傷が消えたその日に


「母上は心配し過ぎです」
 ため息混じりに言って、フォルセティが自身の左腕をもう一方の手でそっと触れた。手のひらからつたわってくるのは、ふちに金糸の刺繍が入ったやわらかな白布の感触。だが、いつもとは異なり、少し違和感がある。
「重症ではないのに完治するまで家で養生だなんて」
「フォルセティの腕に痕が残ったら、ナンナは悲しむだろうね」
「………」
 春の陽の様に穏やかに微笑む父親のややずれた応答に、フォルセティの不満は胸中で留まった。脳裏に、けがをした自分を目にしたときの、ひどく慌てて今にも泣き崩れそうな母の姿がよみがえってくる。
「……これからは、気をつけます」
「うん。ぼくも大事な息子が痛い思いをするのは悲しいからね」
 バルドルは女性じみたほっそりとした白皙の手で息子の亜麻色の頭を優しく撫でると、わが子を送り届けた部屋から出て行った。
 父の緩やかな金髪が視界から消え、フォルセティがため息を、今度ははっきりと形にして室内に落とした。
 あたたかい。くすぐったい。嬉しい。そんな気持ちと同時に、過保護な両親への呆れと罪悪感がわき上がってくる。
 自分を産んだ親のことだ。もしものことがあったら心配するだろうことは予想できていた。しかし今回、理性よりも好奇心のほうを優先してしまった。すでに担う役割があるとはいえ、遊ぶこともしたい年頃なのだ。何より、目の前で彼が朗らかに笑って誘ってくれたのだ。
(そういえば、ウルはどうしているんだろう……)
 フォルセティが見えない傷口に視線をやって、表情を曇らせる。
 自分と一緒にいた銀髪の弓神は責任を負わされてはないだろうか。今回のけがに関して、ウルは何も悪くはないのだ。全ては不注意だった自分に非がある。処罰を受けてないといいけれど……。
(父上に聞いておけばよかった)
 そう思いながらフォルセティは瞳と手を左腕から放して、窓辺へ寄った。
 窓を開けると、そよ風が前髪を揺らして、心地いい空気を葉擦れの音ともに室内に運んできた。
 どこまでも続く澄んだ青空、地に降り注ぐ光はまだ活気を失ってはいない。
 本当ならば今も、この天気のように楽しくふたりで遊んでいるはずだった。
 自身の愚かさをあらためて痛感して、フォルセティは肩を落とし、窓を離れて寝台に腰を下ろした。
 静かだ。外からのささやかな音以外、聞こえるものはない。
(……ウル……)
 静けさは嫌いではないのに、一時間ほど前まで耳にしていた声がないことにフォルセティは物足りなさを感じた。
 ――カタン
 不意に、小さな物音が聞こえた。
 フォルセティがうつむいていた顔を上げれば、理由はすぐにわかった。
 窓の近くの床に一本の矢が転がっている。どうやら、外から入ってきたらしい。
 鏃が布で包まれて球体にされているためどこにも刺さることのなかった矢には、一枚の紙が結びつけられている。
「あっ」
 はっとしてフォルセティは矢を拾い上げて、紙を取って中を見た。
 手のひらほどの大きさの紙には見慣れた文字で三行綴られていた。

 フォル、けがは大丈夫?
 ボクは平気だよ。ちょっと怒られたけど。
 けがが治ったらまた遊ぼう。

 フォルセティの沈んでいた表情に明るさが戻る。
 差出人の名前はないが、フォルセティには誰のものであるのか考えずともわかった。
 急いで窓に駆け寄り、外に目をやる。
 遠くの木々の間で銀色がちらりとだけ見えた。それ以上は建物などが邪魔をしてとらえられなかった。
「ウル……」
 もう一度、フォルセティが紙に目を落とす。
 文面を見る限り、彼は元気そうだ。どうやら、処罰はなかったようだ。よかった。
 心のもやが晴れていき、自然と口元に微笑が浮かぶ。
 フォルセティは紙を丁寧に折り直して、再び窓の外を見た。
「うん、また遊ぼう」