきわけ、宙を横切る太く歪な形の枝をくぐり、地中から顔を出した木の根をまたぐ。時折、止まって周囲を警戒する。
 そんな風に注意深く慎重に歩き続けていると、川のせせらぎの音が微かに聞こえてきた。
(たしか、この辺りの川で見かけたっていうのが一番新しい情報だったな……)
 一旦立ち止まって考えてから、川のほうに進路を定めた。できるだけ足音が響かないように一歩一歩を意識して地面を踏む。耳に届く流水の音が徐々にはっきりと大きくなっていき、空気に冷たく湿った気配が加わる。まだ見えないが、目指す川は目と鼻の先だ。
 ロキは身を低くしながら進み、胸の高さほどの茂みに突き当たったところで足を止めて、茂み越しに向こう側をのぞき見た。
 視界を横切るようにして流れている川。その手前、右へ、左へ、視線を動かす。目に入るのは、短い草が生え、折れた枝や落ち葉、石ころが転がった茶色の地面。それだけだ。川を挟んだ先の対岸も、そばにあるのと大差ない茂みや木々があるだけだ。少し移動してみても景色に変化はない。誰もいない。気配もしない。
 ロキは隠れ蓑に使っていた茂みを越えて岸に出た。広くなった視界に映るものは、見飽きた自然だけだ。
(まぁ、ずっと同じところにいるわけがないか……)
 思って、ため息を吐く。
 今のところ、他に有力な情報は持ってない。この辺りで足跡などの痕跡を探して、次の移動場所の手がかりにするしかないだろう。それでも見つからなかった場合は、アングルボダのところに戻ることにしよう。
「……もういっそ、ヨツンヘイムから出て行ったって情報が入れよ。そもそも、アース神族の長がこんなところに何しに来てるんだよ。ったく」
 たまらず疲れたように独りごちて、ロキは足のすぐ近くにあった小石を蹴った。川面に小さな音と波紋が立ち、流れに呑まれるようにすぐに消えていった。
「――もし、この辺の者か?」
「!?」
 緊張がロキの背中を駆け抜ける。
 耳に届いた声にロキが瞠目して顔を動かせば、左手の方向にひとりの白髪の男が立っていた。
(いつのまに……)
 少し気を緩めていたせいだろうか、声をかけられるまでその存在に全く気がつかなかった。これでもそこそこ修羅場をくぐった経験はあるというのに、気配すらわからなかった。
 呆然と立ち尽くすロキに、白髪の男は不思議そうな表情をする。
「巨人族の者か? それにしては、いささか小さいな」
「っ……」
 純粋に疑問の響きをもった発言にロキはかちんときた。体を完全に男のほうに向けて鋭い眼光で見据える。
「あんた、何者だ」
「何者だと思う?」
(こいつ……!)
 威圧をこめた低い問いかけに、白髪の男は怯むどころか口元に薄く笑みを浮かべて聞き返してきた。
 完全になめられている。
 ロキは苛立ちながらも、相手の堂々とした態度に警戒心を強くして、眼前の人物を注視した。
 耳がのぞく短い白髪。左目は灰色の眼で、右目には黒革の眼帯をはめている。ロキよりも明らかに何十年も年上の顔立ちだが、老いているとは断言しづらい、妙に若者じみた生気を感じる。頭一つ分ほど高い身長で、着ている紺色の外套は少し汚れているが上物のように見える。
 彼は巨人族、ではない。ロキが知る同族とは身なりも含めて一線を画する雰囲気がある。ならば、人間だろうか。ロキはまだ会ったことはないが、この辺の土地は人間の住む世界ミッドガルドに比較的近いため、人間が迷い込んでくることがときどきあるという。
 思考しながらもう一度、相手の頭のてっぺんから容姿を目でたどっていく。
(ん? 白髪に隻眼……?)
 ふと、ロキの脳裏に過ぎるものがあった。意識して、ぼやけたそれを追い、とらえる。
 ――白い髪の隻眼の男、それがオーディンの外見の特徴だそうだよ。
 アングルボダの言葉がたしかによみがえってきた。
 まさか。
「っ、オーディン……?!」
 思わずロキは発していた。心臓の鼓動がいやに速くなる。
「ほう、若いのにわたしのことを知っているのか」
 ロキの驚きに、視界の中の男は愉快そうな笑みを濃くして応答した。
(うそ、だろ……?)
