Loki ‐隻眼のアース神‐ 2


 歩き出したときよりも、踏む地に漂う闇の色が濃くなってきた。頭上に目をやれば、重なる木の葉の間からこぼれる陽光から目を刺すような眩しさが失われている。
「目的地まではまだかかりそうか?」
 後ろからかけられた声にロキは振り向かずに応えた。
「ああ。暗くなる前には着けないな」
「そうか。では、どこかで一夜を明かすとしよう。できるだけ早く着きたいが、急ぐ身ではないからな」
「……なら、こっちに野宿に適した場所がある」
 ロキは顔だけで背後をちらと見てから、進む方向を正面から右に変えた。
 彼が通ったあとを躊躇うことなく白髪の男がついていく。
 ――わたしの案内役になるか、ここで生を終えるか、どちらがいいか選べ。
 さかのぼることおよそ三時間前、それがオーディンから絶体絶命のロキに与えられた選択肢だった。
 ロキが選んだのは、前者だ。その選択に迷いはなかった。全く関係のないことに巻きこまれて死ぬなんて、たまったものではない。
(くそ……。どうにかして、すきを見つけてやる……!)
 そして、この形勢を逆転してみせる。こうなったら、最高の手柄も立ててやろうではないか。
 おとなしく相手の言うことに従いながらもロキは強くそう思って、歯噛みしながら足を進めていく。
 腰まである茂みを越え、木々の間を縫うようにして歩くこと十分。垂れ下がる枝葉をかき分けると、視界が少し開けた。現れた場所は、今まで通ってきたところよりも木や植物が少なく、地面が平坦になっている。
 ロキは足を止めて、今度はちゃんと後ろを振り返った。
「ここはどうだ? 向こうに行ったところに沢もある」
「ああ、悪くないな」
 オーディンはさっと辺りを見回してから、ロキと目を合わせると口元に微笑を浮かべた。何もわからない者が見たらそれは気さくな印象を受ける笑みだったが、ロキは少しの安らぎも覚えなかった。しかめた顔をふいっとそらした。
 しかし、その反応にオーディンが気にした様子はなく、さっさとロキの横を通り過ぎていくと、携えていた荷物を下ろして野宿の支度を始めた。
「………」
 無防備に向けられた紺色の背中を見ながらロキは、ここから逃げるか、それとも不意打ちをしかけるか、考えたが、結局どちらも実行することはできなかった。
「……手伝う」
 じっとしているのも手持ちぶさたで妙に心許なくなってきて、たき火に使う枝や葉などを拾い集める。
 ふたりで黙々と支度をする間に森の暗さは増していき、たき火の前に腰を落ち着ける頃にはすっかり夜の闇におおわれた。
 ロキは水筒から水を飲み、見るともなしにたき火に目をやった。
 冷たさを帯びた空気の中に炎のはぜる音が小さく鳴り、火の粉が舞っては溶けるように消えていく。
「食べるか?」
 その声にロキは斜向かいに顔を動かした。
 オーディンが手のひらを上にして片手を差し出してくる。開いた手には、表面が少しでこぼことした楕円形の薄茶色いものがのっていた。
「これは……」
「木の実の入ったパンだ」
「………」
「毒なんて入ってないぞ」
 じっと見たまま手を出さないロキにオーディンは少し笑いを含んだ声で言って、パンを一口食べてみせる。異変は起きない。言葉のとおり、毒は入っていないのだろう。
 理解しても、ロキは受け取ろうとしなかった。真剣な面持ちで慎重に口を開く。
「それは、アースガルドで作られたものか?」
「そうだ……なるほど」
 ロキの質問にオーディンは答え、すぐに納得した様子で一つうなずいた。
「生まれ育った世界以外の食べ物を口にすると気が狂い、九日間苦しんだ末に死に至る。おまえの心配はそんなところか?」
 正解だった。だから、ロキは苦い顔色を濃くした。
「知っていて勧めたのか?」
「なんだ、そんな話を信じているのか」
「……嘘だという証拠はどこにもないだろ」
 真実だという証拠もロキは知らない。だが、自分が生まれ育った世界から一歩も外へ出たことのないロキにとって、他の世界の食べ物を摂取することには抵抗がある。しかも、それを差し出してくるのがあのオーディンとなれば、生まれるのは好奇心ではなく強い警戒心だ。
「慎重だな。だが、何事も自分の感覚でたしかめなければわからないこともあるぞ」
 オーディンが再びパンを口にする。何も返事をせず顔を背けたロキに頑なさを感じ取ったのか、あれ以上勧めてくることはなかった。
