りんごパイ


「ただいま」
「あ、おかえりー、ロキ」
「………」
 何気なく自宅の扉を開けて玄関へ足を一歩、踏み入れたところでロキは固まった。
 視界に入ってきたのは、ここで見るとは少しも予想していなかった銀色。
 すぐに自分が家を間違えたのかと思ったが、眼前に現れた彼の周りに見える景色は見知ったそれだ。
 ――ここは、たしかに自分の家だ。
 では、なぜだ。なぜ、彼がここにいる。
「ロキ? そんなとこで突っ立ってどうしたの?」
「……それは、こっちの台詞だ。ここは俺の家だぞ、ウル」
「うん、そうだよ」
 ようやく発した低い言葉にたいして、自分を出迎えた銀髪の少年――弓神ウルはあっさりと肯定した。
「………」
 あまりにも当たり前のように返されて、ロキは胸中にわき上がる感情が何であるのか、自分でもわからなくなった。
 怒りなのか、虚しさなのか、呆れなのか。それとも。
「ロキ、入りなよ」
「……ああ」
 思考が深く沈む前に耳に届いた暢気な声に、ロキはとりあえず考えるのを中断することにした。
 疑問を抱いたまま、しかめっ面で家の中に入る。
 まるで当然とばかりに先に歩いていくウルのあとについていく形で、ロキも足を動かしていく。
(本当に、なんでこいつが俺の家にいるんだよ)
 前を行く銀髪の背中を睨むような眼でとらえながらロキは思う。
 ウルが家にくることはこれまでなかったわけではないが、ここまで堂々と入り込んできているのは初めてだ。しかも、自分の留守中に。
 もやつくものを胸中に抱えた重い足取りの自分とは対照的に軽快そうな相手を見ていると、引き留めて問い質したくなってくる。
 そんな衝動に駆られたとき、ウルが立ち止まった。反射的にロキも足を止める。
「ロキ、おかえりなさい」
 聞き慣れた穏やかな声音がロキの意識をひきつけた。
 気づけば、そこは台所で、声のほうを見れば、シギュンが黄金色のりんごの入った網かごを手に立っていた。
「た、ただいま……」
 彼女からいつもと変わらない笑顔を向けられて、ロキは後ろめたいことは何もないのに、妙にばつの悪さを感じながら挨拶を返した。
「シギュン! りんご、もう切っちゃった?」
 そう言いながらウルが文字通り、ふたりの間に割って入ってきた。
 ロキはむっとしたが、何か言う前にシギュンの声が耳に届いて、わいた感情に歯止めがかかった。
「まだよ。一緒にやってみながらのほうがいいと思って」
「ありがとう」
 嬉しそうにウルが礼を言って、そのまま台所でシギュンと並んで立つ。
「まず、りんごの皮を……むける?」
「むけるよ」
 ウルがシギュンから渡されたりんごと置いてあった包丁を手に取って、慣れた手つきで皮をむき始める。シギュンも別のりんごと包丁を持ち、時折りウルの様子に目をやりながら自分も手を動かしていく。
 艶のある金色の皮が二枚、弧を描きながらまな板に下りていく。ほどなくして、どちらの金色も下に落ちきり、淡い黄色をした瑞々しい実がふたりの手の中に現れた。
「できた」
「すごい、上手よ」
「ありがとう、シギュン。これからこのりんごをどうするの?」
「いちょうの葉のように切るわ。まずは、手本を見せるわね。皮をむいたりんごをこうやって……」
 ――なんだ、これは。
 目の前で繰り広げられる光景にロキは困惑する。
 どうやら、シギュンがウルに料理を教えているようだ。しかし、なぜ。どうして、シギュンがウルに教えているのだろう。たしかに、ウルとは前々から交流がある。だが、ふたりはこんなに親しかっただろうか。
 初めて目にする状況に、ロキは黙っていられず口を挟んだ。
「シギュン……子供達はどうした」
 手本を見せてからウルがりんごを切るのを見ていたシギュンが、ロキに顔を向ける。
「ふたりともトールさんの家にお泊まりに行ったわ。明日の夕方に帰ってくるって」
「……そうか」
「ねぇ、シギュン。どう、これで?」
 横合いからの声に、シギュンの青色の双眸がロキから外される。
「いいわ。綺麗に切れてる」
「やった!」
 ウルの喜色に満ちた言動を受けて、シギュンも自分のことのように笑顔になった。
「………」
 楽しそうなふたりの様子に、ロキはどんどんと居たたまれなくなっていく。もう一度、シギュンに向けて言葉を発したいが、何を言うべきか選び取れない。
 不愉快、苛立ち、不満、焦燥。
 胸のうちに抱く負の情は強さばかりでなく連鎖するように数をも増して、やがて虚しさまでも連れてくる。
 ――まるで、他人の家にきてしまったかのようだ。
 居心地の悪さに、ついにロキは足を動かした。
 その歩みが向くのは、台所ではなく、自分の部屋でもなく、玄関。
 ロキはふたりに気づかれないようにそっと家を出ていった。


 行く先などない。
 ロキはしばらく当てもないまま歩き続け、自分の家が見えない、また周囲に建物のない木陰までくると、そこに腰を下ろした。
 木の幹に背を預けて、見るともなしに正面の景色に視線を置く。
 地面を覆う青々とした草に白や黄色をした小さな花、青い空に無数の深緑の葉を広げる木。それらの奥にいくつかの建造物が建っている。その中の赤い屋根をもつ大きな建物に、ロキは無意識に目を引かれた。
 ――トールの館だ。
 認識した途端、楽しそうにしているシギュンとウルの姿が脳裏によみがえってきた。
「くそ……なんだよ……」
 吐き捨てるように独りごちる。ロキは幹から体を離すと、地面に寝転がった。
 こんなはずではなかった。オーディンからの面倒くさい仕事をミッドガルドでやり終えて、軽くなった気分で十日ぶりに家に帰ってきたというのに。
 風が吹いて、木の葉が乾いた音を立てながら揺れ動く。不規則に目に落ちてくる木漏れ日がまぶしい。
 ロキは瞼を閉じた。
 遠退く光に、妙な安堵感を覚えた。


「ロキ、ローキー!」
 暗闇に脳天気な声が響き渡った。
「ん……、ウル……?」
 ロキが目を開くと、視界には銀髪の少年の姿。反射的に彼の名前が口からこぼれ出ていた。
「こんなところで寝てると風邪引くよ」
 そう言ったウルの髪の毛がほんのり朱色がかっている。
(寝ていた……?)
