祝、飯田線全通80周年 2
信州デスティネーションキャンペーン――通称、信州DCが始まってから半月。業務は想像した通りの忙しさだ。
おれはミーティングをした部屋に忘れ物をしていないかと鞄を見て、頭の中で指さし確認をしてから、目の前に停車した列車に乗り込んだ。十五分ほどで降りる予定なので、席は空いているが隅に立つ。
土曜日の午後三時過ぎ。乗客の中には、旅行者と思われる姿がちらほらと見える。
キャンペーンはそれなりに効果があるらしい。まだ始まったばかりだが、例年と比べると利用者は多いように感じる。
脳裏に、まだ周辺の道路設備が整っていない頃の車内の光景が過った。
さすがにあそこまでの賑やかさではないが……利用者が増えることはやはり嬉しいものだ。ほっとした気分になる。
しかし、緩んだ気をおれはすぐに引き締め直した。
利用者が多いということは、その分トラブルが起こる可能性が高くなるということだ。
あともう少しで世間は夏休みの期間に入る。臨時列車もまだ走る予定がある。乗客はこの路線を乗り慣れてない人間が大半だろう。また、最近の夏の天候はいきなり荒れることが多い。
この三ヶ月間は、いつも以上に気をつけなければ。
「――まもなく、伊那松島、伊那松島です」
車内アナウンスが停車駅を告げるのを聞いて、おれは扉の前に移動した。
軋みのようなブレーキ音を立てて電車が定位置に停まる。
おれは扉の横にあるボタンを押して扉を開けて降り、外側にあるボタンを押して扉を閉めると、ホームの外に歩き出した。夏の日差しはまだまだ高く、眩しさに目を細める。
……そういえば。あのボタン開閉式の扉は、他所からきた利用者はよく戸惑うみたいだ。ボタンでの開閉については車内のアナウンスや、扉のところに書いてあるのだがわかりにくいのだろうか……。
乗降の改善の必要性について考えながら歩いているうちに、目的地に着いた。
眼前に広がる敷地には、白色の建物の他に線路や架線がある。駅とは異なる広々としたそこは、伊那松島運輸区。飯田線北部の乗務員基地だ。
おれは出入口の門を通り抜け、停留されている車両を横目に、乗務員が詰めている建物に向かった。
「お疲れ様です」
「あっ、飯田線! お疲れさまです」
中に入れば、こちらに気づいた若い男が一人、席を立って近づいてきた。こざっぱりとしたスポーツ刈りに穏やかな顔立ち。藤乗務員だ。
「わざわざ寄ってもらってすみません」
「いや。それで、用件というのは?」
「えっと……とりあえず、そこの椅子に座ってください」
そう言って藤乗務員が示したのは、別の乗務員の席だ。
一応奥のほうに自分用の机も椅子もあるのだが、指定されたのならそこに座らないわけにはいかない。
おれは机上の物に触れないように注意しながら、キャスター付きの椅子に腰を下ろした。手にしていた鞄は机のわきに置いておく。
藤乗務員は一旦自席に引き返すと、ファイルを一冊持って戻ってきた。
「これを」
閉じたままのファイルを渡される。
表紙に中身がわかるようなタイトルなどは書かれてない。厚みも重みもさしてない。
なんだろう。
ちらりと藤乗務員に目をやったが、穏やかにこちらを見ているだけで何も言葉はなかった。
おれは受け取ったファイルを開く。
目の前に現れたものに、思わず声が出そうになった。
落ち着き、一度瞬いて、それを理解しようと開いた一ページ目を凝視する。
『飯田線全通80周年 記念ロゴ&ヘッドマーク』と、一番上に太文字で書かれたA4サイズの紙。そこには一つの円形と二つの四角形があり、その中にカラフルな絵柄が描かれている。それは馴染みのある車両だったり、『80』という数字だったり、見覚えのある四つの社章だったり……。どれも自路線に関係深いものばかりだ。しかも、添えられた文章には、飯田線を担当する社員から候補を募りそこから選出した旨がある。
驚いた。社員達がこんなことをしていたなんて、全く気がつかなかった。
「今日お呼びしたのは、このことを伝えるためです」
藤乗務員の声が聞こえてくる。
視線を上げると、にこやかな笑顔を返された。
「記念ロゴは、伊那松島運輸区のものが選ばれたんですよ。見てください、これ、『0』の部分が、北部の名所のオメガカーブの形になっているんです。面白いでしょう」
紙面にある濃茶色の円いロゴを指して嬉々としながら話す相手の様子に、おれは自分の頬が緩んでいくのを感じた。
「ええ、素敵です。ありがとうございます」
なぜか、藤乗務員がほんの一瞬だけ目を見開いた。
「良かったぁ。喜んでもらえて」
「?」
見間違いではない。戻った笑顔には前とは異なり、明らかに安堵の色がある。
「あ、すみません」
おれの疑問を感じ取ったのか、藤乗務員は申し訳なさそうに応えた。
「最近、ときどき機嫌が悪そうに線路のほうを見ている姿を見かけたので、内緒でこういうことをして怒られるかもしれないって不安だったんです」
機嫌が悪い……? そうだったか?
