豊川の思い出
電車から降り立った豊川駅は、ホームも構内も外に繋がる幅広の階段も空いた空間ばかりが目立ち、物寂しさが漂っている。だが、人の少なさにおれが感じるのは別のものだ。
――今年も、初詣の参拝輸送を無事に終えられた。
新年の賑わいが落ち着き、いつもの景色に戻った駅を目にしてそう実感し、ほっとした。
勢いよく階段を降りていく地元の中学生らしき子供の姿を見るともなしに視界に入れながら、ゆっくりと足を下へと進めていく。
「飯田線! お久しぶりです」
最後の段を降りた直後、おれを呼ぶ声が聞こえてきた。
立ち止まって周囲に視線をやると、鉄道員の制服を着た男が一人、足早に近寄ってくるのに気づいた。
自分の着ているものとは違う濃紺色の制服に、その左胸にあるMの形を模した刺繍と黄色いきつねのキャラクターのバッジ。こざっぱりとした短い黒髪に同色の瞳はたれ目がちのためか、暗い顔立ちではないのにどことなく気弱な印象を受ける。
彼は、名鉄豊川線だ。名前の通り愛知県の豊川市方面を走る名鉄の路線で、ちょうどおれの豊川駅の隣に駅舎をかまえている。
正面で足を止めた豊川線におれは挨拶をする。
「豊川線、久しぶり。新年明けましておめでとう」
「あ、こちらこそ、明けましておめでとうございます。あの、飯田線、今からお時間ありますか……?」
「? 大丈夫だ」
やけに控えめに尋ねてくる豊川線を少し不思議に思いながらうなずく。
すると、豊川線は強張り気味だった表情を緩めた。
「よかった。なら……」
が、すぐに顔色を悪いほうへと変えて焦った様子で辺りを見回し始めた。
理由をおれはすぐに悟って、言ってやる。
「メイなら、おれがここに来る三十分前に本線西に呼ばれて金山のほうへ行ったぞ」
「そうですか……よかったぁ」
片手で胸を押さえ、明らかな安堵を示す。
おれは相変わらずの二人の関係を間接的に目の当たりにして、胸中でため息を吐いた。
メイ、もとい、名古屋本線の東側と豊川線は仲が良くない。というか、メイのほうが一方的に豊川線に対して態度がよくない。その理由はおれに関係していて、とくにおれと豊川線が一緒にいるだけでメイの奴は機嫌を損ねるのだ。
豊川線も自分には非がないのだから、もう少し強く出ればいいのに、性格のためか、相手が自社の本線とあってか、いつも恐縮している。
本当……おれとメイの直通がなくなったのは豊川線のせいじゃないのにな。何度言ってもメイは聞き入れようとしない。まったく、困った奴だ。
「で、何か用か?」
「あ、はい。ちょっと見ていただきたいものがありまして……立ち話もなんですから、お店に入りませんか?」
「ああ」
歩き出した豊川線のあとについていく。駅前から豊川稲荷の参道へ。道に面した『珈琲』と書かれた立看板のある店の扉を開けば、チリンチリンという軽いベルの音が鳴る。入ったのは、昔ながらの喫茶店だ。
間接照明が主の少し暗めの店内は、木造が懐かしい雰囲気をかもしだしている。奥行きのある空間には、厨房のほうを向いたカウンター席と、ソファー席が六つ。豊川線とおれは奥のほうの窓際にあるソファー席に、四角いテーブルを挟んで向かい合って座った。
店員にホットコーヒーを二つ注文したあと、十秒ほどの間を置いてから、豊川線はかばんから茶封筒を取り出した。
「これを飯田線に見てもらいたいんです」
そう言って茶封筒をテーブルに置いておれに差し出す。
なんだろう。茶封筒には何も書かれていない。
尋ねるように豊川線を見るが、まっすぐな黒色の視線が返ってくるだけだ。
おれは茶封筒を手に取った。封のされていない口から中を見ると一枚、何か入っている。取り出してみると、それは白黒の写真が印刷された絵葉書だった。
「これ……」
おれは反射的に口を開いたが、それ以上は何も言葉が出てこなかった。
絵葉書から目が離せない。
全体的に経年劣化によるくすみを帯びているが、印刷されているものは見間違えようもなかった。
湾曲した形が印象的な三階建てのコンクリート造りの建物。それは、昔の豊川駅だ。しかも、建物の前にある『豊鉄デパート』という立看板からこの豊川駅は、まだ自分が飯田線となる前のものだということが知れた。
――豊川鉄道時代の豊川駅。
懐かしい。二代目の駅舎であるこの駅は、二十年以上前に老朽化を原因に建て替えられた。
まさか、今になって、この建物を目にするなんて。
「……やっぱり、それは、飯田線の昔の駅ですか?」
豊川線の声に、おれはようやく顔を上げることができた。
すると、目が合った豊川線の表情が曇りを帯びた。どことなく気まずそうに、いつの間にかテーブルに置かれていたコーヒーを飲む。
そんなにあれな顔をしているのだろうか……。おれは返答の前に自分もコーヒーを口にした。
