ふたり


【読まれる前に】
2018/10/14に発行した同人誌「Short Short Story」の中からの再録になります。
電子書籍とあわせてお手に取っていただきありがとうございました!

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 ふたりが目の前を通り過ぎていく。
 アースガルドでは見慣れた白髪隻眼の男と、まだ見慣れない黒髪碧眼の男が虹色の向こう側へと消えていくのを、ヘイムダルは歯痒い思いで見送るしかなかった。
(オーディン様はどうしてあんな奴を……。何の地位もない、巨人族の若造だぞ)
 自分達と敵対する巨人族だとしても、客として一時的にアースガルドの地に足を踏み入れることなら許せる。だが、自分達の神族に仲間入りするとなると話は変わってくる。
 ヘイムダルは、誰もいなくなった下の世界とを繋ぐ虹の橋ビフレストを睨みつける。
 気に入らない。つい最近アース神族に仲間入りしたあの男が。彼に目をかけて、自分の進言を聞き入れようとしない主神が。
 ヘイムダルは無意識に舌を打った。
「――気をつけないと、不敬罪だと咎められるぞ」
「?!……チュール……」
 不意に後ろから聞こえてきた、まるで心の中を読まれたかのような低い声にヘイムダルが驚いて背後を振り返れば、体躯のいい、黒茶髪の男がひとり、立っていた。
 意識を他事に取られていたとはいえ、声をかけられるまで全然その存在に気がつかなかった。
 気配を察知できなかったことにアースガルドの見張り番としての失態をヘイムダルは感じたが、すぐに相手がどうしてここにいるのか疑問がわいてきた。
 軍神や戦神と人間達に崇められるチュールではあるが、オーディンやトールと比べてアースガルドの外に出ることはあまりない。
「珍しい……外に出かけるのか?」
「いいや」
 ヘイムダルが聞けば、チュールはすぐに否定した。
「? なら」
「オーディン様とロキはまた一緒に外へ行ったようだな」
「っ、」
 チュールが一度ビフレストのほうを見やって口にしたのは事実だったが、ヘイムダルは思わず表情を歪めてしまった。
「ヘイムダル」
「すまない……」
 咎めるように名前を呼ばれて気づき、ヘイムダルは慌てて顔までこみ上げてきていた負の気持ちを胸の奥にしまいこんだ。
 二度目の失態で、規律を重んじる相手にさらに言われるかと思ったが、チュールの視線はすぐに自分から離れた。
 その茶色の双眸がとらえたのは、湾曲して下方へと続く虹色。しかし、見つめるそこには誰もいなければ何もない。また、やってくる様子もない。
「チュール?」
「………」
 ヘイムダルが名前を呼んでも反応はない。
 一体何を見ているのか。そもそもどうしてここにやってきのか。
 抱いている感情をうまく読み取れない無表情に近いチュールの横顔を見ながら、ヘイムダルは考える。
(……オーディン様と、ロキ……?)
 相手が発した科白を思い返して、引っかかりを覚えた。
 聞いたときは自分の感情もあって言葉そのままの意味でしか受け取らなかったが、冷静に考え直してみれば、そんなわかりきったことをわざわざこんなところにまでやってきて言う人物ではない。
 チュールは、旅に出て行ったふたりのことを気にしてここにきたのだ。彼もあのふたりに関して思うところがあるのだろう。
 そこまで悟って、ヘイムダルの思考に相手へ聞いてみたい一つの問いが生まれた。不躾になるだろうか、と躊躇いを覚えながらも、今を逃したらもう聞けないような気がして、叱られるのを覚悟で疑問を口にする。
「チュールは、ロキがアース神族に入ったことについて、どう思っているんだ?」
 視線が静かに寄越されたが、一秒ほどで正面へと戻っていった。
 ……やはり、答えてはもらえなさそうだ。
 ヘイムダルが諦めた矢先だった。
「オーディン様のことだ。何か考えがあるんだろう。己の主神の決めたことに、俺は反対するつもりはない」
 チュールが答えた。その横顔に変化はなく、物言いはどこか淡々としていた。本音のように聞こえて、本音ではないようにも聞こえた。
「そうですか……」
 もっともな答えだとヘイムダルは思ったが、その言葉にたいして完全な賛同までには至らなかった。
 懐疑心を抱いたまま、チュールからビフレストの先へ瞳を移す。虹色の橋を渡り終えた短い白髪と長い黒髪の人物達は、針葉樹の森の中を進んでいる。
 ヘイムダルは目を凝らしていたが、ほどなくして、ふたりの姿は完全に見えなくなってしまった。