思い当たるところがない、ような、あるような……。
「飯田線?」
「いいや。何でもない」
おれは、物思いにふけりそうな意識を払うのも兼ねて頭を左右に軽く振った。
藤乗務員は不思議そうな表情をしていたが、あれ以上はその話題には触れてはこず、顔に微笑みを戻した。
「次のページもぜひ見てください。候補に上がった力作が載っているので」
言われた通り、ファイルのページをめくる。
と、そのとき、どこかで聞いたことのある電子音が室内に響いた。
「すみません。ちょっと失礼します」
藤乗務員はそう断ると小走りで別の席に向かって行った。すぐに、どことなく緊張感を帯びた声が聞こえてくる。どうやら、業務の電話がかかってきたらしい。
おれは再び手元に目を落とした。
見開きとなったファイルには二ページにわたって駅、運輸区、工務区の名称とともに、色とりどりのロゴマークやヘッドマークが並んでいる。もちろん、そのどれもが飯田線という路線を象徴する何かをモチーフとして入れている。
おれは小さく吐息をもらした。
本当に驚きだ。通常の業務をこなしながら作るのは大変だったことだろう。
あらためて強く感謝の念がわいてくる。
しかし、同時に一抹の心苦しさも覚えた。
――これから……鉄路を……ずっと先まで――
彼らとの記憶が奥から滲み出てくる。
過去を乗り越え未来への想いに満ちた笑顔と言葉。
ああ、本来なら自分ではなく、北部を走っていた彼らこそが祝われるべきなのかもしれない。
「……っ」
過去に沈む意識の中で不意に胸の辺りに小刻みな振動を感じて、おれは我に返った。
なんだろうと考え、内ポケットに入れている携帯端末のバイブだと気づいた。
携帯端末を取り出して見れば、画面には『今日中に豊橋へ』という予定の通知が表示されている。
そうだ、もう行かないと。
おれはファイルを閉じて、鞄を持って立ち上がった。
「藤乗務員」
電話を終えて手帳にペンを走らせていた藤乗務員が顔を上げる。
おれはファイルを差し出した。
「そろそろ豊橋のほうに行かないといけないので、お返しします」
「えっ。今から、豊橋駅まで行くんですか?」
「ええ……」
驚いた様子の藤乗務員に、少しばつが悪くなる。
彼の反応は当然だろう。
今から自分の路線を使って豊橋駅まで行くには五時間以上かかる。順調にいっても二十三時近くに着く予定だ。
そんな強行軍のようなことは緊急の用事でない限り、普段はしない。だが、今日だけはどうしても、自分の路線で豊橋駅まで帰りたいのだ。ただ、その理由についてはあまり他人には話したくない。
だから、問いたげな顔の藤乗務員が再び口を開くよりも先におれは言葉を続けた。
「素敵なものを本当にありがとうございました。では、これで失礼します」
「あ、はい。お気をつけて」
ファイルを受け取り席を立っておじぎする藤乗務員に一礼を返してから、おれは運輸区をあとにしてまっすぐ伊那松島駅に戻った。
気がつけば、揺れる車内には自分しかいない。
車窓の景色はすっかり暗くなり、まるで鏡のように自分の顔が見返してくる。しかし、外にあるのはトンネルの中と区別がつかないような暗闇ではない。営みの光が通り過ぎていく。山や草木は減って、建物や車のほうが多く見える。
次の駅が終点の豊橋駅だとアナウンスが入った。
