Loki‐隻眼のアース神‐ 3


 ――この辺りを治めている巨人アッハルドのところへ案内しろ。
 それが、オーディンからロキに与えられた、生き残るための選択肢の具体的な内容だった。
 ロキはこの土地の生まれでも育ちでもないが、幸いにして指名された巨人の住む館の場所を知っていた。
 オーディンがなぜアッハルドのところへ行きたいのか、その目的についてロキは知らない。告げられなかった、また、気安く尋ねられるような立場ではないからだ。だが、アース神族の長にまつわる噂から考えて、おおよそ友好的なものではないと推測できる。
(オーディンの来訪にアッハルドはいい顔をしないはず。うまく立ち回って味方につければ……)
 後ろを歩くオーディンに気づかれないようにロキは策を練る。
 巨人族同士の抗争は珍しくない。そのため、アッハルドも私兵を持っている。屈強な巨人ふたりを容易く殺めた相手だが、何倍の人数ともなれば勝機はこちらにあるだろう。
 陽光が辺りを明るく照らし、大気からも夜の気配が完全に消えた頃、木や草ばかりの景色の中に褐色の岩壁が現れた。表面がごつごつとした岩の壁は、横も縦も首を限界まで傾けないと全体がわからないほどに巨大だ。
 前方に見える岩壁からあえて距離を置いてロキは立ち止まった。
「巨人アッハルドの館は、あの岩の洞窟を通ったところにある」
 指差した先には、ふたりが通るには充分な大きさの穴が一つ空いている。穴は奥深く続いているようで、外からでは内部の様子は闇に沈んでしまっていてわからない。
 ロキは後ろにいるオーディンに振り返った。
「アッハルドと会う約束は……」
「してないな」
「……だよな」
 さらりと返された答えにロキは少し眉を寄せて、岩壁のほうを一度見直してから提案した。
「じゃあ、俺が先に行って、あんたが来ていることをアッハルドに知らせるよ。そうすれば、いきなり行くよりも危険が減るだろ?」
「ほう、優しいな。そこまでしてもらえる義理はないような気がするが」
「あんたに何かあったときに、他の神の奴らの怒りを買いたくないだけだよ」
「なるほど、保身のためか」
 隻眼がロキを見つめる。
 一回の瞬きがされるまでの時間がやけに長く感じた。
 オーディンの口元がゆっくりと形を作った。
「わかった。おまえに任せよう。わたしの用件だが、アッハルドには『例の石についての話がしたい』と言えば伝わるはずだ」
「ああ。行ってくる。ここで待っていてくれ」
 軽く笑みを浮かべるオーディンにロキは背を向けて、岩壁へと歩き出した。


 怪しまれなかっただろうか。自然体のようにうまく振る舞えただろうか。
 暗い洞窟の中を進みながら、ロキは不安になる気持ちを細く息を吐き出すことで落ち着かせる。
(……大丈夫だ)
 自分が緊張していただけで、ひやりとするところはなかった。言ったとおり、オーディンがついてきている気配もない。
 大丈夫。今は、後ろのことよりも前のことに集中しなければ。
 進む先を碧眼で見据え、踏む一歩に意識を通す。
 外から見たときは真っ暗だった洞窟だが、実際に中に入り、少し進んでみると壁の一部がほのかに光を放ち始めた。外の陽光と比べれば心許ない、足元や周囲の岩壁がうっすら見える程度の光量だが、慣れてしまえば夜目がきく巨人族のロキにとっては移動するのに充分な明るさだ。
 こつ、じゃり。洞窟内に足音が小さく反響する。代わり映えしない岩の空間の一本道ばかりが続く。足裏に伝わる感覚から、どうやら少し上り坂になっているようだ。
「! っ……」
 不意に、薄暗い褐色の視界が赤っぽい光に染まった。突然のまぶしさに目の奥につんとした痛みを覚えて、ロキは片手を額にかざして目をすがめた。
「――何者だ」
 響いてきた鋭く低い声が、歩が緩んだロキの足を完全に立ち止まらせた。
 前方から足音が聞こえる。
「この先はアッハルド様の館だ。用のない者は早々に立ち去れ」
