不思議な奴


「本当に……彼と、行かれるのですか……?」
 明日の旅支度を確かめるトールの耳に控えめな声が聞こえてきた。
 声色の弱さに一瞬空耳かとトールは思ったが、室内にいつの間にか緊張の気配があることに気がついて、水筒をもつ手から周囲へ顔を動かした。
 寄越される不安げな視線を茶色の双眸が見つける。
「おまえがそんな顔をするなんて久しぶりだな、爺」
 いつものように軽い口調で言ったトールに、爺と呼ばれた老齢の男が眉間の皺を深くする。
「トール様は大変ご立派になられた。しかし、今回は心配にならざるを得ません」
「……ロキのことか?」
 真剣な言葉を受けて、トールがすぐに思い当たったのは黒髪の彼のことだった。半年ほど前に主神オーディンが連れてきてアース神族に仲間入りした、巨人族の若者。
「そうです。元巨人族の者とふたりきりでヨツンヘイムへ旅に出られるのは、おやめになられたほうがよいと爺は考えます」
「だが、ロキはオーディン様が連れてきた奴だ」
「そうです、が……」
 言葉が切られたその顔から曇りは晴れない。同意しかねる、という意思が閉じた口元から感じ取れた。
「心配性だな、爺は」
 トールが苦笑をこぼす。
 ――なんだか、子供のときに戻ったようだな。
 ふとトールは思った。身長が彼の半分もなかった頃は、危険なことはやめるように、もっと慎重に考えるようにと、何度も口酸っぱく言われた。
「トール様」
 記憶の中と視線の先で彼が諌めてくる。
 数々の武勲をあげた今のトールにたいして過度な心配をすることは、気遣いを越えて侮辱に値する行為だととられてもおかしくはない。しかし、幼少期から面倒を見てくれた爺にトールは負の感情を抱かなかった。むしろ懐かしさを覚え、背筋の伸びる感覚がした。
 トールが表情を引き締めて、相手の想いを真摯に受け止めるために爺と正対する。
「そんなに心配するな。今の俺は巨人ひとりに遅れなんてとらない。それに、なんというか、あいつは……ロキは、他の巨人とは違う感じがするしな」
 これまで幾人もの巨人族を目にし、相手にしてきたトールにとって、ロキは初めて出会うタイプの巨人だった。巨人族の者らしい深い色合いをした暗色の長い髪はまるでアース神族の女神たちのように艶やかで整い、身長や体格もアースガルドの若者と大差がない。瞳は緑がかった青という一風変わった色で、そこに巨人族特有の荒々しい気配は感じられない。また、容姿以外も珍しく、ロキは巨人族があまり使うことのない魔術に長けており、知識も多く、頭の回転も速い。
 巨人族の生まれ育ちながら、巨人族らしくない巨人。
 そんなロキをトールも最初は他の者と同じように警戒していた。だが、接していくうちに、アース神族とも巨人族ともどこか異なる雰囲気をもつ彼に興味が湧き、抱いていた警戒心は好奇心へと変わっていった。
(本当に巨人族っぽくない奴だ……)
 思い返して、あらためて思う。だから、彼とヨツンヘイムへ行くことに不安はほとんど感じていない。どんな旅になるのだろうかという期待のほうが強い。
 トールはもう一押しとばかりに爺へ言葉を続けた。
「今回の旅はオーディン様が決めたことでもあるから問題ない。心配するな」
「……さようでございますか」
 白髪混じりの眉が下がり、不安げな視線が瞼の裏へ隠される。
 沈黙は一時。
 再び向けられたのは、恭しくもあたたかい眼。
「トール様、決して無茶をなさりませんように。行ってらっしゃいませ」
「ああ、行ってくる」
 まっすぐに自分を見つめる爺に、トールは大きくうなずいた。

   ◆

「ロキ? どこだ!」
 周囲を見回してトールが声を張り上げる。
 だが、応答はない。影すら見えない。目を凝らしても映るのは生い茂る緑や茶色の草木ばかり。それらも徐々に白が重なって薄く見えづらくなっていく。
(まずいな……)
 危機感を覚え、トールは歩く速度を落とした。
 霧が濃くなってきている。これよりも先へ行くか、戻るか。それとも、止まって霧が晴れるまで待つか。この状況で下すべき判断は……。
(この森に入ってから、まだそんなに進んでいない。一旦、森から出たほうが危険は少ないか)
