おかげさまで


 方向幕が回送の表示に切り替わった白地に青いラインの列車が、冷たい夜の闇の向こう側へと走り去っていく。
 ホームに降り立った旅客達は足早に改札に向かい、社員は次の仕事を片付けるために足を進める。
 終電車が去った東京駅の新幹線ホームは、つい数時間前のざわめきが嘘のように人気がなくなっていく。
 ――今日の運行は無事に終わった。
 意識が、体にのしかかるような疲労感とともに俺にそう伝えてくる。
 視界の空気がふわりと白く霞んだ。
 俺ははっとして、慌てて背筋を伸ばした。無意識のうちにため息を吐いてしまっていたようだ。
 すぐに周りの目が気になったが、……どうやら、今この場で俺のことを認識している人間は誰もいないようだった。
 それも、そうか。
 張った気を少しだけ緩める。
 時間が時間だし、時期も時期だ。
 横目でとらえた、通り過ぎていく社員達の表情はどれも硬い。原因が深夜という時間帯でも、寒さからでもないことは容易に想像できた。
 俺は半年ほど前に開かれた、鉄路を走る者達を集めた臨時の集会を思い返す。
「諸君、国鉄の分割民営化が正式に決定した。経営は国から民間に移り、今までの組織は解体、分割される。むろん、諸君らの所属もそれぞれの地域の新たな会社に移ることになる」
 上の人間からそう告げられると、室内はたちまちざわめき立った。
 前々から兆候は幾度もあったから、多くはこうなることを予想していただろうが、明言されるとやはり戸惑わざるを得ないようだった。周囲は一様に、隠しきれない不安や不満を顔ににじませていた。その場に、喜んでいる者は一人もいないようだった。
 けれど俺自身は、ああそうか、と妙に淡泊に感じただけだった。告げられた未来が色濃くなってきた現在も、どこか他人事のように衝撃もなく受け止めている。
 だって、戸惑う必要なんてない。所属するところが変わろうと、自分が鉄路を走るべき存在であることに変わりはないのだ。人間に望まれ走り続けることこそが、己の存在意義なのだから。所属がどこだろうと関係ない。誰が周囲にいようと関係ない。与えられた役割を果たすことが何よりも大切なのだ。そのために生み出されたのだから。
 そうでなければ、何も意味がなくなってしまう。
「……帰ろう」
 考え事が進むにつれて心身がどんどん重たくなっていることに気づいて、俺は頭を左右に振って暗い思考を打ち切った。
 明日の運行に備えて早く休もうと、後ろに振り向く。
「!」
 だが、構内へと向けた足は一歩も踏み出すことはできなかった。
 まるで俺の進行を阻むようにして、見知らぬ女が一人立っている。
 いつからそこにいたのか。背後にいたことに全然気がつかなかった。
 女は黒髪を後ろで結って、濃い灰色のスーツを着ている。女性なのにスカートではなくズボンなのが珍しいせいか、似合ってないわけではないのになんだか少し違和感を覚える。年齢は……はっきりとはわからないが、成人していることはたしかだろう。
 目が合っても、女は微動だにしない。顔色も変えずに、茶色がかった黒の瞳でじっと俺を見つめてくる。悪意も善意も感じられないまっすぐな眼差しは、妙に居心地が悪くなってくる。
「あの、俺に何か用ですか?」
 沈黙に耐えきれずに俺は尋ねた。
 女が瞬きを一回。さらに動く気配。
「!?」
 急に視界が傾いた。
 女が距離を詰めてくるなり、俺の髪をひとつかみして引っ張ってきたのだ。
 力は強くないが、唐突で無遠慮なそれに少し前によろめきかけた。
「なにする……!」
「本当に白いのね」
 いきなりのことに苛立ち、俺は髪から女の手を引きはがそうとしたが、一瞬早くに女が自ら手を離した。しかし、足の位置はそのままだ。
「東海道新幹線」
 女があらためて俺を見据えて、俺の名前をはっきりと口にした。そこに迷いや罪悪感はない。
「なんだよ」
 突然現れた無礼な人物にたいして、俺は早々に丁寧な態度を捨てた。一日の運行疲れもあって、不愉快なことこの上ない。
 しかし、相手は怯むどころか口角を上げた。
「聞いた話の通りね。走ることには真面目だけど、自尊心が高くて、負けず嫌いで、野暮ったい」
 なんだって? そんなことをあんたに言われたくはない。
 自分自身でもわかるほどに俺は顔が歪むのを止められず、声色が一段と険しくなる。
「あんた、誰だ」
「JR東海」
「じぇい、あーる……?」
 さらりと発せられた答えに、俺は困惑する。
 『JNR』なら知っている。『JR』なんて知らない……いや、まてよ。どこかで聞いたことがあるような……。
「JR東海。国鉄分割民営化によって新たにできる鉄道会社の一つよ。名前の通り、国鉄がもっていた東海地方の路線を有する会社。もちろん、貴方もそのうちの一つになるわ、東海道新幹線」
