何て残酷なひと


 頭から足の先まで黒色の羽織りを身にまとった人物がひとり、館の裏に位置する狭い扉から夜空の下へと出て行く。振り向くことは一切せずに、まるで光から闇の中へ影が溶け消えるときのように小走りで前方の森に姿を紛れ込ませた。
 かさっ、と地面を踏んだ足下から乾いた音が微かに鳴って、足早に歩く黒衣の人物の耳に届く。
 朝昼は、陽光を浴びながら時間の流れを穏やかに報せていた鳥の鳴き声は今は響かず、己以外の生物が身動きする気配さえしない。森は艶やかな色彩を暗闇の内に隠して、息をひそめるように静まり返っている。
 けれど、多くの葉を抱く木々が生い茂るそこには闇夜特有の恐さや侘しさといった負の情を呼び起こすような雰囲気はない。木の葉の合間から射すささやかな月光は、心の奥までをも照らし出すような熱い太陽とは異なり青白く冷たい印象だが、塞ぎ込ませるような澱みはなく、辺りを静穏に輝かせている。
(やっぱり……、わたしが生きてきた場所とここは、違う)
 黒衣の人物――ゲルドは、心臓の位置で両手を合わせて握り締め、瞼を伏せた。
 凛とした美しさを宿した淡い夜景が視界から薄れて、代わりに、どこか殺伐とした深緑の地の景色が浮かび上がってくる。
 途端、胸に感じたのは、懐かしさと温かさと、締めつけられるような痛み。
(……帰らなきゃ)
 あらためて強くそう思って、ゲルドは手を解き、顔を上げて前を見据えた。止まりかけていた足を意識して大きく速く動かす。
 灯りは持ってきてはいないが夜目はきくほうである、また、この日のために外に出る道筋は調べあげて記憶している。進める歩みに迷いはなかった。
 ――一つの音が深夜の森の静寂を破るまでは。
 ゲルドの足が、地に咲く小さな白花を踏みつけたままで完全に止まる。
 背後から聞こえてくるのは、駆ける馬の蹄の音。それが確実に自分のところに迫っているとわかりながらも、ゲルドはその場から一歩も動くことはできなかった。
 ほどなくして、すぐそばで荒々しく地面を蹴る音が止んだ。
「こんな夜更けに外出とは感心しませんね。ゲルド」
 頭上でちらつく月を彷彿とさせるような涼しげな声音が聴覚を刺激する。それだけで、後ろの人物が何者なのか見て確認する必要もなく、ゲルドは自分の予想が正解だということを知った。
 だから、小さく細い息を吐き出して、後ろを振り返った。
「なら、どこにも行けないように鎖に繋いで閉じ込めておいたらいかが、フレイ」
 少しの淡い光でも、馬上の金髪の相手が鼻筋の通った端整な顔を怪訝に歪ませるのがわかった。
「なぜ、私がそんな野蛮なことを貴方にしなければならないんですか」
「わたしが外に出ることが嫌なのでしょう?」
「貴方の示す『外』とは、この世界の内のことですか? それとも別の?」
「………」
「ゲルド」
 まっすぐに向けられるフレイの瞳からゲルドは顔をそらそうとしたが、それよりも先に名を呼ばれ、伸ばされた手によって、視線すら他に移せなくなった。
「帰りますよ」
 ――どこへ?
 反射的に思考に生まれた疑問。しかし、答えは尋ねなくてもわかっている。
 最初から、わかっていた。
 ゲルドは唇を固く閉ざして、ゆっくりと足を進め、差し出されている手に己のそれを重ねた。
 漂わす冷然とした雰囲気とは対照的に、自身の前へゲルドを乗せるフレイの手つきは穏やかで優しかった。
「振り落されないようにつかまっていなさい」
 うつむきがちのままで、ゲルドは傍らの相手の身にそっと両腕を回した。
 夜陰の中で馬が蹄を鳴らす。
 服の裾や髪を揺らす風は冷たい。けれど、ゲルドは寒いとは感じなかった。その理由を接する温もりだということに気づいて、胸がまた痛みを発した。
(……今ここで、わたしが手を放したら……、もし、突き飛ばすようにしたら……落ちるのかしら)
 ――フレイも一緒に?
 浮かんだ考えにゲルドは口元で薄く笑って、抱く腕の力を強くした。
 そして、フレイの胸に片頬をつけるようにもたれかかると、静かに瞼を閉じた。