 パンを食べ終えたオーディンはおもむろに剣を手にすると、鞘から抜いた。薄闇に鋼が一瞬鋭くきらめいた。
 それを横目で見たロキは内心びくりとしたが、刃は誰にも向けられることはなかった。オーディンは剣を端から端まで眺めると、取り出したいくつかの小道具で手入れを始めた。
 じじじ、とどこかで虫が鳴く。ぱちぱち、とたき火がはぜる。それらの中に時折、衣擦れの音が混ざる。
 夜の森に静かな時間が流れる。
 ロキは不規則に波打つように動く炎のほうを向きながら、すきを探してちらちらとオーディンをうかがっていた。
 剣の手入れをする姿はのんびりとしていて無防備に見える。今なら……と思うが、体を動かすまでには至らない。オーディンが横に寝かすように置いていた剣を少し立てるように持ち上げた。たき火の赤っぽい光が剣の刃に映り、数時間前に見た光景をロキの脳裏によみがえらせて、奮い立とうとする意思をさらにそいだ。
 ロキはうつむき、影が揺らめく赤褐色の地面を見つめた。
(俺だけじゃ無理だ)
 悔しいが認めざるを得ない。自分ひとりではオーディンに太刀打ちできない。他の奴の力が必要だ。ならば、この先で助力を得るしかない。アース神族の長が案内しろと言った、岩の巨人の館で。
「先に休むか?」
 ロキが顔を上げてオーディンを見る。
 剣の手入れを終えたオーディンがたき火に枝をくべる。炎が大きく揺れて、夜の空気に無数の火の粉が舞い上がった。
「先に休んでいいぞ。火の番と見張りはわたしがしよう」
「いや……」
「警戒なら無用だ。おまえを殺したいなら、こんなところにくる前にそうしている」
 穏やかな顔色を少しも変えずに平然とオーディンが言った。
 ロキは眉を寄せたが十秒と経たないうちにそれを解いた。
「じゃあ、先に休ませてもらう」
 オーディンの言葉を呑むことにしたのだ。
 警戒心がなくなったわけではないが、現状で相手に分があるのは事実。ここはやってくる好機に備えて体力を温存するほうが賢明、また、素直に従う姿を見せて相手の油断を誘おうという考えもある。
 ロキは自分の手元に短剣を置き、鞄から出した薄手の毛布にくるまって地面に横になると瞼を閉じた。

   ◇

 暗い静寂が音もなく破られる。

 少年は浅い眠りから目を覚まして顔を上げた。
(な、に……?)
 心をかき乱すような得体の知れない嫌な感覚を覚えて、緩慢な意識が急速に覚醒していく。
 少年はもたれていた木の幹から体を離して、ゆっくりと周囲を見回した。
 見渡す限り八方はどこまでも鬱蒼と草木が生い茂っている。複雑に重なり合った枝葉の間からこぼれ落ちる陽光は淡く、森の中はまだ昼間だというのにすでに夜の気配をはらんでいる。時折り、どこからかしわがれた鳥の鳴き声が響き、風が木々をざわめかせる。
 目を凝らしてみても、辺りは木の根元に座りこんだときととくに変わったところはない。しかし、不穏な感覚は消えるどころか強くなる一方で、肌は粟立ち、手が小刻みに震える。
 少年はくるまっている外套の下に土で汚れた手を入れ、腰につっている剣の柄に触れた。硬質な感触を意識しながら、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
 その剣は少年が故郷から持ち出すことのできた、数少ないものの一つだった。そして本能が、今はそれが必要だと少年に囁いている。
(こわい)
 膨らんでいく恐怖に少年が心の中で弱々しくつぶやくが、それをやわらげてくれる者はいない。たとえ、大声を出しても、泣き叫んでも、心配して駆けつけてくれる者は誰もいないだろう。その事実は少年にも痛いほどわかっていた。だから、歯を食いしばることでそれ以上の弱音と涙を堪え、とらえられない何かに怯える心を奮い立たせて、その場に立ち上がった。
(……なにか、くる)
 静寂の中に風の仕業ではない茂みの揺れる微かな音を聞き取って、少年の鼓動が速まる。
 未だに震えのおさまらない手で、少年はもどかしげに剣を引き抜いた。鞘と擦れ合って響く鋼の音がいやに耳についた。
 自分の半身ほどある剣を正眼でかまえて、辺りに注意を払う。
 茂みの不自然な音は立て続けに三度聞こえ、ぴたりと止んだ。まるで周囲の時間が停止してしまったかのような異様な静けさに少年が息を呑む。
 突然うねるような風が吹いて、森が一転して大きなざわめきにつつまれた。
 外套がはためき、地に落ちていた草や葉が宙を舞う。
(――右!)
