ぬくもり


【読まれる前に】
2018/10/14に発行した同人誌「Short Short Story」の中からの再録になります。
電子書籍とあわせてお手に取っていただきありがとうございました!

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 頬に走った鋭い痛みに、ロキは思わず顔をしかめた。
 どうやら、さっき殴られた箇所を触ってしまったらしい。
 窓を鏡の代わりにして顔を見てみる。
 どこにも傷のようなものはなかった。しかし、記憶をたどって殴られた部分に軽く触れてみると、やはり痛みを感じた。
 負ったけがは魔術で治療してもらったのだが、見た目は綺麗になっても完治にはまだ時間がかかるようだ。
 ロキは窓から離れて、背もたれにもたれかかるように椅子に腰掛けた。
 なんだか心身がだるい。そのせいか、とくにやることが思い浮かばず、見るともなしに天井を見上げる。
 ふと、頭の中に声が響いてきた。
 ――オーディン様に気に入られたからって、いい気になるな。
 ――穢れた血め。
 ――どう振る舞おうと、おまえは神なんかじゃない。巨人族なんだよ。
 それらは、帰宅する前に吐かれたロキへの言葉だった。
 面と向かって罵られたり、蔑まれたりするのは今回が初めてではない。巨人族として生まれ育ち、巨人の血しか引いていないロキのことをよく思わない者は多いのだ。
 月日が経ち、ロキがアース神族のひとりと婚姻関係を結んだからか、来たばかりの頃と比べると周囲の態度は軟化した。とはいえ、強く当たられることが完全になくなったわけではなかった。
 いや、どれだけ経とうとなくなることはないのだろう。アース神族が巨人族のことを敵視しているかぎりは。
 今日も、ロキに関してから発生したいざこざがあった。発端は相手のほうだ。理由は今考えてもくだらない、ほんのささいなことだった。きっと生まれながらの同族ならば、誰かがちょっと割り込めばあっさりすんでしまうだろう、本当に小さなことだ。
 だから、ロキは最初はたいして相手にしていなかった。下手に言い返したり、何かしたりすると状況がひどくなることが経験からわかっていたからだ。
 しかし、今回の相手はその態度に冷めるどころか、逆に腹立たしかったらしい。
 自然におさまることはなく、浴びせられる罵詈雑言はその質を増して続いた。
 ロキ自身、自覚していることだが、争い事を好まない穏やかな性格の持ち主ではない。争いが好きというわけではないが、弱く見られることは嫌いだ。
 あまりのしつこさに我慢できなくなって、ついまともに応酬してしまった。それがきっかけとなって、口だけのけんかが殴り合いになるのに時間はかからなかった。
 何発か殴られた。だけど、ロキも同じぐらい相手を殴った。
 さすがにすぐに止められたので、両者とも少し流血する程度のけがですんだ。
 ロキが治療をしてもらっているとき、医者のエイルから早く相手に謝ることを勧められたが、そのときはまだ気が立っていたので、終わるや否や無視して家に帰ってきた。
 気分が落ち着いた現在は……謝罪しようとは全く思えない。
「――ロキ!」
 不意に室内の薄暗い静寂を破るように、扉が開く音と高い声が聞こえてきた。
 ロキが玄関に続く廊下のほうに視線を移すと、心配そうな表情をしたシギュンが足早に居間に入ってきた。
 ここまで急いできたのだろう。
 シギュンは息を切らしていて、結い上げた金髪は少し乱れている。
「ロキ。トールさんから聞いたわ。けんかしたんですって? けがは?」
 ロキを見つけたシギュンがそう言って駆け寄ってくる。
 彼女に手を伸ばされたが、ロキはそれを避けるように頭を動かして、長い黒髪で顔を隠すようにうつむいた。
「治療してもらったから、平気だ」
 それはほとんど無意識の行動だった。なんとなく、今の自分の顔をはっきりと見られるのが嫌だった。
「………」
 シギュンは何も言わなかった。
 ロキはすぐ近くに立っている彼女が動いたことを、雰囲気と影で察した。
 自分の素っ気ない態度に愛想を尽かして、その場から離れたのかと思ったが、違っていた。
 ロキが目を見張る。
 シギュンは身を屈めて、うつむかせているロキの顔を覗き込んでいた。
 ロキは慌ててもう一度そらそうとしたが、それよりも早くにシギュンの両手が黒髪をかきあげていた。
 驚きのあまり、ロキが体の動きを止める。
 シギュンは戸惑う碧眼を自身の青の瞳でとらえて、優しく微笑んだ。
「これで、やっとあなたの顔がよく見えたわ」
「………」
 どうすればいいのか。
 あまりにも唐突で、初めての出来事で、ロキの頭には対処法が何も浮かんでこない。
「ロキ」
 名前を呼ばれても返事はできず、ただまっすぐ彼女の顔を見つめるしかなかった。
 シギュンが不安げな表情をする。
「大丈夫?」
「……あ、ああ」
 問いにたいして、ロキがなんとか発せられたのはそれだけだった。
 しかし、シギュンにとってはそれだけで充分だったらしい。
「そう。よかった」
 安堵の息をこぼして、嬉しそうに顔をほころばせた。
 それを見て、ロキは沈んでいた心が不思議と軽くなっていくことに気づいた。
 つい先程までは嫌だと思っていたのに、今は髪をかきあげているその手が、彼女がこちらを見てくれていることが、とても心地良い。
 なぜそう変わったのかはよくわからない。
 だが、その理由を探すことに意味なんてない気がした。ただそう感じていればいいのだと思った。
 そして、意識を向けるべきはその他にあるとも思った。
「シギュン……」
「なに?」
「……心配かけて悪かった」
 ロキが言ったそれは、どこかぎこちない、ありがちな台詞だったが、耳にしたシギュンは満面の笑顔を浮かべた。