終わりと始まり


 ホームから駅の構内に入れば、昼間とは違った賑やかさに意識がやわらかく包まれた。
 どこか夢うつつの空気が横たわるそこを見渡せば、自分と同じ列車から降りてきた者、これから列車に乗る者、夜行列車を待つ者。老若男女、様々な人間の姿がある。
 まだ業務は終わってないが、一日の境を感じるこの光景を目にするとほっとする。
 とくに、周囲の環境がごたごたしている現在は。自分が今いる組織が、国から、民から、内外であれこれと言われているが、鉄道という己の存在意義は失われてないことが実感できて、強い安堵を覚えた。
 ポケットから懐中時計を取り出して現時刻を見る。
 ……ちょうどよさそうだ。もう一人の東海道の頑張り屋さんを労いに行くとするか。
 風呂敷包みが手にあることを確認してから、駅員に挨拶をして改札を出た。出口とは別の通路を進んでいく。
 この時間は、人波という言葉を具現したようにごった返す光景が嘘のように人影はまばらだ。
 そんな中、曲がり角の向こうから現れた、長い黒髪を揺らしながら歩くスーツ姿の女性が目についた。
 周囲の他の人間とは一線を画した、冬の早朝のような冷たさを感じる凛とした気配をまとうその人物には、たしかな見覚えがあった。
 足の速度を落とす。こちらのほうへやってくる相手がそのまま通り過ぎるのなら、それでもよかった。
 しかし、肩が横に並ぶよりも早くに、茶色を帯びた黒の瞳がまっすぐに自分をとらえてきた。
 見つめ返して、足を止める。
 女性も二歩ほど距離を置いて立ち止まった。
「東海道本線、こんばんは」
「こんばんは、JR東海殿。こんな夜遅くまでもう仕事をしとるのか? 大変じゃのう」
 発した言葉以外の他意はなかったが、相手はそうとは思わなかったらしい。強い眼光の瞳をさらに鋭く光らせて言い返してきた。
「当然でしょう。民営化はゴールではなくスタートよ。これからのために、私がやるべきことは山ほどあるわ」
「頼もしいのう。じゃが、今後のわしらにとっては大切な身じゃ。無理をするではないぞ」
「……貴方もね」
 四月からJR東海となる彼女はありありと不満げな表情を浮かべたが、それ以上の応酬はしてこなかった。
「それじゃあ」
 その一言を最後にさっさと歩き出して横を通り過ぎていく。こちらを一瞥もくれなかった。
 毅然と歩き続けるその背中に、思わず笑みがこぼれてくる。
 まだまだ若いのに、いい気迫の持ち主だ。
 あらためて彼女に期待を覚え、自分も歩みを再開した。
 人の数はさらに減っていき、目的の場所に着いた頃には周囲はすっかりがらんとしている。
 ――今日の新幹線の運行は、無事に終わったようだな。
 内心で密かにほっとして、まだ人の気配の残る改札の窓口へ歩み寄った。
「お疲れさま。シンの奴はまだおるかのう?」
 中にいた見知った駅員にシン――東海道新幹線のことを尋ねれば、駅員は掲示板のある壁のほうをちらと見やってからうなずいた。
「改札内にいると思います。入りますか?」
「ああ。ありがとう」
 足を踏み入れた改札内も乗客の姿はとうになく、静けさに包まれている。
 さて、あいつは何番ホームにいるだろうか。
 半ばより前で一旦立ち止まって、ホームに続く階段を手前から順に見ながら考える。
 カツ、カツ、カツ。
 最奥までやった視線を一番近くの階段に戻したとき、硬い靴音が上のほうから聞こえてきた。
 下りてくる。
 察してその場で待っていると、中間の階段から自分と同じ黒色の制服を着た男が一人現れた。
 一目で間違いなく、探している人物だとわかった。
 人混みだろうとそうでなかろうと、やはりあの白く長い髪には目を引かれる。
 ……うん?