広がるほどよい苦味に、喉を通っていく温かさ。コーヒーカップを置いて小さく一息吐く。肩から上の筋肉がほぐれていく感じがする。どうやら、気づかないうちに緊張してしまっていたようだ。
瞬きを一回挟んで、下げていた視線を再び豊川線に向けた。
「そうだ。この豊川駅は、おれが豊川鉄道のときに建てられたものだ。……これをどこで?」
「年末に、本社の資料室の掃除を手伝っているときに見つけました」
「そうか……」
言われて、豊川鉄道は書類上は名鉄に吸収合併されたことを思い出した。線路や車両や運行設備、そしておれは国鉄に所属となったが、豊川鉄道の歴史は名鉄に引き継がれた。姉妹会社の鳳来寺鉄道とともに。
……国鉄に抜殻を放られるような形だったのに、資料はちゃんと保存してあったんだな、と妙な感慨を覚えてしまう。
おれは三秒ほどあらためて絵葉書を見つめたあと、茶封筒に戻した。
豊川線に差し出す。
「久しぶりに懐かしいものが見れた。ありがとう」
「飯田線に差し上げます」
封筒に手を出さずに豊川線はまっすぐおれを見て言った。
「それは、あなたの大切な思い出でしょう。あなたが持っていてください」
驚き、返事に迷うおれに真摯な言葉が重ねられる。自分を映すその瞳に揺るぎはない。
……大切な思い出、か。そうだな……。
おれは少し考えてから、茶封筒をテーブルの上に置き、名残惜しさを感じながらも手を離した。
「飯田線?」
「気持ちだけ受け取っておく。これはおまえが持っていてくれ、豊川線」
「えっ、どうしてですか」
目を丸くする豊川線に、おれは私鉄最後の日のことを思い返しながら返答する。
「飯田線になるときに誓ったんだ。いなくなる者達の分の希望や無念を背負って、これからの鉄路を走り続けるって。だから、それは必要ない。おれの代わりに、同じ豊川稲荷への参拝路線であるおまえに持っていてほしい」
「………」
豊川線がおれを見、茶封筒を見、再びおれをとらえる。
彼から向けられるのは、怪訝と戸惑いだ。
おれはあれ以上は何も言うことなく、ただ視線だけを返した。
口にした言葉に嘘はない。たしかに、過去は、思い出は大切だ。豊川鉄道として生まれたことは、今でも幸せなことだと思っている。だが、自分の今は、伊那電気鉄道と三信鉄道の死の上に成り立っているようなものだ。鉄路を走れなくなった彼らのためにも、過去を引きずりたくない……引きずったら、失礼な気がしてならないのだ。
「……わかりました」
一分ほどの沈黙の末、豊川線が茶封筒を手にしてかばんにしまう。
「気を遣わせて悪かったな」
「いいえ、こちらこそ、お節介をすみません」
豊川線が首を左右に大きく振る。
どこまでも気の良い相手におれは口元で微笑して、コーヒーを飲んだ。
ふと、一つの疑問がわいてきた。
「……豊川線、どうして、その絵葉書をおれにくれようとしたんだ?」
これまでこういうことは一度もなかった。
おれの問いに、豊川線はどこか警戒するように視線を店内へやってから、少し声量は小さくして答えた。
「この前、名古屋本線の伊奈~豊橋駅間の開通記念展示がありましたよね。それに使う写真で本線東が豊川鉄道の写真を多く使おうとして、名鉄長と言い争いをしていたのを見かけて……気になってしまって」
原因は、メイか。
名鉄長とは、ほとんど会ったことはないが、おれ達でいうところの東海主幹に位置する営む者だ。
……そんなことで上司とけんかするって……あの馬鹿は、本当にどうしようもないな。
自分が何かしたわけではないが自分が関係していることはたしかなので、申し訳なさを感じる。
「メイの奴がいつもすまない」
「謝らないでください。……本線東と飯田線、お二人の関係はぼくからすると、すごくうらやましいんです」
後半になるほど恥ずかしそうに頬を赤くして、言い終えるや豊川線はおれから目線を外してコーヒーを口に運ぶ。
――本当にいいこだな。
相手の様子におれはつい庇護欲を覚えてしまった。
「豊川線。おれに関したメイの奴の言い分はあいつのわがままだから、気にするな。もっと言い返してやっていいから」
「ありがとうございます……頑張ります」
いまいち頼りない笑顔の返事に、不思議な懐かしさを覚えた。
――それは、昔の自分か、今はなき者達か。
おれは彼が自分のような痛みを感じることなく、これからも走り続けられるのを胸の内で密かに祈った。
◇
視線の先で、オレンジ色を帯びた電車がゆっくりと発車する。徐々に速度を上げていき、二両の車両は視界から消え去った。物音と人気のなくなったホームには静けさだけが残る。
それはいつもの景色なのに、無性に寂しく感じるのはなぜだろう。
ぼくは、隣接するJR豊川駅から手元へ目を動かした。
旧豊川駅が印刷された絵葉書。飯田線に渡すはずが、自分の手の中にあることになった。
……本当に、これはぼくが持っていていいのだろうか。