 そこでようやくロキは自身の状況を理解した。上半身を起こして周囲を見やれば、自分の身長よりも高かった太陽は大地の下へとその半分ほどを隠していた。
 旅の疲れのせいか、ずいぶんと長く眠ってしまったようだ。
 そう思って、ロキはこんなところに自分がいる理由を思い出した。斜め後ろに立つウルに振り向き、訝って眉を寄せる。
「ウル……用はすんだのか?」
「うん」
 ウルは快活に返事をして右手を胸の高さまで持ち上げた。そこには、上から布がかぶされた編みかごがある。微かに甘酸っぱい香りがロキの鼻先に漂ってきた。
「シギュンにばっちり、りんごのパイの作り方を教えてもらったよ」
「りんご……パイ……?」
「黄金のりんごをたまには違う形で食べたくて。ボクでも作れるレシピを教えてもらったんだ」
「……そうかよ」
 ウルと編みかごから視線を外して、正面の景色のほうに向く。
 彼とシギュンとの謎は解けた。が、ロキの胸中から、不愉快な、もやもやとしたものがなくならない。頭の中に笑顔で並ぶふたりの姿が過ぎる。
「……ねぇ、ロキ」
「なんだよ」
 奇妙な間を置いてからのウルの問いかけに、ロキは振り向かずに応えた。ぶっきらぼうな口調が言外に、これ以上関わられることを嫌がっている気持ちを漂わせていたが、ウルは気にした様子なく言葉を続ける。
「もしかして、シギュンのことで嫉妬してるの?」
「! そんなわけない、だろ」
 とっさに顔を動かしていた。ロキはウルと目が合ってから、しまったと後悔した。
 ウルの口元に微笑が浮かぶ。
「じゃあ、やきもち?」
「………」
 どちらも似たような意味だ。これは、完全にばかにされている。
 ロキは苛立ちを覚えたが、応酬できなかった。今さら、冷静に感心のない態度を装って受け流すなんてこともできず、無言で相手を見据えて歯噛みする。
「ロキ」
 ウルの笑みが場違いに屈託のないものに変わった。
「シギュンっていいね。料理上手で、優しくて。あの笑顔、雪原を明るく照らす太陽みたいで、ボクは好きだな」
 今度はいきなり何を言い出すんだと、ロキの中で怪訝の思いが強くなる。
 向かい合う青の眼はまっすぐに、警戒心をにじませる碧眼をとらえて放さない。
「ロキがどうでもいいなら、ボクがシギュンをもらっちゃうよ」
「っ……!」
 その一言を耳にした途端、ロキの腹の底でわだかまっていた感情が頭の芯まで急速に上っていった。
 意識が、思考が、ひどく熱い。不愉快さに頭が煮え返るようだ。
 ウルが笑顔を引いて、一歩分後ろに下がった。
「そんなに睨まないでよ、ロキ。冗談だよ」
「……これ以上ふざけたことを言うな」
「わかったよ」
 ロキが鋭い眼光を弱めると、ウルは肩をすくめて背を向けた。顔だけで振り返って、
「それじゃあね、ロキ。お大事に」
 にこりと笑い、それだけ言い残すと、さっさと歩き去っていった。
(くそっ)
 見えなくなった相手の姿にロキは舌打ちをする。最後の最後までうっとうしい奴だ。
 ひとりきりになった木陰に風が吹く。大気に乾いた音を響かせて、黒髪を揺らしていく。
 夜の気配を含むひんやりとした空気を受け、ロキの高ぶった感情が冷めていく。なんだか虚しい気分になってきた。
(……帰ろう)
 ウルとやりとりしている間に太陽は完全に沈み、空は紺色に染まり始めている。
 内側にある澱んだものを除くように息を一つ吐いてから、ロキは立ち上がった。


「おかえりなさい、ロキ」
 帰宅したロキをシギュンは優しい表情と声で迎えた。
 居間で洗濯物をたたむ彼女の様子を注意して見るが、変わったところは見受けられない。ロキが何も言わずに出て行ったことは、とくに気にしてないようだ。
(いつも通り、か)
 むしろ、自分が気にし過ぎなのか。ウルが自宅にいた理由がわかり、彼も去ったというのに、未だに胸中がすっきりとしない。
「ただいま」
 ロキは抱く不穏な感情を気づかれないようにいつも通りを装って挨拶を返すと、自室へ足を速めた。
「まって、ロキ」
 しかし、彼女の視界から完全に姿が消える前に呼び止められた。
