それしか出来ない


【読まれる前に】
2018/10/14に発行した同人誌「Short Short Story」の中からの再録になります。
電子書籍とあわせてお手に取っていただきありがとうございました!

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「……フレイヤ、私の話を聞いていますか」
「ちゃーんと聞いてるわよ。お兄様ったら、ほら、眉間に皺が寄ってる。綺麗なお顔が台無しよ?」
 何度目か。床に落ちていくため息混じりの低い声音にたいして、空気の中を自由に泳ぎ回っているかのような無邪気な響きが返る。
「フレイヤ」
 円形のテーブルを挟んで伸ばされた女性のしなやかな人さし指を、兄と称された相手フレイは片手で包み込むように制して、向ける瞳をほんの少しだけ鋭くした。
「戯れはここまでに。そろそろ真面目に答えなさい」
「あら、私は最初から真面目よ」
 よく似た青色の双眸でフレイヤがフレイの視線をやんわりと受け止める。
「大好きなお兄様の話はいつだってちゃんと聞いてるわ。それがお兄様の愛しい相手に関しての悩み事なら、なおのこと」
「なら、」
「だから、言ったでしょう。あれでおしまい。私の考えた贈り物は、すでに全部お兄様が試してしまっているの。贈り物をするのではなく、他の方法をとってみたらどう?」
「……それができたら、ここにはきていない」
 喉の奥から絞り出すように応答したフレイは、時に酷薄なまでの冷静さを武器とする彼にしては珍しく、一目で懊悩がわかるほどの苦い顔色を表していた。
 自らの双子の片割れの様子にフレイヤの胸が疼く。
 フレイヤはテーブルについていた頬杖を解き、手を引き、椅子に深く腰掛けて、艶やかな足を組んだ。そして、普段の他者の目を引きつけてやまない華やかな奔放さを引っ込めて、落ち着いた眼差しでひたと相手を見据える。
「彼女が元気のない原因はわかっているんでしょう?」
「………」
 待っても、フレイから返ってくるのは、無言。表情も、少しも動かない。
 しかし、フレイヤにはそれが自分の問いにたいする肯定であることを察せられた。
 それが、この思慮深い人物の思考と感情を邪魔していることも、その内容も。
 だから、あえて彼の澱の中身を差し示すことを選択する。
「なら、贈り物をするよりも、原因を解消してあげるのが一番なんじゃないかしら」
「それは、私にゲルドを手放せと?」
 口調はまだ平静の領域だったが、先程浮かべた棘など比ではないほどにフレイの双眸は鋭い光を帯びていた。
 まるで獣のようだとフレイヤは思った。外敵から自分の縄張りを死守しようとする猛獣の眼光を彷彿とさせる。
 けれど、そこに宿って揺らめいているものは単なる我欲と横暴さではない。頭の芯をくすぐるような熱さを感じ取って、フレイヤの胸に覚えた疼きがざわめきへと変わっていく。
(こんなフレイ、久しぶりに見たわ)
 最後に見たのは、アース神族とヴァン神族の戦争以来か。それほどに本気なのだろう。
 なんだかもう少しだけいつもと違う片割れを見ていたい気がしたが、フレイヤは首を横に振って話を進めることにした。
「彼女の故郷に向いている心を、貴方のほうに変えればいいのよ」
「……具体的には」
 思案するような沈黙を挟んでから、険を抑えてフレイが尋ねる。
 方法を思いつかなかったのが悔しかったのだろうか、微かに下がった唇の端にほのかに感情を滲ませるその様は、少年と分別される頃の人間のようである。
 フレイヤは我が子を慰める母がするような穏やかな微笑みを浮かべて、丁寧に答えを紡いだ。
「誰よりも彼女の傍にいて、誰よりも彼女を愛してあげるのよ」

   ◆

 来訪者の姿も足音も完全に部屋から遠退いた。
 ひとりきりになった室内で、フレイヤが小さな吐息をこぼす。テーブルの上に置かれた紅茶の水面が、そよ風を受けた湖のように静かに細波を立てた。
「………」
 会話の最中に一度も口をつけることのなかった白色のティーカップをしばし見下ろしてから、フレイヤは鳥の片翼に似た形状の持ち手に指を絡ませた。そのまま持ち上げ、一口紅茶を喉に流し込み、言葉もなく顔をしかめる。
 不味いと感じるほどではないが、すっかり冷めていて風味や味が落ちてしまっている。召使いを呼べば、すぐに美味しく淹れ直してもらえるとわかっていたが、フレイヤは芳香をくゆらせない澄んだ薄茶色を、今度は一息で飲み干した。
 胃の腑に落ちていく水の感触に、やや強引にだが胸中の澱が押し流されていく心地がする。
「……ずるいわね、フレイは」
 ティーカップをソーサに置いて、フレイヤは形の良い柔らかな唇を尖らせた。
 助言を受けてフレイは帰って行った。このあと、彼が己の妻にたいしてどういう風に接するのか、さすがの双子の片割れにもわからない。
 ただはっきりしていることは、フレイヤにはあれ以上は何もしてあげられないということだ。フレイ自身がちゃんと状況を読んで理解して対応して、改善させることを祈るしかない。
(……私のようになる前に、ね)
 愛する相手に何かしてあげたくとも、手の届かない場所に行ってしまう。長く、顔さえも見えないところへ。
 ――己が知る虚しさを、フレイが知りませんように。
 長い睫がうっすらと陰影を落とす双眸が、陽光の下で花々が咲き誇る庭の望める窓へ移る。
 世界にはまだ夜の気配は微塵も感じられない。だが、今日も自分の愛おしい者が戻ってこない可能性をフレイヤは悟って、瞼を伏せた。