 ロキが瞬きを三度挟んで視界を安定させると、進行方向に松明を手にしたひとりの巨人の男の姿が見えた。短い黒髪と射るような眼差しの暗色の瞳。武器や防具を身につけた格好と発した言葉からして、どうやらここの番人のようだ。
 自分よりも年上の巨人を見据え、ロキは臆せずに応えた。
「巨人族のロキだ。館の主アッハルド殿に話があってきた」
「ロキ……? ああ、鉄の森の魔女のところにいる流れ者か」
 番人がせせら笑う。
 彼の言う、『鉄の森の魔女』とはアングルボダのことだ。今のロキはやむを得ない事情で生まれ育った土地を離れ、彼女のところで厄介になっている。
 明らかな侮蔑にロキは表情を歪めそうになったが堪えて、落ち着いた口調でここにきた目的を口にした。
「アッハルド殿に取り次ぎ願う。始祖殺しについての話がある」
 途端、一つの火の光だけでもわかるほど、番人の顔がこれまでになく険しいものに変わった。
「……ここで待っていろ」
 番人はそう言い残して、曲がり角になっている左手へと歩いていった。
 この場で最も明るかった松明が遠退いて視界に暗闇が戻る。明暗の変化に驚く眼を数秒間瞼を下ろして落ち着かせながら、ロキは一つのことを確信した。
(オーディンがこの辺りにいることは、やっぱりもうアッハルドの耳に入っているのか)
 しかも、番人の様子からして、オーディンのことをかなり警戒しているようだ。これなら話が早いかもしれない。
 ロキの胸中にそんな期待がわいたが、それは同時にうまくやらなければ自分の身が危なくなる可能性も高いということでもあるのだと思い直す。注意は怠れない。
(本当、面倒くさいことになったな……)
 気の抜けない現状にあらためてそう感じながらも、ロキは番人を待つ間、アッハルドを説き伏せる段取りに思考を巡らせた。
 時間にして十分ほどだろうか。再び正面が火の光に照らされた。
「ついてこい。館へ案内する」
 戻ってきた番人が無愛想にロキを呼ぶ。
 ロキは躊躇うことなく前へ足を進めた。


 二つの足音が反響する。
 洞窟を抜けるのかと思いきや一向にその気配はなく、ロキがアッハルドの住む場所に館という名称がつくことを不思議に感じ始めたとき、進行方向に意外なものが見えてきた。
 岩の壁の一部が薄闇の中でもわかるほど、これまでとは異なっている。ロキの身長よりも大きく四角い形をしたそれは、岩を削り出して作られた扉だ。表面にアッハルドの館であることを示す、斧と岩の紋章が刻まれている。
 番人とロキが扉に近づくと、わきに置かれた松明のそばで岩に座っていた巨人がのっそりと腰を上げた。無言のまま扉に両手を触れる。一呼吸の間を置いて、ずずずと重い音を立てながら扉が押し開かれた。
 番人が顔だけでロキに振り向く。
「この先、少しでも妙な真似をしてみろ。無傷で帰れるとは思うな」
「肝に銘じておくよ」
 ロキの冷静な返事に番人は彼を一睨みしてから前に直った。手にしていた松明を扉の横にいる巨人に渡し、開かれた先へ歩いていく。
 ロキも新たな鋭い視線を受けながら扉をくぐった。
 闇が薄れ、褐色が鮮やかさを増す。
 広い、そして明るい。
 本当にここはまだ洞窟の中なのだろうか。
 通ってきた岩の道の様子から館の中を勝手に想像していたロキは、目に入ってきた空間に驚いた。
 体格の良い巨人が十人いても余裕があるほどに広々としている。やや湾曲した大きな空間の奥には五つの扉が等間隔に並び、その上には二階がある。こちらは中央に紋章が入った布の壁掛けが飾られて、左右に二つずつ扉が並んでいる。壁や天井、床はこれまでと同じ褐色の岩だが凹凸は少なく、ところどころ白く発光していて、ここに来るまでよりも格段に明るい。
(……やっぱり『発光石』か)
 ロキは近くで白い光を帯びている石をはっきりと目にして、ようやくその正体を知った。
 発光石はヨツンヘイムの一部で採れる鉱石で、名前のとおり自ら光を発する石だ。採掘量は多くない貴重品である。それをこれほど贅沢に使えるということにアッハルドの力の大きさがうかがえる。
(オーディンの用件は石とか言っていた……目的はこれか?)
