ロキ→シギュン


「お父さん、ちゃんとするんだよ?」
「お母さんに迷惑かけちゃだめだよ?」
「ロキ、何か困ったことがあったら遠慮なく言えよ?」
 ――目の前の人物達から、自分は一体どれだけ信用及び信頼というものをもたれていないのだろうか。
「うるさい。さっさと行け!」
 我が子ふたりと親友から口々に『心配』の感情を浴びせられて、ロキはほとんど追い立てるように彼らを玄関から外へと出て行かせた。
 扉が閉まり、徐々に気配と足音が遠ざかっていく。母親を案じている様子のナルヴィとナリの声と、それに応える力強くも優しいトールの声が小さく耳に響いてきて、ロキはため息を吐かずにはいられなかった。
(大げさな。シギュンはただの風邪だぞ)
 今朝から彼女は調子が悪そうだった。洗濯物を干そうとして洗い終えた衣服の入った桶を持ち上げきれずに落としてしまったり、近くで呼んでいるのにぼんやりとして反応が遅かったり。いつものシギュンらしからぬ様子にどうしたのだろう、とロキが思っていた矢先に、彼女は倒れた。といっても、実際はよろけて壁にもたれかかるようにしてしゃがみ込んだのだが、その現場を目撃した子供達にとってはほとんど同じことだったようで、両目に今にもこぼれそうな涙を溜めて、自室にいたロキのところに飛び込んできた。
 大丈夫だからと気丈に振る舞おうとするシギュンを言い聞かせて寝台に寝かせてから、エイルを呼んで診てもらえば、すぐに風邪と診断された。
「たまには彼女をゆっくり休ませてあげなさい」
 帰り際のエイルに妙にきつい口調でそんなことを言われたのを、家の奥に歩き始めたロキがふと思い出す。
(なんだよ、それじゃまるで、シギュンが体調を崩したのは俺のせいみたいじゃないか)
 釈然としない心地が未だ胸中で渦を巻いている。
 たしかに家を空けることは多い。でも、別にシギュンに無理難題を突きつけたことはない。
(……まあ、たまにはすぐに寝かさないことがあるけど……それはしかたないだろ。夫婦、なんだし)
 それに昨夜は何もしていない。己に関わることにかかりっきりだった。そのことで、彼女に負担を強いるようなことはなかったはずだ。
 ――だから、今回シギュンが倒れたのは自分のせいではない。
 心身につきまとう不愉快な感覚を払拭したくてロキはそう考えたが、わずかもすっきりとはしなかった。むしろ、背中にひやりとしたものが走っていくのを感じた。
 自室へと向かっていた足が急に重たくなる。視界の端に見慣れた扉が入ってきて、意思とは反対にそこを過ぎるための歩みが滞る。
「………」
 ロキはゆっくりと視界の中央に、通り過ぎるはずだった部屋の扉を据えた。
(……念のため、様子を見ておくか)
 十秒ほどの沈黙をもって見つめたあと、ロキはドアノブに手をかけた。極力音を立てないように開く。
 まだ昼間であるが、明かりを灯さず、閉め切った窓にカーテンが引かれた室内は様子の視認に困るほどではないにせよ、暗い。微動だにしない空気が加わって、薄闇に包まれた部屋はまるで来訪者を拒んでいるかのような印象を受ける。
 寂寞とした雰囲気の漂う場に、ロキは口を開こうとして寸前で止めて、無言のまま慎重に中に踏み入った。戸口からは見えない位置に置かれた寝台へ足を進めていくと、柔らかな金色が視線の先に映り、穏やかな寝息が耳に届いてきた。
 シギュン、と声には出さずにロキは寝台の上に横たわる彼女を呼んだ。
 当然、応答はない。両の瞼は伏せられて、静かな呼吸だけが繰り返されるばかりだ。
(……大丈夫、そうだな……)
 顔色は良いとは言い難いが、エイルに診てもらう前よりかは落ち着いた表情になっている。処方された薬がよく効いているのだろう。
 ならば、今ここに自分がいる必要はない。逆にここにいたら、自分の気配で安眠を妨げてしまう可能性がある。
 それに、自分には昨日からやることがあるのだ。
「………」
 けれど、ロキはその場から動けなかった。
 退室を思考の一部が訴えかけてくる。わかっているのに、なぜか動く気になれなかった。
 ここに自分が居ても無意味だぞと自身に思いながらもロキは、シギュンが眠る寝台の横の床に腰を下ろした。
 見慣れた横顔を視界に入れて、胸の奥からゆるりと息を吐く。
 寝台の木製の縁に上半身をもたれさせて、部屋に差し込む陽光の色が変わるときまで、彼女の存在を傍らに感じながら何も言うことなく、ロキはそこに居た。

   ◆

 夕刻。
 ロキは自室に寄ってから、右の手のひらを握りしめて庭へ出た。
 まだ昼の気配を残す空の一方向を、不機嫌の滲む硬い表情でじっと見つめる。
 ふんわりと浮かぶ真綿をちぎったような雲が、迫りくる暗闇と沈み行く太陽の色を刷いている。高度とともに移ろう蒼と地平線からこぼれ出す黄金色の間に、一点の黒が差した。ぼんやりとした小さな円のように見えたそれは徐々に大きくなっていき横長の形状へ、やがて、翼を広げた鳥の形だと視認できるようになる。
 ロキは表す険を濃くすると、右手を開いて持ってきた物に視線を落とした。
 空を彩る黄金の光を受けてより一層輝きを強くする金製の指輪が一つ。表面は無地だが、裏面には細かな文字が連なっている。
 カア、と高い鳴き声が辺りに響いた。
 ロキが顔を上げれば、こちらに向かってくる大鴉とは羽の輪郭がよく確認できるほどに距離が縮まりつつあった。
 二種の眼が交わる。再び、金切り声のような声音が耳から思考に滑り込んでくる。
(くそ……)
 ロキは舌を打つと、手中の指輪を大鴉に向けて投げ放った。
 受け取る側のことを考慮していない投棄のようなそれだったが、鋭い爪をもつ脚は空を滑る小さな金を容易くつかみ取って、睨むロキの頭上を危なげなく通り過ぎていく。
 悠々と去っていく大鴉に、ロキは苛立たしげに声を張り上げた。
「今回はおまえの不戦勝だと、オーディンに伝えろ!」