調停者


【読まれる前に】
2018/10/14に発行した同人誌「Short Short Story」の中からの再録になります。
電子書籍とあわせてお手に取っていただきありがとうございました!

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「チュール、いらっしゃいますか。フォルセティです」
 扉が軽く叩かれる音に続き、やや高めの声音がしんとしていた室内に響いた。
 部屋の奥、寝台に腰かけてけがを負った右腕の具合をたしかめていたチュールは顔を上げて茶色の双眸を扉に向けると、開いている、とそれだけ言って来訪者を招き入れた。
「失礼します」
 丁寧に断りながら中に入ってきたのは、耳下ほどまでの亜麻色の髪に、明るく澄んだ青の瞳が印象的でどこか少女じみた顔立ちの、人間でいうところの十代半ばほどの少年だ。しかし、外見こそあどけなさが残る子供のそれだが、まとう雰囲気には大人のような落ち着きがある。自分よりも年も格も上の相手を目の前にしているというのに物怖じすることなく、ほんのりと微笑んだ。
「思っていたよりも元気そうで安心しました」
 言葉通りのたしかな安堵をにじませるフォルセティに応えるように、チュールも穏やかな表情をする。だが、その口から発せられたのは柔らかとは言い難いものだった。
「見舞いに来たわけじゃないんだろう、フォルセティ」
 棘を含まない静かな物言いながらも一切の揺るぎなく言われ、フォルセティの顔からすっと笑みが消えた。表情に大人びた冷静さだけを残し、濁りのない眼で正面に座る黒茶髪の軍神をまっすぐにとらえる。
「オーディン様から、貴方への言伝を預かってきました」
「それで」
「今日をもって貴方を調停者の役割から降ろす、と」
 発した声色は少しだけ緊張からの硬さをおびていた。
「そうか」
 チュールにとって重い内容のはずなのに返事は淡白で、そこには驚きも惑いもなかった。諦めというには無念の情は含んではおらず、その態度からは告げられる前からそうなる現実がわかっていたのだろうことが察せられた。
「………」
 心を乱した様子もなく主神からの言葉をあっさり受け入れたチュールを見て、フォルセティが表情を薄く翳らせた。
 ……彼に聞くべきか、やめるべきか。
 ここしばらく心に抱えていた疑問が思考に浮上してくる。
 フォルセティは数秒の沈黙を挟んでから、もう一度口を開いた。
「どうして、あんなことをしたんですか?」
 やや控えめな口調でした問いに、チュールは何も言わなかった。ただ視線だけが返された。
 向けられている表情には、心中を読み取れるようなものは浮かんでない。瞳は探るようでもなく、威圧するようでもない。
 黙ってこちらの存在を見据えてくるだけの相手にフォルセティは胸騒ぎに似たものを覚えて、わずかに早口になりながら言葉を重ねた。
「腕を失ってしまったら、調停者の役割から外されることをわかっていたのでしょう。なのに、なぜです。フェンリルの口に腕を入れるなんて危険なことを、貴方はしたんですか?」
「そうするのが最善の策だったからだ」
「最善……」
 ようやく返された答えをフォルセティがぽつりと繰り返す。そこに新たな疑問の響きはなかった。
 聞き返さずともフォルセティには、短い言葉に込められたチュールの真意が何であるのか、わかったからだ。
 ――いや、本当は、最初から眼前の人物の考えはわかっていたのだ。だからこそ、フォルセティは本人の口から知りたくて尋ねたのだ。
「納得できないか、フォルセティ」
「……はい」
 肯定の返事はどうしてもぎこちなく、小さくなった。
 無言でチュールが自身の右腕のほうに顔を動かす。
 誘われるようにしてフォルセティも視界の中心に件のそれをとらえて、晴天のような印象の瞳を曇らせた。そうであると理解していながらも、無意識に目の端へと追いやってできるだけ見ることを避けていた。
 袖が捲り上げられ、露になっている二の腕に巻かれた包帯は肘のあたりでぷっつりと途切れている。覆う白布が、ではない。続く先自体がないのだ。一週間前まではたしかに目にしていた相手の腕は、今はわずかの影すらも残さずに半分ほどが失われていて、寝台の向こう側にある夕焼けの光が射し込む窓が見える。
 端々にぼんやりと薄暗い朱色をにじませる片腕を目にし意識して、フォルセティの脳裏に浮かんだのは痛々しいなどという単純な感想ではなかった。今よりももっと眼前の相手が高く大きく見えていた頃に一度だけあった出来事、その手によって頭を撫でられたことが、感じた嬉しさと気恥ずかしさとともに鮮明によみがえってきた。
 ――悔しい。
 思い出が現実の像と重なり合って、懐かしさを苦しみへと変える。
 ――どうして、彼なのだろう。
 そう思って、そんなことを思ってしまった自分自身にフォルセティは気がついて、己を愚かしく感じた。胸の重みが増して、無意識に頬が強ばる。
 他の誰でもない、そうさせたのはチュールの意思だ。全てを承知で、彼は課せられた役目を自ら果たしたのだ。
 それにたいして、フォルセティが何か言うことはできない。するべきではない。
「おまえには迷惑をかけるな」
 ふと耳に聞こえてきたのは、まるで想いを悟ったかのような声色だった。フォルセティの揺らいでいた視線が正面に定まる。
 今までそばで自分に教えを説いてくれた相手は、いつも目にしていたときのように今も変わらず毅然としていて、どこにも後悔の色はなかった。
 フォルセティの中から、生じたしがらみはまだなくならない。けれど、ようやくちゃんと地に足が着いたような感覚がして、思考が落ち着き、言葉が出てきた。
「本当です。すぐに貴方の代わりを務められる者はいないんですよ」
「おまえなら大丈夫だ。だから、あとは頼んだぞ、フォルセティ」
「……はい」
 この返事に迷いは不要だ。
 ――調停者として、これから自分が、貴方が教えてくれたことを引き継ぐ。
「お疲れさまでした、チュール」
 一息おいてそっと述べると、チュールは暖かな微笑みを浮かべた。
 フォルセティは、うまく笑い返せなかった。
 けれど、師であった彼を見るその顔からは、すでに暗い感情は消えていた。