いい夫婦


「ロキ、おまえはどれがいいと思う?」
「どれでもいい」
 一呼吸の間もない低めの声での返事は、やりとり以前にこの場における己の存在自体を拒否していることを明確に物語っていた。
「おまえは、どれがいい?」
 しかし、問いかけたオーディンにその答えを聞く耳はわずかもあらず。一歩退くようにしてそばに立つロキの頭を無遠慮に片手でつかんで、自分の真横に引っ張り寄せた。
「っ、やめろ!」
 強引さにつんのめりかけたロキが片腕でオーディンの手を振り払って、睨み上げる。
「自分の妻の贈り物ぐらい自分で選べ!」
「安易にして、傾いた機嫌が元に戻らなかったらどうする」
「知るか。原因はどうせあんたなんだろう」
「わかっているなら話は早い。で、この中でならどれがいいと思う、ロキ?」
 悪びれもなければ、会話の前後の辻褄が妙に合ってないことを気にした様子も、オーディンには微塵もない。
 むしろ見返してくる相手の隻眼に、数えるのも嫌になるほど何度も経験したことのある威圧を感じた。
 これ以上拒んだら、もっと面倒なことになりそうだ。
 危機感を覚えて、ロキはしぶしぶ机上の贈り物候補に目をやった。
 植物や動物を象った金や銀製の髪飾りが、その見目をさらに映えるようにと敷かれた黒布の上で整然と並んでいる。
 ロキが隣に立っている男の正妻の姿を思い浮かべながら、ゆっくりと右から左へと二列を順に見ていき、やがて視線を止めた。
 オーディンに振り向いて、ロキは告げた。
「どれでもいいんじゃないか」
「ロキ」
 棘のある口調で名を呼ばれ、思わずむっと顔を歪める。
「俺がフリッグに合う物を選べるわけがないだろう。自分の妻のことなんだ、自分の理想で勝手に選べばいいだろう」
「そうか。なら、おまえがシギュンのために選ぶとしたら、どれだ?」
「は……?」
「自分の妻のためなら、おまえはひとりで選ぶことができるんだろう?」
 そう言ったオーディンの唇に笑みをのせたその表情は、ロキが最も無視できない類のものだった。
 わかりきった挑発なのに、負けず嫌いの意識が思考を押しのけてしまう。
 ロキは瞳を鋭くして、もう一度髪飾りを見つめた。
 小一分の黙考ののちに、一つを指で指し示してみせる。
「なるほど。たしかに、シギュンには野に咲く可憐な花が似合うな」
「……これで、わかっただろう。ひとりで選べよ」
 求めてもいない感想を耳にした瞬間、ロキは胸の奥がつかえるような違和感を覚えて、居たたまれなくなって足早にその場をあとにした。
 店から出て行くまで背中にオーディンの視線を感じたが、引き留められることはなかった。


 あのあと、フリッグへの贈り物をオーディンが選べたのかどうか、ロキは知らない。興味はなかったし、あの主神はわざわざそんなことを報告してくる性格でもない。
 ミッドガルドからアースガルドに戻ったところでオーディンと別れて、ロキは帰宅の途に着いた。
「――あっ」
「おとうさんだ!」
 家の扉を開けて挨拶を発する時間もなく、奥からナルヴィとナリが駆け出してきた。
「おかえりなさい! お土産は?」
「おみやげ!」
「……ほら」
 出迎えの本来の目的を装うともしない息子達にロキは呆れながら、右手に持っていた革の袋を差し出した。
 ふたりの息子は似通った歓声を上げて受け取るや、袋を開けてそろって中身を確認する。
「この干しブドウおいしそう……あれ?」
 嬉々としてのぞき込んでいたナルヴィが疑問に目を瞬かせて、手を袋の中につっこむ。数秒して引き抜かれた彼の手中には、その手のひらと同じぐらいの小さな麻袋があった。
「なに?」
「なんだろう」
 食物類とは違う気配のそれに、不思議そうにふたりが中を見る。
(なんだ?)
 ロキは麻袋に見覚えがなく眉をひそめた。
「おい……」
「あ、これって」
「うん」
 寄越せ、とロキが求める前にナルヴィがはっとした表情を浮かべ、ナリと顔を見合わせて頷き合った。
 二つの双眸がロキに向いて、途端に輝き出す。
「お父さんからお母さんへのおくりものだね!」
「ぼく、おかあさんをよんでくる!」
 言い終える前にナリが家の奥へと走って、母を呼ぶ声が玄関にまで聞こえてくる。
(贈り物、だって……?)
 ロキはすっかり現状に置き去りにされて、戸惑いを頭の中で繰り返すしかなかった。
 ほどなくして、ナリに手を引かれたシギュンが目の前にやってきた。
「おかえりなさい、ロキ」
「た、ただいま」
 突然連れてこられたことに惑った様子はなく、いつものように穏やかにシギュンに微笑まれて、ロキは空回りする思考でなんとか言葉を返した。
「お母さん! お父さんからおくりものだって!」
 しかし、反射的にでさえ制止を口にする余裕はなかった。ナルヴィが勝手に麻袋から取り出した物をシギュンに渡してしまう。
(なっ、あれは……)
 視界の中できらりと光を散らした存在に、ロキは目を見張った。
 シギュンに手渡された物は、花の形をした髪飾りだった。細かな花弁の一枚まで精巧な装飾が施された金色のそれは、未だロキの記憶に新しい。
 ――どうして、ここにそれがあるのか。
 こちらを見る隻眼の男の顔がロキの脳裏に過ぎった。
「これを、ロキが、私に……?」
 胸中で吐こうとした彼の者への文句が、驚きの感情を帯びた声に止められた。
 誘われるようにロキが髪飾りから瞳を動かすと、ちょうど手から顔を上げたシギュンと目が合った。
 心臓が一度ぎゅっと締め付けられるような感覚がして、瞬く間に鼓動が速くなっていく。
 何か、言わなければ。
「それは、その……、よかったら、使ってくれ……」
「ありがとう、ロキ」
「ああ……」
 金の装飾品よりもシギュンの笑顔のほうがまぶしく映る。
 ロキは熱くなる顔を髪の毛で隠すように、うつむきがちで視線をそらした。