 はっきりと言い切って女が笑みを広げる。
 俺は頬が強張り、返す言葉は何も浮かんでこなかった。
 そうだ。女の説明は前に別のところで聞いたことがある。JR東海……そうか。この人物が今の国鉄にかわって、次に自分が所属する会社の『営む者』になるのか。
 理解すると、一目見たときに感じた奇妙な感覚にも合点がいった。人間ではなく、自分と同じ擬人だからだ。
 女、もといJR東海は、まるで俺が事を察するのを待っていたかのように再び口を開く。
「貴方には、民営化後も変わらず東と西を繋ぐ日本の大動脈として走ってもらうわ。ただし、今までと同じようには走ってもらわないから」
「?」
「後ろを向きなさい」
 なんなんだ。
 矛盾するような科白に、突然の命令。さっぱり意味も意図もわからない。
 だが、相手が己にとって無視はできない人物だと知った今、言うことを聞かないわけにはいかない。
 俺は慎重に背を向けた。
 線路を越えて吹いてくる風が顔に冷たい。
 ……まさか、線路に落とされる、なんてことはないよな。
「じっとしていなさい」
 JR東海の声が聞こえた直後、髪を触られる感覚がした。つかまれているような、引っ張られているような……、あちこち触れられている。痛みはないが心地のいいものではない。
 何をしているのだろうか。
「顔を下に向けないで」
 ぴしゃりと注意を受けて、俺は無意識に下がっていた顔を正面を見るように上げた。
 髪に触れる力が増した気がする。振り返りたいのを我慢して、俺は解放されるのをじっと待つ。
「……まぁ、今はこんなものかしら。こっちに向いていいわよ、東海道新幹線」
 尋ねるかどうか考え始めた頃、ようやくJR東海が言った。だが、頭部の違和感は消えない。
 一体、何をしたんだ?
 訝りながら俺はJR東海に向き直った。
「思っていたよりも似合うわね。これからはそうやって髪を結んでおきなさい」
 どこか満足げなJR東海の言葉で、俺は自分の身に起こったことを理解した。頭の後ろに手をやると、背中に伸ばしっぱなしにしていた髪の毛が肩上で一つに結われているのがわかった。
 しかし、真意まではわからない。
「なんで、こんなことを……?」
 疑問を発したとき、風が強く吹いてJR東海の黒髪を大きく揺らした。俺の髪を結ぶために彼女は自らの髪を解いたようだった。
 頬にかかる髪の毛を手で払ってJR東海が答える。
「さっき言ったでしょう。変わらずに走ってもらうけれど今までとは同じではない、って。JR東海という会社にとって、東海道新幹線は大切な屋台骨となるの。だから、それ相応の格好をしてもわらなきゃ。今と違ってね」
 最後の一言にどきりとする。
「知ってるのか?」
 俺の現状を。
「もちろん。トンネルや橋梁などの経年劣化の問題に、技術の陳腐化。このままにしておいたら、日本の大動脈の座を航空に奪われる」
「っ……」
 JR東海の断言に俺は唇を噛んだ。
 その通りだ。開業してから今年で二十三年になる東海道新幹線の設備は、余裕がなくなってきている。稼ぎのほとんどが他の路線の補填などに使われているために投資が抑えられ、老朽化が進んでいるのだ。技術面もあまり向上してない。100系車両の投入は、話題性はあったが大幅な更新には至らなかった。
 競争相手である飛行機や自動車は、時間とともに着実に進歩しているというのに、どうして。
 ――このままだといずれ、俺は……。
 わき上がる不安。
 必要とされなくなる恐怖に喉が締めつけられる。体が震えてしまいそうだ。
「大丈夫。私は貴方を栄光の遺物にはしないわ、東海道新幹線」
 意識に滑り込んできた凛とした声音に、苦しさがほんの少しだけ和らいだ。
「……本当か?」
 俺はJR東海を見つめる。
 彼女は少しも態度を揺るがせない。
「嘘は吐かないわ。でも、貴方にも頑張ってもらうわよ。それも今まで以上に。覚悟しておいてね」
 それは励ましというよりも宣戦布告の物言いだったが、恐怖感はすっと引いていき、胸の奥に熱いものを感じた。
 俺はゆっくりと息を吐き、吸い、力を込めて言い返す。
「望むところだ」
「そう。期待しているわ」
 JR東海は微笑みながらうなずくと、黒い髪をひるがえして、颯爽とホームを去っていった。

   ◆

 ――早いもんだ。
 品川駅の構内を歩いている途中、通りかかった本屋の雑誌売り場にある一冊が目に留まって、ふと俺は思った。
 一旦は通り過ぎようとしたが、やはり気になったので手に取ってみることにした。
 『国鉄からJRへ~民営化30年の軌跡~』
 表紙に最も大きくそう書かれている雑誌はてっきり鉄道関係のものかと思ったが、どうやら経済を扱っているもののようだ。
 経済誌の特集でどうして……?