「シン」
 呼びかければ、通路に下りたシンはこちらに気づいて眉を寄せた。振り向く動きで背中の白髪が揺れる。
「またあんたか」
 鬱陶しげな声を出しているくせに、シンはちゃんと自分のそばまで歩いてきて止まった。
 近くに来ると、発見した異変が見間違いではないことがわかった。
「……なんだよ」
 シンの怪訝に、自分も不思議に思ったことを問いとして返す。
「おぬし、いつから普段も髪を結うようになった?」
「あ……」
 目を見張り小さく声を上げたシンが自身の髪を後ろ手で触って、たちまち渋面を作った。
 普段、シンの髪は背中に流された状態にされている。結ぶのは式典とかお偉いさんと会うときとか、そういった限られた場面だけだ。結ったほうが見栄えがいいし風が強いときでも楽なのにそれをしないのは、シン曰く、面倒臭いから、だそうだ。
 もっともそこには他に、周囲と容易く迎合したくない意思も込められているのだろう。髪を、国の路線の証である銅色から白色に変えてしまったように。
 今、首のあたりで一本に結んでいる髪型は、顔や肩にかかる量が減った分だけ相手が本来もつ快活さが表れていて好印象だ。
「すっきりとしていいのう」
「……俺が好きでしたんじゃない。あいつ……JR東海が、勝手にしたんだ」
「ほう」
 言い辛そうに発せられた言葉に、通路で会った彼女のことが脳裏を過ぎった。
 なるほど。思っていた以上にやり手だな。
「っ……、それで、ジジイは何の用なんだよ!」
 記憶の中の彼女に感心していると、正面に立つシンは顔をみるみる赤くして声を荒くした。
 どうやらこれ以上はこの話題は避けたほうが無難のようだ。自分とはともかく、彼女とシンの仲が悪くなっては困る。
 少し名残惜しかったが、当初の目的を告げることにした。
「めしを一緒にどうかと思ってのう」
「別に、めしぐらい、一人で食うからいい」
「そうか? 残念じゃのう。すき焼きの材料を沢山もらったんじゃが……わし一人で食べきれるかのう」
 手に提げる風呂敷包みに一度目をやって、首を傾げる。
 シンは怒りの面持ちのままで黙って動かなかったが、やがて一回軽く息を吐いた。
「……しょうがねぇな。そういうことなら、もったいないから、一緒に食ってやるよ」
 しかし言葉とは裏腹に、その表情と声色は若干明るくなっていた。
 相変わらず素直じゃないな。まあ、そこが彼の微笑ましいところなんだが。
「ありがたいのう。それじゃあ、わしは一足先に在来線の路線事務室のほうに行っておる」
「わかった。今日の書類を出し終えたらすぐ行く」
 シンの返事を聞いて、新幹線改札をあとにした。


 東京駅にある路線擬人の事務室は、その人数の多さもあって他の駅とは異なり、人間の職員とは別に用意されている。早朝から深夜まで運行する者が多いため、自炊できるようにと台所の一室も併設されている。
 台所の部屋は三人も入れば身動きが取りづらくなる広さだが、加熱器具の他に冷蔵庫や食卓など食材以外の食事に必要なものは全て揃っており、実際のところ社宅の自室の備え付けの台所よりも使う頻度は多い。
 風呂敷包みから取り出した肉や野菜などの具材を切り終えて、割り下を作り終えたが、シンはまだ来ない。
 手持ちの懐中時計で時間を見ると、あと十分以上はかかりそうに思えた。
 さて、どうするか。
 先に作っておくか……しかし、火を通しすぎると肉が硬くなってしまうし、ご飯の代わりのうどんは伸びてしまうだろう。
 ここで一旦調理を止めて、シンが来るまでの間、机仕事をすることにした。
 台所から事務室に移って、自席に座って業務日報にペンを走らせる。
 時計の秒針と、紙の上でペンが動く物音ばかりが淡々と室内に鳴る。
 今夜は他の路線達は出払っているようで、ここには自分しかいない。皆、迫る民営化の影響を受けて、業務が立て込んでいるのだろう。自分も管轄が分かれるとあって、やることが増えている。
 机にペンを置いて、書き終わった業務日報を見下ろした。
 今でも区間に分けて書いてはいるが、民営化後にはこれが三社に分かれるのか。なんだかもっと面倒になりそうだな。
 思い至った煩わしさに少し疲労感を覚えたとき、外から扉がノックされた。
「開いておるぞ」
「お疲れさま」
 応えれば、扉が開き、鞄を手にしたシンが入ってきた。
 仕事が終わったからか、残念なことに結んでいた髪は解いてしまったようだ。