   ◆

「ご機嫌斜めだな」
 ビフレストを降りて外界に続く森を抜けた直後、脈絡なくオーディンが言った。
 そこに主語はなかったが、ロキにはそれが自分に向けられた言葉だとわかり、隣に振り向いた。
「別に……あんたが原因じゃない」
「ヘイムダルか?」
「っ、」
 さらりと返されたオーディンの問いに、ロキは歪んでいた顔をさらに苦く歪めてしまった。
 眉間の皺が濃くなったしかめっ面を愉快げな表情が見返す。
「おまえ達は本当に仲が悪いな」
「俺のせいじゃない。あいつの態度が悪いんだ」
 言い返したロキの頭の中に、先程のビフレストの見張り番の様子と、自分がアース神族に仲間入りしたときの光景がよみがえる。
 巨人の世界からオーディンに連れられてアースガルドに来たロキは、すぐに主要な神々が集められた会議に出ることになった。議題は、アースガルドに仲間入りするロキについて。しかし、議論というよりはほとんど、ロキのアース神族入りを決めたオーディンからの報告といったものだった。
 オーディンからの話に、集った者達の反応は様々だった。何も言わずに顔を苦く歪める者、神妙な面持ちをする者。小さく驚きの声を漏らしてしまう者、隣の者と囁き合うように話す者。
 そして、はっきりとオーディンに意見を述べる者。ヘイムダルがそうだった。彼はまっすぐに目線を向けて、真摯な表情をして、臆する様子なく、ロキの仲間入りにたいして異を唱えた。巨人族で生まれ育ったロキを仲間にすべきではない理由を、淀みなく話してみせた。
 そのときの言葉を、ロキは今も一語一句覚えている。
(あいつに俺の何がわかるっていうんだ。他の巨人の奴らと同じにするな)
「――なるほど。それも一理あるな」
「?」
 聞こえてきたオーディンの声にロキは、自分が今どこにいるのかわからなくなった。思わず足を止める。視線の先で、オーディンが三歩ほど遅く立ち止まって振り返った。
「どうした、ロキ」
 瞬きを挟んでも、荘厳な造りの景色は見えない。視界にいるのはひとりで、周囲には青い空と緑と茶の地面が広がっている。
 ロキはそこまで認識して、自分の意識があるところが記憶の中ではなく、現実であることを実感した。
「いや、何でもない……」
 首を横に振って、オーディンのほうに足を動かす。
 そうしようとした。けれど、一言前に耳にした言葉が引っかかって、歩むことはできなかった。
 『なるほど。それも一理あるな』
 この言葉は、あの会議のとき、ヘイムダルにオーディンが返したものと同じだった。
 自分の仲間入りを反対するヘイムダルの姿がもう一度脳裏を過ぎって、ロキの胸の奥に生じた感情が明確に形を成して意識にのぼる。
「……オーディン」
「なんだ」
「俺をアース神族に仲間入りさせたことを後悔してないのか?」
「してないな」
 返答までに一瞬の躊躇いもなかった。見返してくる隻眼やその顔に情の曇りは見受けられない。
 しかし、ロキには納得できなかった。目にしているものから得られる情報が全てではないということを、目の前にいる人物と出会ったときに嫌というほど経験したからだ。
「本当か? 俺が来たことでアースガルドの秩序が乱れているとしても?」
「ロキ。わたしがそんなことを予想できない愚か者だと思っているのか?」
「っ……」
 口調も表情も変わらない。なのに、オーディンの応答にロキは警戒するような威圧を感じた。
 心臓が鼓動を速める。たしかに足は地に着いているのに、妙におぼつかない。見据えてくる眼から逃れたい衝動に駆られる。
 ロキは、左右の足を一度小さく踏み直してから、腹の底に力を入れて口を開いた。
「あんたは、俺に何を望んでいるんだ……?」
「望み、か」
 オーディンが笑みを顔に広げる。
 ロキは小さく唾を喉の奥に呑み込んだ。
「さあな。そこまでは考えてない」
「………」
「だが、良いも悪いも何かしらの変化はあるだろう。実際、あのトールが、短期間でおまえのことを気に入ったようにな。あれは意外でおもしろかった」
「………」
 雑、脳天気、楽観的、適当。
 ロキの脳裏にそんな言葉が過ぎっていく。心身が強ばるような緊張が急速に薄れていく。
(いいや、こいつのことだ……)
 外に露わになっていることが真実とは限らない。ロキは萎えていく気を持ち直してオーディンを注視する。その思考を読み取ろうとする。言われた答えを頭の中で繰り返す。
(……むかつく)
 しかし、あるはずの真意を見つけるどころか、自分に向けられた相手の顔がだんだんとひとを喰ったような表情に見えてきて、不愉快な気分になってきた。
 ロキは視線をそらして、内側で渦巻く悔しさと腹立たしさにため息を吐いた。
「満足したか、ロキ」
 耳に届く、楽しげなオーディンの声音。
 ロキは唇の端を下に曲げて言い返す。
「あとになって後悔しても知らないからな」
「心得ておこう」
 さらりと応え、オーディンが進む先に向き直って歩き出す。
 ロキは目を前に戻した。
(本当、とんでもない奴だな)
 呆れを含んだ感想を胸中でこぼしてからロキは、視界に見える背中を追って歩みを再開した。