鉄の森の魔女と邪神


【読まれる前に】
2018/10/14に発行した同人誌「Short Short Story」の中からの再録になります。
電子書籍とあわせてお手に取っていただきありがとうございました!

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「あんた、変わったね」
 短い沈黙のあと、不意に女がそんなことを囁いた。
 女は身を屈めると、その細くしなやかな指を、寝台の縁に腰掛ける彼の黒髪に差し入れる。
 くすぐったいような奇妙な感触と向けられた言葉に、彼は微かに顔をしかめて口を開いた。
「当たり前だろう。別れてからもう何年も経っているんだから」
「違うよ。外見の話じゃない」
 少し紫がかった唇の両端を歪めて、女が静かに笑い声を立てる。
 空気に混ざる女の吐息は甘く、安らかな場所へ誘うような心地があるが、肺に落ちた途端にその甘美な酔いは醒めて、身体の内側に小さな針が刺さったかのような軽い痛みが生じる。
「ねぇ、どうして戻ってきたんだい?」
 彼が疑問を深くして最初の言葉にたいする答えを探していると、女は返答を待たずに話を変えた。だが、その声音からは相手の精神を突くような棘は消えず、顔をのぞき込んでくる暗色の瞳は底の見えない落とし穴のようだ。
「戻ってきたんじゃない。暇だから、足を運んだだけだ」
「本当に?」
 まるで彼の返事がわかっていたかのように、間をおかずに女が鋭く聞き返す。
 彼は答えあぐねて、薄暗い室内に再び沈黙が生まれた。
 黒髪の中の女の手が、ゆっくりと動き出す。頬にひんやりとした皮膚の感触がして、目の前の女の笑みが深くなった。
「本当に?」
 女は問いを繰り返して、長い指を彼の頬から顎へと移動させていく。
「何が言いたいんだ――っ」
 少し苛立って彼が開口した直後、女の手が顔からはなれて黒髪を強く引っ張った。自分の元へ引き寄せるように、容赦なく。
 彼は痛みに小さくうめいて、半眼で女を見る。
 先よりも近くなった女の顔は微動だにしない。冷気をはらんだ鉄のような二つの目と、視線が絡まりあう。
 はなれたくても、目をそらしたくても、髪の束を握り込まれていて、自由に顔を動かせない。
「……おい」
 彼は言外で解放を求めたが、声色には不愉快がにじんだだけで、怒気が全くこもらなかった。苛立っているはずなのに、寒気を感じて妙に落ち着かない。
 女の艶やかだが決して血色が良いとはいえない唇が動く。
「あんたは変わった。はじめて会ったときは、空っぽで、虚ろで、寂しそうで、悲しそうだったけれど、すぐそばにある暗黒に落ちることなく、己の足でそこに立っていた。なのに、今は違う。空虚ではなくなったけれど、己をうまく支えられていない。誰かが軽く力を込めて押してやったら、簡単に暗黒に落ちていきそう。もしくは、そのうちにつまずいて、自分から真っ逆さまに――」
「いいかげんにしろ、アングルボダ」
 止めどなく脳に流れ込んでくる言葉を断ち切りたくて発したその声は、意図とは異なって微かに震えていた。
 それをごまかすように、彼は自分に伸ばされている女の手首を強くつかんで、髪から手をはなさせる。
 女は抵抗をせずに、あっさりと身を引いた。だが、向けられる眼差しは変わらず闇だ。先程の囁きにあるような、暗黒だ。
 ぞくりと確かな悪寒を感じて、彼は絡みついてくるような瞳から振り切るように立ち上がった。
「帰る」
 そう口にしてから、彼は自分がまるで駄々をこねる子供のようだと思った。理由のわからない居たたまれなさと、己の情けなさに腹が立って、足早に扉へ向かう。
「ロキ」
 静かだが控えめではない口調で、女が背後から呼び止める。
 少し躊躇ってから、彼は顔だけで振り返った。
 女はもう笑ってはいなかった。瞳はどこか突き放すようで、口からこぼれる吐息から甘美さは消えていた。
「道中、気をつけてお帰り。あんたはもう、巨人族じゃないんだからね」
「………」
 わかりきっている忠告に返す言葉が思いつかず、彼は数秒女を見つめただけで、顔を前に戻した。そして、無言のまま女の家から出ていった。女がひき止めることも、追ってくることもなかった。
 生い茂る草木に女の家が完全に隠れた頃、彼は逃げるように進めていた足を止めた。
 肉体の内側に感じる澱んだ疲労感に深くため息を吐いたが、少しもすっきりとはしなかった。
 どこかぼんやりとしながら、彼は視界に映るものを見た。落ち葉や折れた枝の転がる雑草の生えた褐色の地面に、端で風を受けて微かに揺れているのは、自分の長い黒髪。
 ほとんど無意識に、左手が動いていた。女にされたように、彼は黒髪をつかんで引っ張った。鈍い痛みとともに、頭の中を女の言葉が這いずっていく。鼻先の空気が甘くかおったような気がした。無性に後ろを振り返りたくなって――寸前で、彼は思い直してやめた。
「……馬鹿みたいだ」
 吐き捨てるように独りごちて、やや乱暴に髪から手をはなす。
 釈然としない気分を払いたくて頭上を仰ぐと、重なる木の葉の間から薄墨を流したような空が見えた。その曇天が女の髪の色に似ていて、呼吸が一瞬だけ乱れる。
 彼は視線を引きずりおろして、道の向こうを見据えた。
 帰ろうと、思った。こんな寒々とした場所ではない、自分が新しく手に入れた、光の溢れるあそこに。帰りたいと、心から思った。
 急く気持ちに流されるままに、足を踏み出す。
 森を抜けるまでの間、彼がその歩みを再び止めることはなかった。