乙女の主人


【読まれる前に】
2018/10/14に発行した同人誌「Short Short Story」の中からの再録になります。
電子書籍とあわせてお手に取っていただきありがとうございました!

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 眼前の人物のせいで、ロキは気が気ではなかった。
 頭の中で自分に向かって必死に、目を逸らすように、気にしないように、と無視するように命令を送るが、生来の好奇心旺盛な性格のためか、意識は思い通りにならない。
 気がついたら、またその人物に視線がいってしまっている。
 陽光の下の汚れのない雪原を彷彿とさせる白銀色の長髪は緩やかに波打ちながら腰にまで伸びて、少し体を動かす度にふわりと揺れ、触らずともその柔らかさがつたわってくる。顔立ちは整っており、美人の部類に入る。人間の年齢で例えるならば、二十代後半から三十代前半といったところか。静かに放たれる色気には、人生の『じ』の字をようやく知った若者にはない、成熟されている大人の女のみがもつことのできる独特の妖艶さがある。ぱっちり開いた瞳に、長めの睫毛。左目の下にある泣きぼくろが、艶やかな女性の魅力をさらに引き立てている。
 そんな人物が向かいに座っているせいで、先程からずっと落ち着かない。気を紛らわそうと手元にある杯から麦酒を口にしてみても、たいして味わうことはできなかった。
 気になって、気になって、しかたがない。
 自分の目の前に座る美女に心が騒いでしょうがない。
 どうにかして彼女の興味の対象になりたい!
 ……という理由からの気持ちの乱れだったのなら、一体どれだけ良かったことか。
 理想と現実の懸隔にロキはため息を吐かずにはいられなかった。
 そして、本当なら相手にしたくはないのだが、この場から何もせずに脱出することは不可能だと察して、声をかけることにした。
「おい。なんのつもりだ」
 不機嫌の混じった言葉に、女性は卓の上の鏡から視線を上げた。艶めかしい光を孕んだ灰色の双眸でロキをとらえると、声を発することはせずに微笑んだ。
 もしも、この笑みを作った人物の正体を知らなければ、眼差しを向けられて幸せだと感じたことだろう。
 だが、知っているがためにロキが感じたのは背筋に走る悪寒だけだった。
「黙っていないで答えろ。それから、らしく振る舞うのはやめろ」
 苦虫を噛み潰したような顔でもう一度返答を求めると、女性は軽く肩をすくめた。そんな些細な仕草でさえ色っぽさが漂ってくる。
 しかし、それにロキが感じたのは高揚感ではなく、やはり身を震わせるような寒気だった。
 碧色の瞳をつり上げてロキがふざけるなと無言で睨みつけると、女性は仕方がないなというように、だがどこか愉快そうな表情をして、ついに形の良い唇を開いた。
「そんな怖い顔をしているとせっかくの美形が台無しよ、ロキ」
 口にされた言葉、蠱惑的な声音。
 その両方を耳にして、ロキの腕に鳥肌が立った。
「っ……、いいかげんにしろ!」
 頬を引きつらせながらロキが声を張り上げる。勢いのあまり椅子から腰を浮かして、手のひらでテーブルを叩く。
「からかうのはやめろ! オーディン! なんで女装なんかしているのか、質問に答えろ!」
 言い切ったあと呼吸が乱れるほどに、ロキには我慢がならなかった。
 いきなり呼び出され、しぶしぶ足を運んだ先の館で待っていたのが、頭の天辺から爪先まで女性の姿をしたアース神族の主神という事態に誰が冷静でいられようか。しかも、どうしてそんな格好をしているのか何一つ話さず、それどころか、外見通りの言動でからかわれてたまったものじゃない。
「相変わらず騒がしい奴だな。別に危害を加えたわけではないのだから、怒ることはないだろう?」
 憤りを受けたからだろうか。突然、オーディンが演じることをやめた。
 だがそれは、ロキを安心させるどころか、一気に表情を凍りつかせた。
 容姿と全く噛み合ってない言動は度が過ぎると、異性を演じられることよりも強力な恐怖を生み出すということを生まれて初めて実感した瞬間だった。
「どうしたんだ、ロキ」
「……そ、その姿で地声なんて出すな!」
 一拍ほど間をおいてやっとのことで発することができたのは、言葉こそ強きだが声色は弱々しいものだった。
 ロキの要求に、オーディンは自身の美女の顔をわずかにしかめた。
「そう言われてもな。姿の通りにしたらしたで嫌がるんだろう?……ああ、そうだ。なら、口調はこのままで声だけを」
「却下だ!」
「なら、逆にして」
「もうそのままでいい! いいから、さっさと理由を話せ!」
 ロキの物言いは、もはや怒りをぶつけているというよりも哀願に近かった。言い終わるや、目を合わせないように手で顔を覆い、崩れるように椅子に腰を下ろした。
 だが、眩暈を起こしかけているロキに謝る素振りも、反省の色もなく、オーディンは求められた問いの答えを返した。
「おまえに見せるためだ」
「………」
 ロキは何も言わなかった。
 沈黙でしか反応しなかったのは、言い返す気力がなかったというのもあるが、この状況で効果的な応酬がわからなかったというのが最大の理由だ。
 睨みたくても姿を見たくないので、ロキは無言の殺気を漂わせることで己の不満を相手に知らせることにした。
 オーディンは難なくそれを感じ取ったようだった。まるでわがままな子供を相手にする親のように、明らかなため息を吐いてから詳しい事情を口にした。
「ある人間の女の傍に行きたいんだが、男のままだと支障があってな。それを乗り越えるために、こうしてみたんだ」
 寄越された言葉はこの世界の主らしい、ロキの気分をもう一段階沈めるのには絶大な効き目をもつものだった。
「我ながらなかなかのものだと思うんだが……どうだ? 感想は?」
「………」
 求められても、ロキは答える気にならなかった。そもそももう見たくないので言いたくもない。
 黙っていると、オーディンは口元に悪戯っぽい笑みを作り、言葉を続けた。
「それだけじゃない。前に侍女に変装したおまえに対抗してみたかったんだ」
「………」
 ロキは、ゆるゆると机に突っ伏した。
 あんなことを言われたら、普段なら怒りの声を上げて言い返すのだが、今日はもうそんな気分にならなかった。
 胸中にわき上がってくる感情は呆れなのか苛立ちなのか恐怖なのか、何であるのか自分でもわからない。
 オーディンは完全に堕ちてしまったロキを尻目に、壁にかけてある時計に目をやると椅子から立ち上がった。
「では、そろそろ時間だからわたしはもう行く。置いてある酒は適当に飲んでいって構わない。じゃあな、ロキ。楽しかったぞ」
 最初から、その言葉にたいしての応答は期待していなかったのだろう。オーディンは言うや、躊躇することなく部屋から出て行った。
 部屋にひとり残された形になったロキは伏せていた顔を上げると、微かな音を立てて閉まった扉を見つめ、深くこう思わずにはいられなかった。
 あんな奴が主神をやっていてこの神族は大丈夫なのだろうか、と。