ヘイムダルとロキ


 ざわざわと葉擦れの音が聞こえてきた。
 ヘイムダルははっとして、木陰に座る身を前へと乗り出し、目と耳を周囲に集中させた。
 たちまち音はざわめきのように広がって、木々の緑が揺れ動き、ヘイムダルの薄紫色の髪が後ろへと流される。数枚の葉が宙を舞いながら、近くを流れる小川の水面に落ちていく。
 乾いた音が止み、景色も揺らぐような動きを止めた。
(風か……)
 ヘイムダルは音を発生させたものの正体を理解すると、緊張の表情をゆるめて息を吐き、ざらついた幹に背中をもたれかけさせた。己の身に迫る危険ではなかった。
 だが、少しの安堵もわいてはこなかった。むしろ、不安が大きさを増して胸中にうずくまるような感覚がした。
 ヘイムダルは左手で片目をおさえ、そこから手を動かして片耳を撫でた。傷も痛みもない。しかし、たしかな異常を感じる。
(だめだ……全然回復しない)
 アースガルドの見張り番たる己の持ち前の、夜でも百リーグ先まで見通せる目も、地上に生える草の音さえも聞き分けられる耳も、今は靄がかかっているかのように調子が悪い。体もだるく、意識のほうも気をつけていないとぼんやりとしてしまう。
(なんで、俺がこんなところに……)
 愚痴が嫌悪の感情をともなって内側で渦巻く。
 不調の原因である場所をヘイムダルは睨みつけた。
 暗紫色の眼に映るのは、まるで薄い鈍色を通して見ているかのような景色だ。空は濁った雲に大半を覆われて、地上に降る陽光は弱々しい。地面に生える木や草花には生気が乏しく、生い茂っているというのに侘びしさを感じる。流れる川は透明感はあるが清々しさはなく、凍てつく氷のような印象だ。
 目に見えているそことは対照的な、暖かな光と空気に包まれたアースガルドを思い出して、ヘイムダルの体が震えた。気温はさほど低くないのだが、骨にまで染み入ってくるような寒気を覚えた。
 こんなところ――巨人の国なんて、早く出て行きたい。
 ヘイムダルの中で願いが強くなる。
 だが、悲しいかな、その望みはしばらくは叶いそうにない。
 普段虹の橋ビフレストの近くで見張り番を務めているヘイムダルが巨人の国にいる理由、それは、オーディンから与えられた仕事のためだ。今回の仕事ではヘイムダルの目と耳の力が必要になるのだという。己が属する神族の主神からの要望では、気乗りせずとも応じないわけにはいかなかった。
 まだ、役割は何も果たせていない。帰ることはできない。
(しかし、この調子でできるのか……?)
「――相変わらず、ひどい面してるな」
 ヘイムダルがあらためて不安を感じたとき、聞き慣れた若い男の声が意識に滑り込んできた。
 眉間に皺を寄せて顔を上げる。
 唐突な声かけだったが、ヘイムダルに疑問や驚きはない。誰であるのか、聞いてすぐにわかった。しかし、彼が戻ってきたことに全く気づけなかった点には強い敗北感を覚えて、平静さを欠いて渋面を濃くする。
「うるさい。どこに行ってたんだ、ロキ?」
 視線の先は予想した通り。長い黒髪に青とも緑ともつかない色の瞳をした青年が、生い茂る草木の間からこちらに向かって歩いてくる。
「偵察してくるって言っただろ。まぁ、どこかの誰かさんの休憩も兼ねているがな」
「俺は、平気だ」
「どうだか」
 二歩ほど手前で立ち止まったロキが、嘲笑とわかる薄い笑みを口元に浮かべる。