 本能的にそう感じて少年が横に振り向いた直後、茂みを越えて大きな影が躍りかかってくるのを視界にとらえた。
 低い唸り声が耳に届く。
 考えるよりも早く、少年は体を動かしていた。
 大きく腕を振るう。
 剣を通してやわらかい感触と重い抵抗感が手につたわってくる。怯みそうになるのを堪えて、少年は力一杯剣を振り切った。
「っ……!」
 抵抗がなくなると同時に、露出している手や顔に生暖かいものを感じた。鼻先に吐き気をもよおしそうな異臭が漂ってくる。
「はぁ、はぁ」
 少年は荒く呼吸しながら、手から滑り落ちそうな剣を持ち直して、警戒した面持ちで眼前に倒れた『それ』を見つめた。
 四本の脚を地面に投げ出しているそれは、全身が褐色の短い毛におおわれた一頭の狼だ。その体長は後ろ足で立ち上がれば、少年と差がないほどに大きい。薄く開いた口からは獲物の肉体を容易く噛みちぎってしまいそうな鋭利な歯がのぞいていて、少年は思わず一歩下がって柄を握る手に力をこめた。
 だが、狼は微動だにしなかった。眼が少年のほうを向くことすらしない。
 少年のとっさの一撃が狼の首筋を深く切り裂いていた。斜めに開いた傷口から血液が地面に止めどなく流れ出ている。動脈を断ち切られたことで狼はすでに絶命していた。
「はぁ……」
 血のついた切っ先が地面に落ちる。張りつめていた精神が緩んで、少年はその場にしゃがみこんだ。
 ――今すぐにでも剣を手放してしまいたい。しばらくこうしていたい。
 そんな気持ちに駆られたが、少年は首を横に振って萎える精神を奮起させた。
(だめだ。休んでちゃ、いけない……)
 他の狼や獣が近くにいるかもしれない。血のにおいに引き寄せられてくる可能性がある。ここでじっとしているのは賢明ではない。
 少年は剣を支えにして、少しふらつきながらも立ち上がった。
 刃から血を拭うのも忘れて、不気味な静寂が戻った森の中を注意深く歩き始める。
 辺りに目と耳を立てながらひたすら足を進めていると、微かに川のせせらぎが聞こえてきた。
(近くに水が……)
 そう考えた途端に喉の渇きを覚えて、少年の足は自然と、ささやかに響く音のほうに向いていた。
 辺りの気配に注意しながら、枝や石の転がる地面を歩き続ける。
 川のせせらぎは徐々に大きくなっていき、正面の茂みを慎重にかき分けて越えると視界がひらけた。数歩先に、陽光を受けて輝く水面が見えた。
 現れた場所へ少年は足早に寄った。
 たどり着いた川の流れは穏やかで川幅は狭く、水深は最も深いところで少年の腰ほどまでで、川底が見えるぐらいに透明度が高い。周辺には太陽を遮る草木が少ないため、少年が歩いてきたところよりも明るく、肌に触れる空気もいくらか暖かい。
 少年は川辺で膝をつき、傍らに剣を置くときらめく水の中にそっと右手を差し入れた。肌を突き刺すような冷たさに一瞬息が詰まったが、ひんやりとした感触はすぐに心地よさに変わった。
 流水と戯れるように両手を洗って、手のひらですくった水を喉に流しこむ。清冷な水が痛んだ体に優しく染み渡っていくのを感じて、ゆっくりと息を吐いた。
(……そうだ)
 少年が口元から滴る雫を拭っていた手を止めて、自分の右横に視線を落とす。水面の輝きとは対照的に冷ややかに陽光を反射する剣には、未だ血液が付着したままだ。
「っ、」
 唐突に少年の脳裏に、地面に倒れてぴくりとも動かなくなった狼の姿が過った。
 胸の奥から生ぬるいものがこみあげてくる。
 少年は、剣に触れたくないと思った。