 俺の抱いた疑問は、三十年前のことを思い返して解決した。
 分割民営化のときは、国鉄の内部にとどまらず外部でもずいぶんと騒いでいた。国鉄の最後の日とJRの始まりの日には、ちょっとしたお祭りのようにテレビ中継もされていた。
 あれから三十年が経っても鉄道誌以外でこうして取り上げられるということは、国鉄の分割民営化というのは特殊な出来事だったのだと、あらためて実感する。
 ……そういえば、あの頃の社員は皆不安そうな顔をしていた。鉄路を走る者も、合理化による廃線があるのではないかと怯えていた。末期辺りには上の人間から、国鉄路線の者は危険だから必要時以外は外に出るな、なんていう指示もあった。
 当時のことを思い出しながら、俺はぱらぱらと雑誌のページをめくっていく。
 写真付きで書かれているのは、各JRのこれまでのことに、これからのこと。また、国鉄を振り返る記事もある。
 自分が誕生する前で知らない出来事に、懐かしい出来事。
 その中の一枚の白黒写真に反射的に手が止まった。
 それは、東海道新幹線開業時の式典の写真だ。始発の0系車両の隣のホームには、テープカットを務める国鉄総裁が立っている。
 国民から注目された、晴れやかな舞台。
 高速鉄道という、鉄道史の新たな幕開けの日。
 己の門出。
 あの日のことが、未だ鮮明に頭の中に浮かんでくる。
「っ、」
 俺は喉に硬質な異物感を覚えて、意識的に唾を呑み込んだ。
 情けない。もう五十年以上も経っているのに、どうやらあのことはまだ俺の中で消化し切ってはないらしい。こんなことがJR東海の彼女にばれたら、からかわれながら怒られる。
「行くか」
 自分自身へ小さく発して、俺は雑誌をそっと棚に戻した。


「失礼しま、す……」
「ご苦労様、東海道新幹線。……なに、どうしたの?」
 名古屋駅直結のビルの高層階にある、東海の執務室に足を踏み入れて見えた視界に、俺は呆然としてしまった。
 視線の先にいる彼女の言葉で我に返り、同時に目の前の光景が勘違いではなかったことを知る。
 木製の重厚な机を挟んだ向こう側で革張りの椅子に腰掛けて、怪訝な表情を浮かべている人物は紛れもなく、自分の上司であるJR東海主幹だ。
 しかし、その姿は俺の中のどの記憶にもなかった。
「あんた、髪、切ったのか……?」
「ええ、切ったわよ」
 東海が顔横の髪を手の甲で払うように触る。自分とは真逆の黒色をした髪の毛先がさらりと揺れて、止まった。
 驚いた。この三十年間、一度も短髪にはしなかったのに……突然なぜ? 何か、あったのだろうか。
 出会ったときから今まで、背中まである髪を下ろした、もしくは結っている彼女しか見たことがないせいか、毛先が肩より上で揃えられている姿は新鮮さよりも違和感のほうを強く覚える。
「どうして、切ったんだ……?」
 尋ねずにはいられなかった。
「あら、貴方はこの髪形が気にくわないの?」
「いいや……」
「否定のわりには眉間に皺が寄ってるわよ」
 東海の言葉に思わず、額の中央に触れようとした。途中で気づいて止め、俺は行き場のなくなった手で無意味に自分の髪を触った。
 愉快げな声音が耳に響いてくる。
「貴方のそんな反応が見られるなんて、ばっさり切った甲斐があったわね」
 俺は手を下ろして、東海をまっすぐに見据え直した。
「そんな顔しなくても、たいした理由じゃないわよ。リニア中央新幹線の工事が始まったから、経費削減のためにね。やっぱり短いと、諸々のことが少なくて済んでいいわぁ」
 経費削減? 本当に?