 これまでの経験からトールはそう考えたが、実行することはできなかった。ここに一緒にやってきたロキとはぐれてしまったからだ。この森には凶暴な獣や巨人が住んでいるという噂がある。自分と同じくここに来るのは初めてだというロキのことを放っておいて、ひとりだけ安全な場所へ行くことはトールの自尊心が許さない。早く彼と合流しなければ。
「ロキ!」
 願いを込めて、もう一度トールが大声で名前を呼ぶ。
 返事はない。風が草木を揺らすざわざわという音が耳に届く。
 このまま強風が吹いて霧が晴れてくれないものか。
 トールは心の中で願ったが、周囲の白は少しも薄れない。それどころか、どんどんとその濃さを増していく。
「………」
 顔の前で手を振ってみるが、全く何の効果もなかった。白い霧は容赦なく視界を遮る。
 トールは腕を下ろして、見えない向こう側へもう一度声を張り上げた。
「ロキ! どこにいる?! 聞こえるか!」
 待っても返事はなかった。
 すでに周囲は白一色で、霧に囲まれてしまったせいか、若干耳鳴りもする。
 不快さにトールは眉を寄せた。
「――っ、」
 妙な気配を感じた。
 トールがとっさに大きく後ろへ下がる。と、眼前の空気を何かが鋭く揺らしていった。
(今のは……)
 過ぎ去っていったものを追ってトールが右側へ顔を向ける。だが、当然映るのは白い霧のみ。
 見えない。だが、気のせいではない。自分がいた場所を横切るようにして、たしかに何かが通っていった。
 本能がトールへ警戒を促して、腰に下げた剣の柄をつかませる。
「誰だ? 誰かいるのか?」
 牽制するように低い声で言いながら茶色の双眸を周囲に巡らせる。
 返事はない。
 静寂。
 トールが視線を一往復させたときだった。
 正面の空気が大きく揺れる。
 トールは素早く鞘から剣を引き抜いた。
 がきっ、と鋼が高く金属音を鳴らす。
 手に伝わる重みと振動とは別に肌がひりつく感覚がする。
 これは、殺気だ。
(敵? 何者だ)
 不意打ちにも歴戦の経験からトールは動じることなく、剣を交えたまま冷静に目の前を注視する。
 白い霧に覆われた視界にぼんやりと人影が見えてくる。自分よりも低い身長、小柄な体格。
 つばぜり合いが解かれる。人影が踏み込んでくる。短剣がトールの首を狙い、迫り来る。
 トールは剣で払うようにして相手の刃を弾き返した。わずかに生じたすきに反撃――をいつもならするところだが、違和感が攻めることを躊躇わせた。
「トール」
 聞き覚えのある声が名前を呼ぶ。霧が薄くなって、相手の姿が先よりも鮮明に視界に映る。
 目の前に立っていたのは、長い黒髪の若い男だ。彼の特徴的な碧眼がトールを見据える。
「……ロキ……?」
 ――どういうことだ。
 生じた疑問に思考が混乱して、背筋に冷たいものを覚える。
 ――ロキが、裏切った。
 やはり、彼は巨人族……たぶらかして神族を陥れる隙を狙っていたのか。
 いいや、まだ、そうだと決まったわけではない。
「ろ、っ!」
 呼びかけようとしたトールだったが、ロキは容赦なく短剣を振るってきた。
 仕方なくトールは口を閉じ、相手の刃を剣で防いでいなした。だが、すぐに追撃がくる。
 剣戟の音ばかりがふたりの間に冷たく響く。
「くっ……」
 ――どうにかして、この攻防をやめたい。
 ――どうにかして、彼を止められないか。
 そんな想いがわいてくるが話をできる状況ではない。
 この状況を変えるには相手を制圧するしか手はない。
 渦巻く迷いと戸惑いを断ち切るように、トールは剣の柄を握る手に力をこめた。
「トール、上だ!」
「!?」
 聞こえてきたその言葉にトールは驚いて頭上を仰いだ。
 重なる深緑色の枝葉の中にいくつかの鋭い光が見えた。
 反射的にトールは横に退いて、そばに降ってきたその一つを剣で払いのける。
 硬い感触。
 空気を切り裂くような音。
(これは……矢か)
 トールが地面を見て、そこに突き刺さった、あるいは転がった矢に顔をしかめた。
「ああっ、あと少しだったのに! なぜだ! なぜだー!」
 不意に、憤りを感じるしゃがれた声が森の中に響き渡った。
(もうひとりいるのか――っ、ロキは!?)
 はっとしてトールが慌てて辺りを見回す。
 いない。数十秒前まで自分と対峙し、たしかに刃を交えていたはずの彼の姿はどこにもない。
(どこに行った……?)