 もともと好意を抱いてない、どころか、警戒心を持っている相手である。その人物がこの地の影響を全く受けずに平然として、自分を見下すように立っていることに、ヘイムダルは苛立ちを覚えた。
「本当だ。先に進むぞ……っ」
 高ぶっていく感情のままに立ち上がろうとしたヘイムダルだったが、地面から腰を浮かせた途端、目眩に襲われた。視界が端から浸食されるように暗くなっていく。頭の芯が不安定に揺れている感覚がする。
 ――これは、まずい。
 ヘイムダルは直感するが、己の身に起きた異変を止められない。意思とは逆に入れた力は抜け、膝から崩れ落ちてしまう。
 だが、ヘイムダルの体は完全に倒れることはなかった。
「ヘイムダル」
 低い声の呼びかけに、遠のき始めていた意識が現実に引き戻される。
「おい」
 暗闇に覆われていた視界がふっと明るくなった。
 木や草や地面や空より真っ先にヘイムダルの瞳がとらえたのは、見知った男の姿だった。
「……ろ、き……?」
 ヘイムダルの体はロキに片腕をつかまれ、これ以上倒れないように支えられていた。
 まさか、ロキが自分を助けるなんて……。
 意外な事態にヘイムダルは茫然として相手を見上げ、ロキは仏頂面で見返す。
 が、突然、半開きだった口を片手のひらで強く押さえつけられた。
「!?」
 避ける暇も遮る暇もなかった。勢いよくヘイムダルの後頭部が木の幹にぶつかった。せっかく正常に戻った視界が明滅して、意識がひどく揺らいだ。
 ヘイムダルは反射的に走った痛みに声を上げようとしたが、口を塞がれている状態では一音も発せず、喉に硬い感触を覚えただけだった。
 ロキがつかんでいた腕を放す。
 支えを失い、下方へと落ちていく体をヘイムダルは止めることはできなかった。そのまま幹にもたれかかるようにして地面へと座り込んだ。


「……ぅ」
 解放されたヘイムダルの唇から小さくうめき声がこぼれた。
 ぼんやりとしていた意識が、後頭部から感じる痛みによって明瞭になっていく。
(俺は……何が……)
 ヘイムダルはずきずきとする頭に右手で触れて、うつむいていた顔を起こした。自分の身に何が起こったのかと周囲を見回そうとして、正面に立ち、自分を見下ろす者の碧眼と目が合った。
 ――立とうとしたら目眩に襲われて、倒れかけたところをロキに助けられ……否。
(そうだ)
 記憶がよみがえり、ヘイムダルの中で怒りの感情が一気にこみ上げてきた。
「ロキ、おまえ、よくも……!」
 険しい表情をして、若干ふらつきながらもヘイムダルは立ち上がった。腰に帯びた双剣のうちの一本の柄に手をかけてロキを睨みつける。
 刺すような暗紫の瞳に、碧眼はちっとも動じない。
「あんなことを俺にさせたおまえが悪い」
「俺が悪いだと?!」
「ああ。ここに来た理由を全うする前にへばってる。役立たずで足手まとい。自分でもそうだってわかってるだろ? ヘイムダル」
「!」
 ヘイムダルは一瞬息を詰まらせた。煮え立つような頭の中が急速に冷えていくのを感じる。
 図星だ。自分のふがいなさを痛感して、思考の負の部分を刺激する。
(でも、だからって、あんなことをする必要はないだろ……一歩間違えたら、こっちは死んでいたぞ!)
 ――もし、それが相手の本当の目的だったとしたら?