「発光石を一つでも盗んだらその首を飛ばす」
 耳に届いた物騒な言葉にロキが石から顔を動かせば、たしかな敵意のこもった眼と視線が交わった。
「しないよ。俺には必要ない」
「ふん」
 鼻を鳴らして番人が歩き出す。ロキが後ろに続く。
 まっすぐ進んでいき、五つのうちの中央の扉の前で足を止めた。他の扉よりも一回り大きく、唯一紋章が刻まれたその扉の両脇には番人以上に武装した巨人がひとりずつ立っている。
「アッハルド様に面会の客だ」
 番人が扉の傍らにいる巨人に告げると、ここでも射るような眼光がロキに向けられた。鎧と剣が擦れる硬質な音がする。
「この先の部屋にアッハルド様がいらっしゃる。失礼のないように」
「ああ」
「念のため、後ろに控えさせてもらう」
「かまわないよ」
 ロキが返事をすると、警告を口にした巨人とは別の巨人が三回拳で軽く叩いたあと扉を開いた。
 奥行きのある部屋だ。床には動物の毛皮が敷かれ、壁には大きな斧やこの辺りの地形を描いたつづれ織りが飾られている。そして扉から直線上の最奥には、椅子に腰かけている大柄な男の巨人の姿がひとり。
「中に入れ」
 言われたとおり、ロキは室内に足を踏み入れた。背後で扉が閉まる。
 部屋の半ばまで進んだところでロキは足を止めて、あらためて前を、そこにいるアッハルドを見た。
 たてがみのような黒褐色の髪と髭に、歳月による皺が深く刻まれた顔。見返してくる黒色の双眸からは、光を冷たく反射する研がれた斧のような剣呑さが感じられる。入る前からわかりきっていたことだが、歓迎の雰囲気は皆無だ。
 ロキは張りつめた空気を肺に落とし、ゆっくりと言葉を発した。
「ロキと申します。アッハルド殿にお話があって参りました」
「アース神族のオーディンについてどんな話を持ってきた?」
 応答したのは、慣れた威圧感の中にどこか急かすような響きを含んだ声だった。
 アッハルドの様子に注意しながらロキは言葉を重ねる。
「オーディンがアッハルド殿にお会いしたいと、館の洞窟の手前まできています」
「なんだと」
 吹いた風に波紋を広げる湖面のように空気が揺らいだ。
 アッハルドの顔が明らかな険しさを帯びる。
「本当か?」
「はい。アッハルド殿と『例の石についての話がしたい』とのことです」
 ロキを見据える黒の眼がさらに鋭くなった。
 わずかに発せられた殺気を肌に敏感に感じ取る。
(うつむくな。まだ大丈夫。ここからだ)
 心臓を握られているかのような強い圧迫感を覚えて、ロキはたじろいでしまいそうな己に言い聞かせる。
 問題ない。アッハルドのこの反応は予想していた範囲だ。
 数秒黙考する様子を見せてからアッハルドが再び口を開いた。
「オーディンはその用件について他に何か言っていたか?」
「いいえ、内容については何も聞いておりません。ただ、ああ言えばアッハルド殿には伝わるはずだと」
「そうか」
「――アッハルド様」
 不意にロキの背後で声が上がった。
 アッハルドの目線がゆるりと動く。ロキも顔だけでそれを追った。
「発言をお許し願います」
 声を上げたのは警備のために扉の前で控えている巨人だ。真剣な面持ちでアッハルドを見つめている。
「なんだ」
「オーディンが館の近くにいるのなら、一刻も早く兵達に召集をかけたほうがよろしいかと思われます。オーディンは魔術を使うと聞きます。それが本当なら、こうしている間にも策動している可能性があります。時間が経つほど危険です」
(余計なことを……)
 内心ひやりとして、ロキは思わず睨みそうになったが、瞬きを意識的にすることで堪えた。
「なるほど。それも一理あるな」
 冷静な声が背後からロキの心臓を突く。
「だが、今答えを出すのは早い。まだ話を全て聞き終えていない。判断はそれからだ」
 アッハルドは部下の真摯な進言に一つうなずきながらもやんわりと制すると、ロキに目を戻した。
「ロキと言ったか。我らの始祖を殺した者に手を貸す貴様は何を企んでいる?」
 直球な言葉だ。そこに試すような響きはなく、放たれた意味のままの感情がある。
 向き直ったロキは少し頭を下げて、苦渋の表情を浮かべた。
「企みなどありません。自分はただの案内役です。昨日森にいたときにオーディンに捕まり、アッハルド殿の館へ案内しなければ殺すと脅され、言うとおりにするしかありませんでした」
「それが真実だという証拠は? なければ、貴様をこの館から無事に出すわけにはいかない」
「わかっております。ですから、アッハルド殿に一つ提案がございます」
 ロキが頭を上げ、訝る視線を真っ向から受け止めて先を続ける。
「オーディンを我々の手で仕留めるというのはいかがでしょう。現在、オーディンはひとりでヨツンヘイムへ来ています。彼の魔術を心配されているようですが、ご安心ください。自分も魔術の心得がございます。そして、鉄の森の魔女の助力もこちらに」
 ロキが腰につけた革袋から手のひらほどの四角い木箱を取り出してアッハルドに見せる。表面に紅いかぎ爪の絵が描かれた箱の中には、オーディンのためにアングルボダが調合した毒薬が入っている。
「策のほうはすでに考えております。あとは、アッハルド殿のお力を貸していただければ、確実にオーディンを仕留められることをお約束します」
 きりのいいところでロキは話を止めて反応を待った。
 アッハルドは碧眼を見据え返し、黙したまま自身の髭に触れた。無骨な指が黒褐色の上をゆっくりと上下に行き来する。その顔から警戒の色は消えず、答えはない。
(だめか? なら、もう少し……)
 続く沈黙にロキがさらに己の考えを説こうかと考えたとき、アッハルドは「うむ」と小さく声を発して髭から手を離した。
「その提案に興味はある。貴様が考えた策とやらを聞かせてもらおうか」
「ありがとうございます。まずは、オーディンをこの館へ入れます――」
 相手の表情と語調の微かな変化にロキは手応えを感じながら、慎重に策を話し始めた。