門番と少女


「あたしがここに居れば、お父様は絶対アースガルドに帰ってこられるわ。あたしが、お父様を見つけてあげるの」
 母親譲りの芯の強さを感じさせる、屈託のない表情をして、前だけを見据えながら少女が言った。
 陽光の下で、彼女の金色の髪にはめられている髪飾りが、まるで夜空に浮かぶ星々のようにきらきらと光を散らした。

   ◆

(……今日も、来ないのか)
 夕焼けの広がる空を目にして、ふとヘイムダルは思った。
 見張りの定位置である岩の上に腰掛けたままで瞳を正面に位置する大きな虹の橋へと移して、その向こう側まで見渡してから背後に振り向いた。
 遠方に望める居住区にある建造物の中でも一際高く大きい、アース神族の主神の宮殿が西に沈み行く陽を受けて淡く澄色に輝いている。その周辺を漆黒の大鴉が一羽、地上を俯瞰するように緩やかに旋回しながら、やがて開け放たれた窓から荘厳な建物内へ姿を消した。
 視線を下げれば、外出していた者達は帰宅の途につき、神界の出入口に向かって来る者はいない。
 とくに、ヘイムダルが脳裏に思い浮かべる少女の姿はちらりとも見えない。
(諦めたのか……)
 我知らずため息をこぼし、すぐにヘイムダルはそのことに気がついて、自分のことを不謹慎だと胸中で咎めた。
 どちらかといえば、彼女はここにやってこないほうがいいのだ。あの小さな背や肩や手に、持とうとしている荷はまだ大きく重すぎるのだから。

「ヘイムダル。今日からあたしもここにいるわ」
 そんな言葉を携えて少女が、見張りをするヘイムダルのところにやってきたのは今からおよそ三ヶ月前のことだった。
 そのような話は事前に全く聞いてない。唐突な宣言を受けたヘイムダルは目を丸くして返事に窮した。
 少女は、驚きに固まるヘイムダルの目の前で持っていた一抱えもある編みかごからクッションを取り出して、ヘイムダルが腰掛けている平たい岩の空いた箇所に敷くと、その上に当たり前のように座った。
「なんか殺風景ね……。なぁに、ヘイムダル。ちゃんとお仕事しなさいよ」
 視線に気がついたのか、少女が振り返り、唇をとがらせてヘイムダルに注意する。
 その表情に、少し癖のある金色の髪に、蒼天のような青色の瞳に、ヘイムダルは思い出した。
「フノス、か」
「そうよ。今、わかったの?」
 ヘイムダルが思わずこぼした言葉に、フノスはむっと顔をしかめた。どうやら、何者か気づかれていなかったことが大層不愉快だったらしい。しかし、彼女の思考を察しても、ヘイムダルには謝罪よりも問いたい気持ちのほうが勝った。
「どうしてここにきた? ここは、君のような子が居ていいところではない」
 ヘイムダルが見張りをしているこの場所は、アースガルドと外界とを結ぶ虹の橋ビフレストに最も近いところにあるため、アースガルドの中において最も危険な場所であるといえる。いざというときに自分の身を自分で守れない少女が気軽にくるべきところではない。居るのなんて以ての外だ。
「帰れ、フノス」
「いやよ」
 強い語調にも怯まない、わずかの躊躇いもない返答だった。
「危険なのはわかっているわ。でも、それでもあたしは決めたの」
「決めた……?」
「そう。あたしはここに遊びにきたんじゃないのよ」
 きっぱりと言ったフノスが岩の上から降りて、ビフレストの袂へと近づいていく。
「フノス!」
 年齢にそぐわない彼女の物言いについ怪訝に捕われていたヘイムダルははっとして、慌てて自分も腰を上げた。外に出て行ってしまいそうなフノスを引き止めようと一歩踏み出したとき、視界の少女の足は止まった。
 毅然と顔を上げて、青色の澄んだ眼でとらえるのは、虹色の鮮やかな炎が揺らめき立つ天と地の架け橋。
 ……いいや、違う。
 ヘイムダルは動きを止めて、あらためてフノスを見つめた。
 あどけなさの残る横顔には一抹の恐れも迷いも感じられず、まるで戦場に赴く前の若き戦士のようだと感じた。
 虹の橋の先を見据えたまま、フノスは言った。
「あたしは決めたの。お母様の代わりに、あたしがお父様を見つけるって」