「少し待っておれ。今から作る」
 机仕事を止めて席から腰を上げながらそう言うと、シンは唇の端を下に曲げた。
「先に食ってても良かったんだぞ」
「お主と久しぶりの一緒の食事じゃ。最初からでないとわしが嫌でのう」
 シンが微かに頬を膨らませ、視線を台所のほうに移す。
「……腹減ったから早く」
「ああ。鞄はその辺に置いて待っておれ」
 もう一度言って台所に向かうと、二歩ほどの距離を空けてシンもついてきた。
 手を洗って、すき焼きの調理を再開する。
 鉄製の丸い鍋を熱し、牛脂を鍋全体になじませてから、長ネギと牛肉を軽く焼く。香ばしいかおりがしてきたところで割り下を回しかけると、音と煙がわき立って、たちまち食欲をそそるかおりに変化した。うどん以外の具材も鍋に入れて、火が通るまでしばらく煮込むことにする。
 背後で、かちゃかちゃ、という物音が聞こえてきた。振り向けば、シンが棚から食器を出しているところだった。
 茶碗に手をかけたシンと目が合う。
「ご飯は?」
「すまんが、うどんでもいいかのう」
 シンはうなずいて、茶碗を取り出すことはせずに棚の戸を閉めた。
 すき焼きの鍋に向き直る。ぐつぐつと煮え立つ鍋の中で焼き豆腐をひっくり返す。全体的に具が割り下の色を帯びてきたところで、うどんを入れた。
 ……そろそろか。
 一分ほど待ってから、鍋の火を切った。
「できたぞ」
「ん」
 シンが二つの椀を持ってこちらにきた。
 渡された椀には、ちゃんと卵が溶いてある。食卓の上に目をやれば、箸とコップに注がれた水があった。
 どことなく真剣な面持ちをして鍋から具をよそうシンを見て、本当にもったいないと感じた。
 もっと、こういうところを周囲に見せればいいのに。そうすれば、生意気だと陰口を叩かれることも、距離を置かれることもないだろうに。
 シンが振り向いて、視線で鍋を指し示す。
「ジジイ、いいぞ」
「ああ」
 だが、自尊心の高いシンのことだ。ああ言っても無駄だろう。
 考えは内側にしまっておき、自分もすき焼きを椀によそった。
 二人で食卓について、手をあわせる。
「「いただきます」」
 食卓を挟んで向こう側に座るシンが、卵を絡めた長ネギを食べる。続いて牛肉を、椎茸を。
 にこりともしなければ感想も言わないが、食べ続けていることから口にあったのだとわかる。
 自分も焼き豆腐を口に運んだ。やわらかく温かな食感。卵のまろやかさが広がったあとに、ほんのり甘みのついたしょうゆとみりんの香ばしい味が広がる。
 うん、上出来だ。いつも通りの味にほっとする。
「……おかわり、まだしていいか?」
 自分が二杯目を食べ始めたとき、シンが早くも三杯目のおかわりに立つ。
「ああ、好きなだけ食え。しかし、シン、ちゃんと噛んで、肉も野菜も偏らぬように食べるんじゃぞ」
「わかってる」
 むっとした調子で返事をして、よそい終えたシンは椅子に戻りまた黙々とすき焼きを食べていたが、ふいに箸を止めた。
 手元の椀からこちらに視線が上がる。
「……なぁ。あんた、JR東海の奴に会ったことあるか?」
「あるぞ」
「どう思った?」
「まず、女性の営む者だということに驚いた。勝ち気な性格のようじゃが、物事を冷静にとらえる思考をもっておる。悪くはないのう」
「ふぅん」
 聞いてきた割には気の抜けたような返事だった。
「なんじゃ、彼女と何かあったのか?」
「べつに……ただ、国鉄とは違うなって、思っただけだ」
 歯切れ悪く言ってすぐ、シンは口を塞ぐように長ネギを放り込む。もうこれ以上は話したくなさそうだ。
「そうか。まぁ、わしらと同じく、営む者にも色々いるからのう」
 牛肉を噛んで飲み込む。
 JR東海のことを浮かべていた頭の中に、ふと、明るい茶色の髪をした男の顔が割り込むように浮かんできた。
 ――そういえば、彼とは最近会ってないが、まだ元気だろうか。
 考えているうちに、おかわりをしたうどんの最後の一本をすすり終えた。
 天候もよく、今夜の運行は安定している。
 すぐに持ち場に戻らなくても大丈夫だろう。
 少し迷ったが、椀と箸を置いて、コップの水を飲み干した。
 もぐもぐと咀嚼しているシンを見る。
「シン、残りは全部食べてよいぞ」
「もういいのか? 相変わらず小食だな」
「空腹感がなくなれば、それで満足じゃ」
「……じゃあ、片づけは俺がしておくよ」
「ほー、やっぱりいい子じゃのう、シンは」
