どうか忘れないで


 高らかに発した名前は瞬く間に呼応され、緊張で張りつめていた空気をほどいて陽光の下でゆるやかに響き合う。
 その傍らで、選ばれなかった名前は静かに地に堕ちて、やがて土塊とまじり合い過去へと散っていくのだろう。
 今日も全体からすればほんのひと欠片ほどの世界が新たなほうへ流れはじめたのをひっそりと感じながら、ウルが周囲の人間たちから視線を外して頭上を仰ぐ。濁りのない青の中に滑らかに飛翔する一羽の鳥の影が見えた。

   ◆

「ねー。いつあのお話ししてくれるの?」
「? なんの?」
 眼前の子供から差し出されたものの中でウルがうまく受け取れたのは、拾い集められた矢の束だけだった。
 きょとんと返した疑問に、矢を持ってきたナルヴィがたちまち頬を膨らませる。
「人間の決闘のお話だよ。前に聞かせてって言ったら、『用事があるからまた今度』って言ってたじゃん。忘れたの?」
「ああ……」
 そういえば、そんなことがあった、かもしれない。
 脳裏に浮かぶ曖昧な記憶の像をなぞりながらした返事は肯定の力に乏しい。当然、正面で彼を見据える瞳から怪訝の色は消えず、むしろ新たな声が助勢するように加わった。
「ウル、もうろくしたの?」
 似た色合いの金と青がウルの視界に並ぶ。寄越されたのはなかなかひどい言い表しではあったが、覚えたてだとわかるたどたどしい発音のために怒りはわかなかった。
 ウルはただ苦笑して、後からやってきたナリからも矢を受け取った。
「それでお話は? してくれないの?」
「弓のことよりも、ウルのお話が聞きたーい」
「うーん……。そう言われても、話せるようなことは覚えてないからなぁ」
「え、忘れちゃったの?」
「ぼけた?」
「………」
 本当にあの親――ただし、片親に限る――にしてこの子供たちである。
 遠慮のない物言いに、ウルは別のところに妙に感心して黙り込んでしまった。
「出し惜しみしないでよー」
「ねーえー」
 子供たちはウルの胸中を知る由も察するわけもなく、まるで餌をねだる子猫のように服の袖をぐいぐいと引っ張ってくる。
(まいったな)
 また今度、ではなく、話せない、と言っておけばよかった。今さら後悔するが後の祭りだ。
 ウルは考えて、己の心情に素直な返答を選んだ。
「ボクは、役割を果たした決闘についてはできるだけ覚えないようにしているんだよ」
 それは、一言前に発したものとは話せないという点では大差なかった。けれど、微妙に変化した語調から何か感じ取ったのか、ナリとナルヴィが手を止めて一度互いの顔を見合わせる。
「どうして?」
「なんで覚えないの?」
「それは……」
 考えたけどわからないと首をかしげる子供たちに、ウルは答えようとして一瞬言葉を切った。
 役割が終わってからいつも見上げる空の色が、頭の中に浮かんでは消えていく。
 ――そう、自分はその世界では見届ける者であり、彼らを覚えているべきは自分ではないのだ。
「ウル?」
「それは、ボクよりも弓矢の扱いがうまくなったら教えてあげるよ」
「えー」
「無理だよー」
「がんばってね」
 口々に不満をこぼすナリとナルヴィにウルは悪戯っぽく笑い返して、渡された矢に視線を落とした。

   ◆

「……本当に……ばか、なんだから……」
 そう言って頬を濡らし、倒れた男の傍に座り込んだ女の顔は哀の情をにじませながらも穏やかだった。
 男の土と血で汚れた髪と頬を撫でて、その耳元で唇を小さく動かす。
 ウルは引き受けた己の役割が終わったのを悟って、静かにその世界を後にした。