 肯定を意味する返事を聞いても、ロキは相手の正体をうまく受け止められないでいた。目の前にいるのは自分がここにきた理由の人物。目的を見つけたのに実感はなく、喜びはわずかもわいてこない。戸惑いばかりが感情を不安定に揺らす。
(本当に、あのオーディンなのか。こいつが……)
「どうした。顔色が良くないぞ」
 男が本物の『オーディン』だとして、ここは相手にとって敵対している者が住む土地だというのに、平静さを乱した様子は微塵もない。正体を隠そうとする気さえないようだった。
 ロキは唾を呑み込み、短い呼吸を挟み、唇を動かした。
「あんたがオーディンなのか? アース神族の長の……」
「そうだ。証拠がほしいか? なら……待て。もうすぐ来る」
「来る……?」
 意味深な言葉の一部をロキがなぞったときだ。
 ざわざわと草や葉が擦れ合う音が聞こえてきた。風、ではない。音は大きさを増して、地響きのような重たい音も加えて、ふたりのいる場所に近づいてくる。
 左のほうからだ。音の所在を察知してロキが振り返る。
 視界に映った茂みが盛大に左右に割れた。
「見つけたぞ、オーディン!」
「もう逃げられんぞ!」
 枝葉を踏みつけ、がなるような大声を上げて現れたのはふたりの大男。どちらも、ロキ達よりも二回り以上大きな身体で、服の上からでもわかるほど岩のように屈強な体つきをしている。短い暗色の髪に焼けた肌色。黒みの強い眼は爛々と怒りに満ちて、手にはそれぞれ幅の広い剣を持っている。
 巨人族だと、一目でそれと知れた。
「よくも我々を侮辱してくれたな」
 巨人のうちのひとり、額に真新しい縦の傷跡のあるほうが低い声で言い放つ。
 言動から発せられる明らかな殺気に、それが自分に向けられているわけではないのにロキの肌が粟立った。
「侮辱? わたしはただ普通に接しただけだ。それを貴殿の妻が――」
「うるさい! 戯れ言は聞かん!」
 憤りの声とともに眼光が鋭くなる。
 しかし、オーディン――と言われた白髪の男――はまるで他人事のように涼やかな表情を崩さず、やれやれとばかりに肩をすくめた。
「仕方のない奴だ」
 灰色の隻眼が瞬きを一度挟み、巨人達をとらえ直す。
 途端、周囲の空気が背に悪寒が走るほどにさらに張りつめた。
 ロキは息をひそめて、自分以外のその場にいる者を盗み見るように見る。
 オーディンも、巨人達も、完全な臨戦態勢だ。
(これは、まずいな)
 巻き込まれたらただではすまないだろう。すぐにでもこの場を離れたほうが賢明だ。
 本能が、アース神族のオーディンを捜すという当初の目的を頭の片隅に追いやって、警告と忠告を発し意識を従わせる。
 逃げるなら、互いに相手に一番集中している戦いの始まりのときだ。前に巨人達、右横にはオーディン、後ろは川。なら、逃げる道は……。
「!」
 この場からできるだけ早く脱出する経路を考え、一時彼らから目を離したときだった。
 ロキの意識の外で空気が大きく動いた。
「なっ――」
 ロキはこぼれ出そうになった言葉をすぐに呑み込んだ。視界の端に鋭く光を反射する銀色が見える。それは、剣の刃だ。巨人が持つものよりも細い剣が自分の喉のすぐそばにある。
(どういうことだよ……)
 置かれた状況を把握したロキの心臓の鼓動が速くなる。ひどい緊張に全身の筋肉が強ばって、まともに呼吸をすることさえ難しい。
 混乱する頭の上から聞き覚えのある声が降ってくる。
「一度だけ聞こう。おまえ達がここで退くのなら、この場の誰も傷つかずにすむが、どうする?」
(ちょっとまてよ! なんで俺も数に入ってるんだよ?!)