「うるせぇ! さっさと残りの仕事をしてこいよ、ジジイ」
「ああ。ごちそうさま」
 ほのかに赤みの増した顔をそらしたシンに含み笑いをしつつ、椅子から立ち上がった。


 進む廊下は、東京駅のとき以上に静寂に満ちていた。
 それは、時間のせいか。それとも、彼の終わりの日が近づいているせいか。
 つい考えてしまって気分が重くなる。
 ため息を吐いて、前方に現れた扉に視線を定めた。
 シンとの夕食を切り上げてやってきたここは、自分が今いるべきところではない。堪えられずに来てしまった。
 あの部屋にいる人物は、仕事ではなく私情からの来訪にたいして、きっと不愉快そうな顔をするのだろう。
 わかっている。何をしているんだと頭の隅で自分自身に呆れるが、引き返そうとは思えない。
 葛藤を抱えたまま歩き続け、ついに扉に手が届くところまで来てしまった。
 立ち止まり、扉につけられた何も書かれてない標識を見つめる。
 ……仕方ない。だって、心配なのだから。
 深い呼吸を一回。
 右手でノックをした。
「東海道本線です」
 数秒の間を置き、部屋のほうから低い声が返ってきた。
「入れ」
「失礼します」
 室内に入り、扉を閉める。
「何の用だ」
 すぐに、扉越しよりも鋭さを感じる声音が飛んできた。
 それ以上歩みを進めずに、顔をまっすぐ部屋の奥に向ける。
 机を挟んで椅子に腰掛けている一人の男と視線が交わった。
 銅色と言われる自分のものとは違う、はっきりとした茶色の髪と切れ長の目。こざっぱりとした髪型は精悍な面構えを引き立てて、金の記章の輝く黒色の制服が、見る者へ与える威圧感を増幅させている。
「東海道本線」
 聞き慣れた声が耳を打つ。
 やっぱり、歓迎されてないな。
 だから、偽ることをせずに素直に答えることにした。
「あなたのことが心配で来ました、国鉄」
「お前に心配されることは何もない」
 斬り伏せるような口調、射抜くような眼光。
 ――彼は、まだ大丈夫だ。
 ほとんどの擬人や人間が心身を強張らせる、相手のいつもの様子に安心した。
 同時に、物寂しい気持ちがこみ上げてきた。
「今ぐらい、心配させてください」
「………」
 国鉄から返事はない。その表情からは考えが読み取れない。
 たぶん、突き放すように、仕事場へ戻れ、と言われて追い返されるのだろう。
 これまでの彼との付き合いからそう予想していたが、国鉄は小さくため息を吐いた。
「馬鹿なことを。今、私の心配をしたところで、何になるというんだ」
 意外な反応だった。いつでも毅然とした態度の国鉄が、妙に弱々しく映った。
 胸がぎゅっと締め付けられる。
 ――どうして、なんで。
 自分の前を歩く、大きな背中を思い出す。
 鉄道とは何たるかを教え、導いてくれた。これまで共に日本の鉄道を支えてきた。
 その彼が、あと二ヶ月ほどでいなくなる。
「……あなたは、これでよかったのですか。日本に鉄道を生み出したあなたが、ここで終わることを受け入れるのですか。悔しくは、ないのですか」
 民営化が決定した日から抱いていた疑問が口からこぼれ出ていた。
 自分の抑えきれなかった感情に気づいたが、今さら前言撤回をしようとは思えなかった。震え出しそうになる手を握りしめて、目を離さずに言葉を待つ。
 数秒の沈黙のあと、国鉄が微かに口角を上げた。
「驚いたな。お前がそんな愚問を言うとは。良いも悪いもない。全ては、人間が決めたことだ。私は必要だから生まれ、不要になったから消える。己の定めを悔しいなどと思うわけがないだろう。それに、」
 彼が口元の笑みを広げる。
「私が終わっても、私が築き上げたものはなくならない。だから、東海道本線。私の有無は関係なく、お前はこれまでのように、これからもこの国の鉄道でいろ」
「っ……」
 こちらをとらえる瞳にも、放たれた言葉にも、一切の澱みはない。
 心臓が、まるで初めて自分の鉄路を目にしたときのように熱く大きく脈打ち出す。
 体の奥から力がわいてくる。
 握り拳をゆっくりと開く。
 ……ずるい。
「あなたにそんなことを言われたら、俺が言えることは一つしかなくなるじゃないですか」
「わかっているなら、行け。その目に私ではなく、己が走る道を映せ」
 背筋を伸ばして姿勢を正す。
 もしかしたら、彼に面と向かって言えるのはこれが最後になるかもしれない。
 だから、わき上がる想いを全て、言葉にこめた。
「はい、行ってきます」