 そのまま部屋へ行くわけにはいかず、ロキは躊躇いがちに足を止めた。顔を向ければ、シギュンはたたみ終えた洗濯物を持って立ち上がった。
「部屋へ行く前に台所でまっていてくれる? 服をしまったらすぐに行くから」
「? ああ……」
 突然、何なのだろうか。
 疑問に思ったがロキはとっさに聞くことができず、発した言葉を了解の返事と受け取ったシギュンが微笑んで洗濯物を持って子供部屋に行くのをやや呆然と見送った。
「………」
 乗り気はしない。が、ここは自分の気分よりも彼女の言う通りにしたほうが賢明だろう。
 ロキは足を戻して、行く先を台所へ変えた。
 ――嗅いだことのある、甘いにおいがする。
 台所に足を踏み入れるや鼻先に漂ってきたにおいに、ロキは少し顔をしかめた。目が自然と、台所の台の上にある皿をとらえる。そこには、丸い形のこんがりときつね色をしたパイが一つのっている。
(ウルと作ったやつか)
 もう忘れたいのに、ここで見た記憶は鮮明に残り勝手によみがえってくる。不快な感情がくすぶって消えない。
 ロキは意識的にりんごのパイから視線を外した。
「お待たせ」
 ほどなくして、シギュンがやってきた。彼女はロキの横を通って、例の皿の前で歩みを止めた。
「ウルさんがりんごのパイを習いたいってきていたの」
 シギュンが言う。
 気持ちとしては嫌だったが、無視するわけにもいかず、ロキは視線を皿のほうへ戻した。
「ああ」
「それでね、これをロキに食べてほしいの」
 シギュンがパイに目を落としてから、再びロキを見た。
(なんだ……?)
 こちらを見直した彼女にロキは明らかな違和感を覚えた。
 顔から笑みが遠退き、代わりに緊張の気配がにじんでいる。見つめてくる眼に不安そうな光がある。口調もどこかうかがうようだった。
「わかった」
 一瞬だけ悩んで、ロキは頼みを受け入れた。わからないことが逆に、拒否する選択肢を選ばせなかった。
 ロキの返答を聞いたシギュンはほっとしたように笑みを戻して、包丁でパイを切り分けた。
「どうぞ」
 シギュンにうながされて、ロキが三角に切られたパイを一切れ手に取って口に運ぶ。
 かじれば口内に広がる、パイ生地のさくっとした感触に香ばしさ、やわらかなりんごの甘みと少しの酸味、そして鼻に抜ける香り。
(ん……?)
 ロキは咀嚼したパイを呑み込み、食べかけの手中のそれを見つめた。いつもと同じだと思っていたが、何か違う。外からはわからない。
 注意しながら二口目を食べる。いつものものにはない香りとほのかに舌に感じる苦味には、覚えがある。
「これは……酒?」
 記憶を手繰り寄せながらロキが言うと、シギュンはうなずいた。
「ええ。お酒入りのりんごパイ、今日は子供達がいないから作ってみたの」
(ああ、そうだ)
 シギュンの言葉にロキは思い出した。
 このりんごパイは、結婚する前からシギュンがしばしば作ってくれていたものだ。結婚し子供ができてからは、子供が食べられないため酒を入れないものしか作っていなかった。
 ――懐かしい。
 ロキの脳裏に、結婚する前シギュンが初めてこのパイを作ってくれたときのことが浮かんできた。りんごのパイというものを食べたことがなかった自分にとって、初めて経験したその美味しさは衝撃的だった。
「うまい」
 パイ生地の食感、りんごと酒の風味が相まって舌に心地よい。あの頃と変わってない。
 たちまち一切れを食べ終わったロキの手が二切れ目に伸びる。
「よかった。前のようにできたか心配だったの」
 嬉しそうに言ってシギュンもパイを手に取る。
「あなたとこれを食べるの、久しぶりね」
「そうだな」
 ふたりで食べる懐かしい味に、ロキの内側に鎮座していた澱みがわき上がってくる一つの想いによってかき消されていった。
「……シギュン」
 二切れ目を食べ終え、ロキがシギュンを見つめる。
 馴染みのある青い瞳は、向けられた碧眼を穏やかに受け止める。
 呼吸を一つ置いてからロキは想いを言葉に変えた。
「ありがとう」
 シギュンが満面の笑みを浮かべた。