 あの日に目の当たりにした彼女の決意に、ヘイムダルはフノスに安易に「帰れ」とは言えなくなった。仕方なく、フノスが居ることを、『門番としてヘイムダルが居るときのみ。日没まで。絶対にアースガルドの外へ出ていかないこと。ヘイムダルが危険だと判断したときはすぐに立ち去ること』、を条件に許した。
 それから、毎日彼女はやってきた。始めのうちは、ヘイムダルの傍らに座って読書をしたり編み物をしたりして過ごしていた。そのうちに、仕事に支障が出ない程度にヘイムダルが話を聞かせたりするようにもなった。常にヘイムダルには多少の心配があったが、フノスと居ることが楽しくないわけでもなかった。
 フノスは条件を守り、これといった問題は何も起こることなく月日は経過していたのだが、三日前から突然彼女はこなくなった。
 諦めたのなら、身に及ぶ危険が減ったのだから喜ばしいことだ。
 しかし、ヘイムダルは安心するどころか不安を覚えた。
 何が原因なのか。理由は何なのか。
 日が経つにつれて気になってしまい、ヘイムダルがフノスと最後に会った日のことを思い返す。
(そういえば、あの日は冷え込んでいたな……。寒そうにしていたからフノスをマントの下に入れてやったが、帰るときにちょっと顔が赤かったような……)
 もしかして、それで体調を崩したのだろうか。
 そうなら、早く帰ることをうながせばよかった、とヘイムダルは自省して、太陽が遠退いた空を見上げた。
 地平の近くにはまだわずかに日中の青さが残っているが空はそのほとんどが深い紺色に染まり、丸みを帯びた月が姿を現して、ちらほらと星も瞬いている。
 暗闇に浮かぶ小さな輝きが、フノスがつけていた髪飾りに似ているな、とヘイムダルはぼんやりとそんなことを思った。
(……ん?)
 居住区のほうから自分のほうへと近づいてくる足音を聞き取って、ヘイムダルは顔を夜空からそちらに移した。
 人気のない道を急ぐわけでもなく、躊躇するわけでもなく、ゆったりと歩んでくる人影はひとり。右手に携えた角灯の光を受けて、細い肢体の周りで緩く波打った長い金色の髪の毛がきらめき、外套が陰影を纏いながら揺れ動く。
 暗くなろうとも距離があろうとも、見張り番の眼には向かってくる人物が誰であるのか、すぐにわかった。
「こんな時間にどうしました、フレイヤ?」
 張り上げなくとも声が届く距離まで相手がきたのを見計らって、ヘイムダルは岩の上から立ち上がり、やや警戒心を含んだ声色で尋ねた。
「貴方に用事」
 さらりと簡潔に答えたフレイヤがヘイムダルの前で足を止めて、角灯とは逆の手に持っている編みかごを目の高さにまで持ち上げた。
「はい。フノスからよ」
「フノスから?」
 予想していなかった名前にヘイムダルは思わず繰り返して、編みかごに視線を向け、再び奥にいるフレイヤをうかがうように見やった。
 しかし待っても、女神からはあれ以上の言葉はなく、ただ静かに青色の双眸だけが返される。
 ヘイムダルは差し出されているものに目を戻して、無言の相手からそれを受け取った。編みかごは上に白い布がかぶされているために中身は見えないが、自分の傍に寄せるとパンの香ばしい匂いを感じた。
 だが、中身が察せられてもヘイムダルの中で疑問は大きくなる一方だった。
(これは、どういうことだ……?)
 フノスからこのような贈り物をされるのは初めてのことだ。ここにきていたとき、彼女が自分自身のために持ってきていた食べ物を分けてもらったことはあるが……それとは、意味が違う気がする。
「ヘイムダル、何か言うことはないの?」
 眉を寄せて手元の編みかごを見下ろすヘイムダルの耳に、どこか不機嫌な声が滑り込んできた。
 考えを中断してヘイムダルが顔を上げれば、種族を越えて賞賛される美貌が、いつのまにか普段の色気を潜めて険しさを露わにしていた。
 ヘイムダルの背筋に冷たいものが走る。
 これは、怒っている。そして、その矛先は確実に自分に向けられている。
 ヘイムダルは悟ったが、そうされる原因はさっぱりわからなかった。
 けれど、彼女のこの様子では訊けそうもない。訊いたら、きっとさらに怒りを買う気がする。黙っていても同じことだろう。相手の望み通り、何か言わなければ……。
 素早く頭を回転させて、ヘイムダルは慎重に口を開いた。
「ありがとう、とフノスにも伝えてください」
「………」
 返事はない。
 わずかにも緩まない表情が、じっと見据えてくる瞳が、それだけかと言っていることにヘイムダルは気づいた。だから、慌てて言葉を重ねる。
「あの……最近、姿を見かけませんが、フノスは元気ですか?」
「………」
 フレイヤはまたもや何も返さない。
 しかし、切っ先のような青の双眸からみるみる鋭利さが失われていった。
「フレイヤ?」
 当たり障りのない言葉を選んだはずだが。
 不可思議に感じて、ヘイムダルが呼びかけると、フレイヤは肩をすくめて小さく吐息を一つ。やがて、形のよい唇を動かした。
「ええ、元気よ。貴方のせいで、とーっても、ね」
 これは……怒られている、というよりは、なじられている、という感じがした。
 でも、なぜ。
 唐突に彼女の口調と雰囲気が変化した理由、そして相変わらず芯となる答えのほうはヘイムダルには見出せない。
「まだわからないなんて、ひどい男ね」
 惑いだけを如実に表すヘイムダルにフレイヤは唇をとがらせると、もういいとばかりに踵を返した。
 母子ともによく似た色合いの金髪が背中で揺れる。
「フレイヤ、一体……」
「知りたかったら、そのご自慢の瞳を見張り以外のことにも使ってみなさい」
 フレイヤは振り向きもせずにヘイムダルの疑問をはねのけるように言い放って、さっさと歩き出してしまう。
(どういう意味だ……?)
 彼女の言動に引っかかりを覚えても、ヘイムダルには凛とした女神を引き返させられる言葉は何も思いつかなかった。
 去りゆくフレイヤの後ろ姿から右手に持つ編みかごにヘイムダルは目を落とした。
 いつとも知れない父親の帰還を待つ、まっすぐな眼差しをした少女の姿が脳裏に浮かぶ。その母親の科白が耳によみがえる。
 わからないことはいくつかあるが、今はとにかく、わかった一つのことにヘイムダルは安堵することにした。
(フノスが元気でよかった)

   ◆

「おかえりなさい、お母様。ヘイムダルに、ちゃんと渡してくれた……?」
「渡したわよ。でも、フノス、今度は自分で渡しに行きなさい。でないと、意味がないわよ」
「うん……」
 頬を赤らめてうつむいた娘の頭を母の手が優しく撫でた。