 身を守るためだったとはいえ、自分はそれで生物の命を一つ奪ったのだ。己がしたことの大きさと重たさをここにきて実感し、落ち着いた心がまた乱れ始める。目の前の剣が、数少ない自分のもので、大切なものだと感じたこともあるのに、今はひどく恐ろしいものに映った。
 ――ロ、キ。
 ふと、少年の耳の奥に小さな声音が響いてきた。
 それは、知っている。まだ記憶に新しい。自分を呼ぶ声だ。
 心臓がぎゅっと締めつけられるように痛む。苦しい。
 少年は剣から顔をそらした。と、水面に映る自分と目が合った。
 こちらを見返してくるその顔と黒い髪には、ところどころ血がついている。
「っ……」
 耐えきれず、少年は固く目をつぶった。視界が一面の黒に変わる。
 しかし、逃げるために閉ざした暗闇の中に、まるで追いかけてくるようにして赤い像が浮かんでくる。
 ――辺りに散る鮮血。
 ――放り出された汚れた剣。
 ――地面にうずくまる、ひと。
 ――小さなうめき声。
 ――血のにおいが鼻をつく。
 重い感情が少年の細い喉にせり上がってくる。
 堪えることができない。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ、そんなつもりじゃ、なかった……!」
 少年がぎゅっと拳を握り締めながら、絞り出すように謝罪を口にする。指が地面を引っかき、綺麗に洗った手が土にまみれるが気にとめている余裕はない。
 もう思い出したくない、見たくないのに、像は消えない。それどころか鮮明さを増して、少年の意識に鎮座する。
 ――うずくまるひとが、ゆっくりと顔を上げる。
 ――血で汚れた唇が動く。
「謝れば、それですむと、思っているのか」
「!」
 低い声が脳髄に響き、悪寒が背筋を駆け抜けた。
 少年が瞼を開き、瞠目する。
 視界に見えた景色に呆然となった。
 水面が穏やかに光る川でも、木々が鬱蒼と茂る森でもない。空は灰色の厚い雲におおわれて、淡い陽光しか届かない薄暗い地上に木や草はなく、凸凹とした茶色い地面ばかりが広がっている。まるで別の場所だ。
 少年の目は、数歩先で自分と向かい合うようにして立っている、背の高い黒髪の男に釘付けになった。
「ヘルブリンディ、兄さん……」
 かすれた声で少年は呼んだ。わき上がる恐怖が抑えきれず、体が震え出す。
「おまえのせいで、俺は目を失った」
 深い憎悪のこもった声で男が言い放つ。
 少年の心臓がどくんと大きく鼓動する。
 男の顔は両の目が位置するところに直線状の切り傷があり、そこから流れる血で真っ赤に染まっていた。
 流血が涙のように頬をつたい、地面にぽたりぽたりと落ちていく。
「おまえのせいだ」
 じゃり、と砂と石がこすれる音がした。
 男が少年に向かって歩き出す。その右手には、切っ先が赤く濡れた剣が握られている。
「っ……」
 少年は口を開くが、不安定な息がこぼれるだけで一音も発せられなかった。立ち上がることもできず、男が近づいてくるのをただ見ているしかない。
 目の前で男が足を止めた。
 少年の膝近くに血の雫が落ちる。
 剣の刃に強ばった幼い顔が映る。
「おまえのせいだ、ロキ」
 呪詛のような言葉とともに、剣が少年めがけて振り下ろされた。

   ◇

「っ……!」
「おっと」
 ロキが勢いよく瞼を開くと、白髪隻眼の顔が少し驚いた様子で視界の中央から端のほうに退いていった。
 とっさにくるまっていた毛布を放り、短剣を握って半身を起こす。
「何をしている!」
 殺気立つロキに、傍で膝をついているオーディンは首を横に振って軽く両手を上げてみせた。