 オーディンの言葉にロキは言い返したくなったが、剣が皮膚を切り裂く恐怖に口を開くことはできなかった。身動きなんてもってのほかだ。
 傷跡のあるほうの巨人が無感動に鼻を鳴らす。
「ふん。そんな奴、どうなろうと知ったことか」
 オーディンが小さく息を吐いた。
「そうか。ならば、望みどおりにしてやろう」
「っ……」
 鼓膜を震わせた声音は冷え切っていて、ロキは心身が凍り付く感覚に襲われた。
 今ここでなんとかしなければ、自分は終わりだ。
「……おい、」
「覚悟しろ、オーディン!」
 ロキの気力を振り絞った発言は、しかし、巨人達の気迫にかき消されてしまった。
 太い足が地を蹴る。
 武器を手に、巨人達が迫ってくる。
 逃げたいが、首には刃。
 絶対絶命。
「勝手に動くなよ」
「?!」
 不意に耳元でささやかれた言葉の意味をロキが理解している時間はなかった。
 突然、ロキの体は力強く前に突き飛ばされた。剣はいつのまにかどかされていて、やってくる巨人の前に飛び出す形になる。
「ちっ」
 己の進行を妨げるロキを見て巨人が舌を打つ。地を鳴らす足の速度が少しだけ落ちて、太い指に握られた幅広の剣がぎらりと鋭い光を放つ。
 ――ああ、終わりだ。
 妙に冷静な思考の端でロキは思った。こんな崩れた体勢では、眼前からくる刃を避けることも防ぐこともできない。
 覚悟したとき、鼻先で一陣の風が吹き抜け、冷たい大地に赤色が散った。
「っ、う……!」
 ロキは勢いよく地面に倒れ込んだ。体に走った痛みにうめき声がこぼれ出る。土や草のにおいの他に鉄臭いにおいがどっと嗅覚に押し寄せてきた。
(俺は……どうなった?)
 全身が痛む。顔の近くの地面の一部が赤黒く濡れている。
 ロキは恐る恐るうつ伏せに倒れた体を動かして、確かめるように手で触れていく。
 首、胸、腹……異常は感じられない。視線もやれば、体は土で汚れているだけで出血はどこにも見当たらなかった。
 ずきずきとした痛みは、どうやら地面に体を打ち付けたせいのようだ。
「言うとおりにできたな、いい子だ」
 聞こえてきた声にロキははっとして顔を上げた。
 数歩先に、刃の一部が赤くぬめりを帯びた剣を手にした白髪の男が立っている。隻眼でロキを見下ろすその表情は涼しげで、口元には笑みさえある。
 ロキは、何も返事ができなかった。目が自然と顔から足元に落ちてしまう。
(嘘、だろ……)
 オーディンの足から三歩と行かない場所で、巨体がニ体横たわっていた。どちらの首も皮膚が横に一直線に裂け、音もなく血が流れ出ている。暗色の眼はぎょろりと剥いて、虚ろに中空を見つめている。
 彼らは先ほどの巨人達だ。すでに息絶えているようで瞬きの一つもしない。
(ひとりでやったのか……? あの、一瞬で……?)
 短時間で巨人をふたり同時にとは、信じられない。
 呆然としているロキの上に影がかかった。
 意識が、視界を遮るように近くにきた足のさらに上へと視線をたどらせる。
 灰色の眼に行き当たったところで碧眼は動きを止めた。
「さて、おまえはどうするかな」
「!」
 心臓が跳ねる。オーディンの一言に、ロキは今までで一番ひどい悪寒を覚えた。
「ここで起こったことを他の巨人に知らされては面倒だ」
 冷静な口調で不穏な言葉が重ねられる。
 ロキは何か言いたかったが、小さく震えるだけで口を動かすことはできなかった。心身を縛り付けるようなひどい緊張感に得意の頭も回らない。
「ここで殺してしまったほうがいい気がする、が……」
 声が途切れる。
 隻眼がまっすぐにロキを見据えている。
 灰色の眼は静かな湖面のようで苛烈さはないのに、そこに映す者を底なし沼のように呑み込んでしまいそうな危険な気配が感じられる。
 ――この状況を早くどうにかしなければ。逃げなければ。
 命の危機だとわかっているのに身動き一つできないでいるロキに、オーディンは血に濡れた剣の切っ先を向けた。
「ちゃんと言うことを聞いたごほうびだ。おまえに選ばせてやろう」