 いや、でも、彼女のことだから、本気でそう考えてもおかしくはない、が……。
 渦巻く疑念が返事を邪魔する。
 きっと、俺の顔はさらに彼女を喜ばせることになっているのだろう。
 そう察しても、返す言葉は決まらない。
 結局、たっぷり二呼吸分の沈黙が流れた。
「冗談よ」
 東海が黒茶の瞳で俺をとらえたまま、自身の髪の毛先をつまんで、放す。
「リニアが着工して忙しくなってきたからなのと、三十年という節目の気分転換にね。まぁ、ここまで短いと整えるのが楽で気に入ったのは本当のことよ」
「それが、理由なのか?」
「そうよ。あら、貴方、いつの間にそんなにセンチメンタルになったの?」
 東海の微笑の表情も声の調子も、最初の答えから変わってない。けれど、あの理由は嘘ではないのだろう。
 俺はようやく納得したが、安堵も喜びもわいてこなかった。
 かわりにこみ上げてくる思いが一つ。
 ――東海は、絶対、こっちの気持ちをわかりながらからかってきた。
 この場から立ち去ってやりたい衝動に駆られる。
「それはそうと、東海道新幹線」
 あと数秒で危うく、足の先を扉のほうに向けるところだった。
 俺は瞬いて、下方にそれかけていた意識を正面に戻した。
「なんだよ」
「貴方をここに呼んだ用件についてよ」
 髪形に気をとられてすっかり忘れていた。東京にいたところを急に名古屋に呼び出されたのだった。
 ここに来た目的を思い出して、俺は姿勢を正す。
 雑談に時間を割いていたから緊急性は高くないのだろうが、油断しているとショックを見舞ってくるのが彼女の性格だ。
 東海は机の引き出しを開け、そこから小さく真っ黒な箱を取り出して机上に置いた。
「はい。JR東海三十周年記念のバッジができたから、貴方もつけなさい」
 バッジ。東海道新幹線開業五十周年や名古屋駅開業百三十周年でつけたようなやつか。最近好きだな。
 緊急事態ではないことに内心で安心しながら俺は机に歩み寄って、手のひらにすっぽりおさまる大きさの箱を手に取った。
 片開きのふたを開けると、一面の黒の中に濃い青色をした楕円形が一つ横たわっている。電灯の光をきらりと反射するそれには大きく『30』の白文字と、見覚えのある複数の車両の絵が白地をベースに描かれている。
 んん? あれ、これは……。
「なかなか良い出来でしょう。わが社の誇る三世代鉄道を表したロゴマークよ」
 東海が嬉々として説明する。
 俺は彼女のように上機嫌にはなれなかった。
 手元のバッジを凝視する。
 三世代鉄道。初めて聞いたその言葉の通り、描かれている車両は三種類。一番下から、オレンジ色の一本線の入った在来線、その上に青色の一本線の入った新幹線、そして、さらに上には同じく青の線で、他よりも先端が細長い形状をした車両がある。馴染みは薄いが見覚えはある。
 これは、どう見ても、リニア中央新幹線だ。
 ――描くの、早すぎるだろ。
 自社が社運をかける勢いでリニアに力を注いでいることは知っている。しかし、まだ開業まで十年もあるんだ。予定通りに進めば、リニアの開業はJR設立四十周年と重なるんだからそのときに描けばいいのに……。
 そんなツッコミがわき上がってきたが、俺は声には出せなかった。
 顔を上げる。
「着用期間は、四月一日から八月三十一日までよ。その間は忘れずに制服につけておきなさい」
 東海のそれは、いつもと変わらない物言い。だが、声は幾分か鋭さが緩み、弾むような明るさも感じられた。表情は凛々しいというよりかは、穏やかな印象を強めに受ける。
 珍しい。こんな様子の彼女は、三十年もの付き合いになるがほとんど見たことがない。
 新幹線保有機構が解体されたときと、東海道新幹線の種別にのぞみができたとき以来、か……。
 いや。
 二十年以上も前のことが脳裏を過って、俺は眼前の現在とは少し違うことに気がついた。
 あのときもたしかに嬉しそうではあったが、強敵に挑むかのような張りつめた気配も含んでいた。
 今は、それがない。嬉しそうで、また楽しそうでもある。
 ――こんな顔もするんだな。
 珍しい、ではなく、初めて目にした気がする。
 新しい一面を発見してこみ上げてくるものがあったが、俺は彼女に悟られないようにそれをぐっと内側に留めた。
 知られたら……たぶん、面倒くさいことになるからだ。
 俺はバッジの入った箱のふたを閉じた。
 そして、いつも通りに尋ねる。
「バッジの件はわかった。用件はそれだけか?」
「あとは、春の臨時列車のことよ。今年はこれまでよりも多くの本数を走らせるから、よろしくね」
「のぞみ十本ダイヤか……」
「沢山走らせてもらえて、鉄路を走る者の冥利に尽きるでしょ?」
「……そうだな」
 俺はため息混じりの返事をする。
 けれど、彼女の言葉の通り、悪い気はしなかった。