 身を隠せそうな茂みや木々はあるが、あの短時間で全く気づかれずに隠れることは無理だろう。
 普通では。
(まさか、魔術……)
 考えたトールの頭が内側から針でつつかれるような痛みを発した。
「うわっ!? きさま、どうし――ぎゃっ!」
 しゃがれた声が再び響いて枝葉がざわめく。
 トールが騒ぎを追って上を向こうとしたとき、それは落ちてきた。
「!?」
 質量の大きいものが地面とぶつかる鈍く重たい音。砂埃と木の葉が宙を舞い、折れた枝が周囲に散らばる。
 身構えるトールの茶色い眼を、緑がかった青色をした双眸がとらえた。
「……ロキ……?」
 つぶやいたトールに、彼は瞬きを一つ返して屈んでいた体勢から立ち上がると、地面に飛び降りた。
 そこでようやくトールは、頭上から落ちてきた者がひとりではないことに気がついた。
 うつ伏せで倒れている者がいる。黒茶色のぼさぼさとした髪に、麻の上着とズボンという簡素な格好、顔は見えないがやや大柄な体格から男だと知れた。
「巨人だよ」
 伏した男を見つめるトールの耳にため息混じりの声が届く。
「ったく、面倒くさい奴だった」
 愚痴を吐きながら、手にしている短剣の刃を拾った葉で拭って、腰の鞘に短剣をおさめた。地面へ放った葉には赤い汚れが付着し、その近くでは巨人が背中から血を流して倒れている。
 トールはそこにいる彼らを交互に見てからもう一度口を開いた。
「ロキ……か?」
「そうだよ。まだわからないのか?」
 呆れたように顔をしかめてロキが応える。
(ロキが巨人を殺した、のか? 敵ではない……? だが、だったらなぜ……)
 彼が自分を攻撃した事実と眼前の光景が結びつかない。
 状況を整理しきれない頭でトールは再度疑問を口にする。
「どうして、おまえは俺を攻撃したんだ?」
「攻撃?」
 怪訝そうにロキは繰り返して、すぐに合点がいった様子で言葉を続けた。
「それは俺じゃない。こいつの幻術のせいだ。幻だよ」
「幻……?」
 トールはロキが指を指した先、倒れた巨人を見やった。
「変な霧が出てきただろう? 対象者の感覚を狂わして幻を見せる幻術だよ。……オーディンから聞いていたけど、わかっていてもなかなか厄介だったな。とくに、馬鹿正直にかかる奴がいるとなおさら面倒くさかった」
 ロキの最後の一言は自分へ向けられたものだろう、そうトールにはわかったが怒りはわいてこなかった。
(そうか、あれはロキじゃなかったのか……)
 胸中にあった重いつかえが消えて、心身が楽になるのを感じた。今さらながら霧がすっかり晴れていることを認識する。ヨツンヘイムの景色はアースガルドと比べると暗く陰鬱だが、今は周囲が見通せることに安堵を覚えた。
「トール、おまえが見た幻は俺だったんだな?」
「ん? ああ」
「そうか」
「?」
 トールから目を少しそらしてロキはそれっきり沈黙した。その表情は無に近く、わずかの思考も読み取れない。
「ロキ? どうし――!」
 思わずトールが言葉を切った。
 太い腕がロキの頭部に向かって振り下ろされる。
「っ、」
 紙一重のところでロキは殴打を避けた。
 トールはすぐに地を蹴って、ふたりの間に割り込むように剣を振るった。
 鋼が肉に食い込む鈍い感触。巨人の硬い体に押し負けないよう、トールは力を込めて剣を振り切った。
「ぐ、ぅ」
 低いうめき声。胸元から鮮血がこぼれ出る。
 巨人はよろめきながら一歩、二歩と下がったところで、仰向けに地面へ倒れた。
「………」
 再び立ち上がり襲いかかってくるのではないかと、トールは剣を構えたままで巨人を注視していたが、巨人は白目を向いて微動だにしない。ただ血だけが流れ出て地面を赤黒く染めていく。
 緊張を解かすように一つ息を吐いて、トールは剣をしまった。
「ロキ、大丈夫か?」
「……あんたって、馬鹿だな」
「?」
 自分の問いの答えとはほど遠い返事にトールが目を瞬かせる。
 ロキは肩をすくめた。
「もし、俺があんた達が危惧している奴の通りだったらどうするんだ? 安易に背中なんて見せると、刺されるかもしれないぞ」
 物騒な物言いだったが、そこに不穏さは感じられなかった。だから、トールは事も無げに言葉を返した。
「そのときはどうにかする。だが、実際はそうじゃないんだろう?」
「……やっぱり馬鹿だな。もういいや」
 この話は終わりだとばかりに首を二振りしてから、ロキがトールから離れて茂みの中へと入っていく。がさがさと乾いた音を立てながら地面のほうを見てしばらく辺りを行き来していたが、ふと木のそばで屈み込んだ。一分とせずに立ち上がったロキのその右手には、短剣よりも小さいナイフが一本握られていた。柄の近くの刃に直線状の赤い模様が描かれている。
 トールは幻との攻防の前に、自分のすぐ目の前の空気を切り裂くように何かが過ぎていったことを思い出した。
「もしかして、それはおまえが投げたのか……?」
「ああ。幻術の力を弱めるためと、どこかの馬鹿に危険を知らせるために」
 戻ってきたロキがナイフをトールに見せる。模様だと思っていたのは血で描かれたルーン文字だ。
「そうか。ありがとう」
「………」
 ロキがまるで誤ってひどく苦い食べ物を口にしてしまったかのような顔をする。
 礼を言っただけなのに、なぜそんな反応をされるのか。トールはわからず、きょとんとした視線を返していると、ややあってロキからあからさまなため息を吐かれた。
「さっさとこの森を抜けるぞ。他にも巨人がいるかもしれないからな」
 ナイフを懐にしまってロキが歩き出す。
 トールは地面に横たわった巨人の亡骸と、黒髪の揺れる後ろ姿を交互に見た。
(やっぱり不思議な奴だ)
 あらためてそんなことを思い、小さく笑みをこぼす。
 トールはロキを追ってその隣に並んだ。