「落ち着け。何もしていない」
「じゃあ、なんで」
「ずいぶんうなされていたから起こそうと思ったんだ。悪夢でも見たか?」
 応えようとロキは口を開いたがすぐに閉じた。
 頭の中に夢の残像がちらちらと現れては消えていく。
 ロキは唇を固く一文字に結んだ。
 ――あれは、単なる悪夢なんていう生易しいものではない。あれは、己の記憶だ。完全には忘れられない、忌々しい思い出の現実と夢の狭間のもの。
「大丈夫なら、いい」
 難しい顔をして黙りこんだロキにその胸中を察したのか、オーディンはそれだけ言うと元の斜向かいの場所に戻っていった。腰を下ろして自身の荷である鞄を手に取る。穏やかな表情からは、ロキをうかがっている様子は見受けられない。
「………」
 それでもまだ油断ならないと、ロキは短剣を握ったままでオーディンを注視していたが、六呼吸分の沈黙の後に身構えるのをやめた。念のため、視界の端に相手の姿をとらえながら、地面に落ちた毛布を手元に引き寄せる。
(……あれ、久しぶりに見たな……)
 思考が未だ消え去らない夢の断片を拾い上げる。
 ここ何年かは意識的にも無意識的にも思い出すことがなかった。それがどうして今になって夢で出てきたのか。
 理由を考えたロキは、自分の置かれた現在の奇妙な状況をあらためて認識して、背筋に冷たいものが走るのを感じた。毛布に触れる手に力がこもる。
 嫌な出来事の前兆にはならないでほしい。
「もう一眠りするか?」
 何の思惑も感じ取ることのできない灰色の隻眼がロキを見る。
 ロキは毛布を全て引き寄せてからまっすぐ見返した。
「いや、もういい。次はあんたが、」
「そうか。なら、早いが発つとするか」
「……え?」
 自分の発言を遮ったオーディンの科白の意味をつかみ損ねて、ロキは二度瞬いた。
「夜は明けた」
 オーディンは手荷物を確認しながら、のんびりとした口調で疑問に応える。
「今は薄暗いが、あと一時間もしないうちに森の中も十分明るくなるだろう」
(夜明け……? 本当だ)
 オーディンや悪夢のことに気をとられていて全く気がつかなかった。
 ロキが慌てて周囲を見回せば、冷たい闇におおわれていた景色はうっすら白んで、木々などの輪郭や色、淡く陰影も見ることができる。
 記憶のうちでは赤々と燃えていたたき火は日の光に圧されるようにすっかり火力を弱め、火の粉がちらりとだけ宙を舞う。
(そんなに寝てたのか……俺は……)
 野宿でこんなにも深く寝たことなんて、今の今まで一度もなかった。
 きょとんとするロキを横目に支度を整えたオーディンが腰を上げる。
「わたしは今から沢に行ってくるが、おまえはどうする? もう少しここでゆっくりしていてもいいぞ」
「っ……おい、あんたは寝なくていいのか?」
 はっとしてロキが問えば、オーディンの口元に軽い笑みが浮かんだ。
「問題ない。長時間休まずとも平気な身だからな」
 それは、自分にたいする嫌みなのだろうか。
 ロキの喉元に反感の情がわき上がってきたが、オーディンの足の先が沢のある方角を向いたので、文句を言いたい気持ちは早々に飛んでいった。
「待て、俺も行く」
 急いでロキが毛布を鞄に詰めこむ。
 逃げられるかもしれないという危惧以上に、気遣われていることが気に入らなかった。
 荷物を手にしてロキがたしかな足取りで立ち上がると、オーディンは顔だけで振り向いて笑みを広げた。
「では、行くとしようか」
 たき火に砂をかける。残っていた火はたちまち消えて、薄灰色の煙が明るくなり始めた空へ細く立ちのぼった。