二度と戻れない場所


【読まれる前に】
2018/10/14に発行した同人誌「Short Short Story」の中からの再録になります。
電子書籍とあわせてお手に取っていただきありがとうございました!

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 『世界』に存在している限り、誰もが時間の流れの中に居る。だからこそ、必ず、何かがわずかにでも変化する。それは人間達から神と崇められる者も例外ではない。
 けれど、トールは今日ほど時の移ろいを意識したことはなかった。気に入りの人間が老いて土に還ったときでさえ、こんなにも時間にたいして感情を傾けはしなかった。
 正面に建つ一軒の家屋を視界の中心に据えて、トールは胸が締め付けられるのを感じた。
 自身の館の半分にも満たない小さな建物は、かつてよく行動を共にしていた神――ロキと、その妻、子供達が住んでいた場所だった。現在はそのうちの誰もそこにはいない。
 もはや、誰かが居ることがなくなった。
 二月ほど前にバルドル殺害の罪でロキは捕らえられ、彼への刑の際にまだあどけない兄弟は死に、敬虔な妻は自ら終わりの時まで夫のそばにいることを選んだ。
(本当にいないんだな……。ここにあいつは……)
 何度になるか知れないほどに足を運んだ場所である。あらためて今とこの先を認識して、トールの喉が苦しくなる。表情が苦く歪む。
 ロキがしたことを考えれば、このまま目の前の家が廃屋となるのは当然の結果で、自分達の長の決定に異議を唱えることは不可能だ。また一時、自分だって彼の行いにたいして激高していた。
 だが、これが望んだ結末かと問われれば、正直に首を横に振る。
「……ロキ……」
 かたり、と不意に乾いた音が聞こえた。
 まるで自分が発した名前に反応したようなそれにトールは目を見張って、所有者が不在になったはずの建物の扉を見つめた。
 たしかにあそこから物音がした。風が軋ませるのとは違う。戦いのときのように神経を集中させると、微かにだが生き物の気配が感じ取れた。
 まさか。
「ロキ?」
 そんなはずがない、と頭の隅から冷静に己が言い返す。しかし、トールは家へと進む足を止められなかった。
 はやる気持ちで、訪問時にいつも立っていた位置にまで来たとき、扉が開いた。
 トールは立ち止まり、息を呑んだ。
「あれ、トール?」
 視界の中に、陽光が銀色と小柄な体格を浮かび上がらせる。
 耳から脳に入り込んだ馴染みのある声音にようやくトールは現れた人物の正体を認めて、我知らず小さくため息をこぼしていた。
「ウル、か」
「ロキだと思った?」
「………」
 かわすことのできなかった言葉がトールの肺腑をえぐる。沈痛な面持ちとなってしまうのは堪えられなかった。
 明白に表された図星に、ウルは少し目を伏せた。
「驚かせてごめん。ロキ達はいないよ」
「……わかっている」
 胸の奥から絞り出すようにトールは応えた。視線が自然と、ウルの背後に見える家の中へと移る。ほのかに調度品の影が見て取れる薄暗いそこに、過去の景色が無情にも反映される。いくつかの懐かしい像が脳裏を過ぎったあと、ふとトールは重要なことに気がついた。
 正面に立つ銀髪の相手を再び視界の中心にとらえる。
「ウル、ここで何をしていたんだ?」
 トールの当然の疑問に、ウルは表情を柔らかくした。
「お墓を作ろうと思って」
「墓……?」
「うん。ナルヴィとナリのお墓をね」
 出された二つの名前に、まだ真新しい赤く凄惨な出来事がよみがえってきてトールが頬を強張らせた。
「ああ、そうだ」
 表情の変化に気づいているはずだが、ウルは変わらずの態度で片手を目線の高さまで挙げて言葉を重ねた。
「ふたりの遺体の代わりにするためにこの人形を持って行くね。ボク、泥棒じゃないよ?」
 トールが証人ね、という最後の一言はトールの耳の上を素通りした。
 手中にある示された二体の人形は、トールもよく知っているものだった。
 シギュンが子供達のために作った人形だ。その服の中央に飾りとして縫いつけられた青色の丸い小石は、一緒にミッドガルドへ行った際にロキが持ち帰ったものだ。今でもそのときの、面倒くさそうにしながらも嬉しさがのぞく彼の様子を思い出せる。
 全ての感情が一瞬にしてトールの内側から消え去って、すぐに津波のように押し寄せてきた。
「どうして、それは――!」
「もう誰も戻ってこないからだよ、トール」
「っ、」
「わかってるでしょ」
 天地を震わすほどのトールの怒気を遮ったウルにはいつのまにか、楽観的だと揶揄されるいつもの雰囲気はなくなっていた。
 威圧するのとは異なる、強固な意志を宿して向けられる静かな面持ちに、トールは眼前の相手が生まれ育ったという巨人の世界の翳った空気を肌に感じた気がした。
 昂ぶった心が急速に冷やされていき、思考が理解の二文字に反論を失って、無意識に唇を固く閉ざす。
 ……わかっていた。信じたくなかったのだ。まだ、諦め切れないでいる。だから、来てしまったのだ。不条理なわがままだ。
 けれど、もう認めざるを得ない。過ぎた時間と過ぎ去る時間には何者も触れられないのだ。神と呼ばれる者でさえも。
 青褪めて立ち尽くすトールに、ウルが元の温度を取り戻した表情で笑いかけた。
「だからさ、誰かが彼らのためにしてあげないと、ね」
「………」
「できたら、知らせに行くよ。気が向いたら、お墓参りに行ってあげてね」
 ウルはトールの返事を聞くことなく、横を通り過ぎて歩き去っていく。
 誰もいなくなった視界の中で扉が閉まる。
 二度と戻れないその場所で、トールは静かに瞼を閉じた。