喫茶店での飯田線との会話を思い返す。
絵葉書を見る飯田線の顔は、悲しい色をして強張っていた。それは、この絵葉書に写るものが彼にとって重要なものだということを無言で語っていた。
だが、絵葉書を渡そうとしたら、飯田線は今の自分には必要ないと、ぼくに持っていてほしいと言った。そのときの顔は、悲しみは完全に消えてなかったが少し柔らかくなり、絵葉書に初めて目を落としたときよりも落ち着いているようだった。
……そう見えたが、本当に大丈夫なのか。なぜ、ぼくになのだろうか。
飯田線とは知り合って何十年も経つが、たまに食事をしたり話をしたりするぐらいで、親しい仲とは言い難い。
……きっと、彼の言葉の真意は、本線東ならわかるんだろうな……。
「――なーに見てるの?」
「!?」
不意にすぐそばから聞こえてきた声にぼくは驚いて、危うく絵葉書を落としそうになった。
近くにある人の気配に振り返れば、視界に映ったのは赤色のネクタイが印象的な自分と同じ濃紺色の制服に、右側に結って胸の前に流している黒髪。
見間違えようもなく、そこに立っているのは名古屋本線の一人。
「ほ、本線東……」
「あっ、豊川ちゃん時代の豊川駅だー!」
気づけば、絵葉書は自分の手から本線東の手に奪い取られていた。
「わあ、懐かしい。ここ、デパートで、映画館も入ってたんだよ。豊川鉄道時代の飯田ちゃんとここでデートしたことがあってね、あれは楽しかったなー!」
本線東が絵葉書を見ながらはしゃぐように笑顔で言う。
それにぼくは相槌を打つべきか、悩んでいると本線東の両目が絵葉書から自分のほうを向いた。
「で、なんでこれを君が持っているの? 豊川」
「……えっと、」
笑顔から一転、というわけでもないのに、感じる圧がすごい。
ぼくは答えないわけにはいかず、絵葉書のことと先ほどの飯田線とのことを包み隠さずに話した。
「ふーん」
怒られるかと思った。しかし、本線東は話を聞き終えたあとも、おとなしい反応をするだけだ。
それが、逆に怖い。いつもと違う。いつもなら、飯田線と会ったというだけで睨まれるなり文句を言われたりするのに。
何事もないことが全く安心できずに、呼吸をひそめて姿勢を正して先を待つ。
けれど、本線東はぼくから視線を外すと、絵葉書を黙ってじっと見つめている。その顔には最初のような楽しげな笑みはなく、どことなく真剣なものを感じた。
そのまま周囲の時間だけが進んでいく。
本線東の後ろの線路に停車していた赤色の電車が、彼の線路のほうに向かって走り出す。重たい走行音が響いても、風に髪が揺れても、黒の眼は一点をとらえて動かない。ホームにすっかり静けさが戻ってきたあとも変わらない。
どこまで続くかわからない沈黙に耐えかねて、ぼくは恐る恐る口を開いた。
「あの、その絵葉書、本線東に差し上げますよ……?」
すると、ようやく変化が訪れた。
本線東が絵葉書から再びぼくのほうを見た。
「これ?」
「はい」
「いいや」
「え……」
絵葉書が自分に差し出される。
「飯田ちゃんが君に持っていてほしいって言ったんでしょ? なら、わたしはいらない」
……飯田線のことを好きな本線東が……いらないって……? ぼくが持っていていいって……? どうして……?
意外な出来事に驚きのあまり、返事も受け取ることもできなくなる。
「ほら、豊川。なに、もしかして君、飯田ちゃんの言うこと聞けないの?」
耳に届く声音が一段、低くなった。肌がざわりと粟立つ感覚がする。
ぼくは慌てて絵葉書に手を伸ばした。
「い、いいえ、大切にします!」
「そうそう。それでいいんだよ。飯田ちゃんがくれたんだから、ちゃんと大切にするんだよ。なくしたり、汚したりしたらわたしが許さないからね」
「はい!」
ぼくの全力の返事に本線東が満足そうな笑みを浮かべる。
「じゃあ……あー、これを渡しにきたんだった。はい、ついでにこれも持っていってよ、豊川」
横を向いた本線東が思い出したようにこちらに向き直って、紙袋を渡してきた。
「毎年恒例の、名岐からの初詣輸送ご苦労様的な労い的なやつだよ。自分で渡せよって感じだよね。なんで毎年、わたしが代わりに持ってこないといけないの?」
「ありがとうございます」
本線西への小言を言いながら改札のほうに歩き出した本線東に頭を下げる。
濃紺色の背中が見えなくなるまで見送ってから、あらためて絵葉書を見た。
豊川鉄道の豊川駅。この駅がどのようにして人々に迎え入れられ、どんな思い出を作ってきたのか、ぼくは知らない。わかっているのは、この駅が豊川鉄道の擬人であった飯田線と、その頃からの知り合いだという本線東にとっては大切なものだということだ。
――そんな豊川駅の絵葉書を託された理由がわかるときがくるだろうか。
思いながらぼくは、絵葉書を丁寧に茶封筒へしまった。