 ふと過ぎった考えにヘイムダルの背に悪寒が走った。
 目の前にいる相手は自分への感情をさして抱いてないように見える。無関心にすら映るその様子が、逆に怖くなってくる。
「っ……」
 ロキが自分を殺そうとした、そうなのか、そうでないのか、ヘイムダルには判断がつかない。
 焦り、怒り、悔しさ、恐怖がないまぜとなって知らずのうちに平静さが失われていく。
 呼吸が乱れる。柄にかけた手に力がこもる。
「ロキ!」
 叫ぶような声のあと、硬質で冷たい音色がその場に響いた。
 二つの刃がふたりの間で交差する。
 切りかかったヘイムダルの剣を、ロキは自身も鞘から引き抜いた短剣で受け止めていた。
「ずいぶんと元気になったじゃないか」
 殺気立つヘイムダルに、ロキは落ち着いた様子で唇の両端を引き上げる。
「なにっ……!」
 ヘイムダルが言葉を返した直後、ロキが短剣を傾けて滑らすように刃の交わりを解き、蹴りを見舞ってきた。
 紙一重でヘイムダルは避けた。反撃をしようとしたが、またもやロキに先手を打たれてしまう。
 銀光が宙にきらめく。
(くそっ)
 相手の短剣を右後ろにひくことで回避する。しかし、こちらから攻撃をするすきが見つからず、追ってくる刃をかわすことしかできない。
 ――だめだ、流れが悪い。
 現状にヘイムダルは一度態勢を立て直そうと、ロキから距離をとることにした。後方へ下がって、手にしている剣を構え直し、もう一本の剣の柄に手を置いた。
 ロキは一歩も追ってこなかった。それどころか、なぜか、手にしている短剣を腰の鞘におさめてしまった。
「そこまで動けるようになったんなら、もういいだろ。さっさと先に進むぞ」
「?」
 意味がわからない。
 罠かとヘイムダルは警戒してロキを見据えたが、視界に映る相手は腕を組み、すっかり臨戦態勢をといている。敵意も感じない。普段のどこか面倒くさそうな、やる気のなさそうな雰囲気に変わっている。
(どういうことだ……?)
「おい。もしかして、気絶してる間にここに来た目的を忘れたんじゃないだろうな」
 しかめっ面をしてロキが言う。
 ヘイムダルは相手の一挙一動を注視しながら記憶をたどった。
(覚えている。オーディン様からの仕事のためだ、俺の目と耳が必要だからこんな巨人の……あれ?)
 そこまで思考を巡らせて、ヘイムダルは忘れていたことを思い出した。双剣の片割れを握る手に視線を落とす。
 たしか、さっきは不調で立つこともままならなかった。なのに、目が覚めてからの自分は普通に動けてはなかったか。怒りの感情のせい?……いいや、気が鎮まっている今も体にだるさを感じない。目や耳、意識もすっきりとしている。
(どうして……? あんなに辛かったのに……)
「ヘイムダル、早くしないとまたこの地の邪気にやられるぞ。飲ませてやった薬はずっと効くわけじゃないからな」
 少し苛立ち気味の言葉を耳にしてヘイムダルはロキを見た。
「薬……おまえが、俺に?」
 一体いつ?
 ヘイムダルに覚えはない。
「ああ。どこの誰かさんがひどい面をして倒れかけていたときに」
「………」
 ヘイムダルは双剣の柄に触れていた手を喉に当てた。相手の返答を受けて、記憶を探っていると違和感がよみがえってきたのだ。
 ロキに口をふさがれたとき、喉に硬い感触がした。あれは、そうだ、物を呑み込んだときのような感じだった。
(あのときか……!)
 思い至って、ヘイムダルは首から上が熱くなっていくのを感じた。
 彼がしたこと、自分がしてしまったことがあらためて脳裏を過ぎって、決まりが悪くなり、何か言わずにはいられなくなる。
「ロキ……」
「なんだよ。礼ならいらないぞ。おまえが使い物にならないと俺が困るからやっただけだ」
「っ、誰が、礼を言うものか。薬があるなら普通に渡せ!」
 不愉快そうに表情を歪めてヘイムダルが言い返せば、ロキは愉快そうに口元を歪めた。
「俺からの薬をおまえは素直に受け取って飲んだか?」
「それは……」
 先が続かない。どちらかと聞かれたら、怪しんでそうしない可能性のほうが高い。
 惑うヘイムダルにロキは肩をすくめる。
「まぁ、わかったよ。次からはできるだけ無理矢理はやめるよ。じゃあ、行くぞ」
 言い終わるや、ロキが森の奥へと体の向きを変えて歩き出す。
 相手の軽い足取りが、ヘイムダルにはなんだか妬ましく映った。
(くそ……本当に最悪な場所だ)
 ヘイムダルは一度深呼吸をして、手にしていた双剣を鞘におさめると、黒髪が揺れる背中を追った。