おれは報告書作りに使っていたノートパソコンの電源を切って鞄に戻し、大きく伸びをした。ぱさつくような目を数回瞬きしてから、携帯端末を取り出す。
『2017.07.15』
時間や着信の有無よりも、画面に浮かび上がった日付に真っ先に視線をひきつけられた。
「……あれから、百二十年、か……」
思わず、つぶやいていた。
今年は全通八十周年の年だが、自分が走り出して百二十年目の年でもある。
そう、現在の『飯田線』の前身の一つである豊川鉄道の開業の日だ。
けれど、そのことを知っている者はもうほとんどいない。あの頃のように人間達に祝われることもない。それは、これからもきっと変わらないだろう。
……寂しくはない、と言ったら嘘になる。けれど、仕方のないことだ。
わかっているからこそ、せめて残れることができた自分だけでも、とおれは七月十五日は出来る限り豊橋のほうに帰るようにしている。
電車が速度を落とし始める。定刻通りの到着だ。
おれは、緊急の着信や知らせがないことを確認してから携帯端末をしまって、席を立った。
車内の乗務員と業務のやりとりを少ししてから、おれは豊橋駅の構内にある豊橋運輸区に向かった。
事務所の扉を開けて室内に入る。
「お疲れ様です」
「飯田線さん。お疲れ様です。席のほうにプレゼントが届いてますよ」
女性の乗務員が机越しに言うのを聞いて、自席に行けば、紺色の水玉模様入りの紙袋が机の上に置いてあった。
……毎年、よくもまぁ……。
すっかり見馴れた光景に最早、誰からのものか、なんて疑問にも思わない。
能天気な笑顔のメイが頭に浮かぶ。
持っていた鞄を床に置いて、紙袋のテープで止められた口を開くと、真っ先に一枚のカードが視界に飛び込んできた。
花柄の浮彫加工を施した白地の紙に金色の筆記体で『HappyBirthday』と印字され、ピンクのリボンが付いている。俗に言うバースデーカードだ。紙袋から取り出してひっくり返して裏側を見れば、
『開業120年目の今日に贈ります。これからも、わたしは飯田ちゃんと一緒に走り続けます。名鉄名古屋本線東より』
普段の様子からは想像し難い、流麗な筆跡でそう記されている。
添えられているメッセージは毎年違う。今年のこの一文は……ああ、メイの奴が豊橋のほうにやって来てから九十年が経ったことにかけているのか。まめだな、あいつは本当に……。
おれはカードを鞄の内ポケットにしまい、椅子に腰を下ろした。紙袋を膝上に持ってきてさらに奥を見る。
カードの下には、赤い包装紙に包まれた長方形の箱が一つ。そして、その下には、これまでの洒落たものとは一線を画すレジ袋があった。
赤箱に続いてそのレジ袋を取り出すと、中にはコンビニでよく見かける細長い紙パックの緑茶と烏龍茶が一つずつ入っていた。他には何もない。
……渥美か。
おれはすぐに思い至って、つい口元に苦笑がこぼれた。
同じ紙袋に入っていたが、パック茶の贈り主はメイではない。メイとは容姿も性格も逆の、短髪で真面目な顔をした男のことを思い出す。
――豊橋鉄道渥美線。
豊橋駅の隣にある新豊橋駅にいる私鉄の路線だ。業務上の関わりはないが、彼も昔から豊橋にいるので、それなりに会話とたまに一緒に食事をする間柄である。親しいとまではいかない、同士のような感じだろうか。
そんな彼が、どうしてメイとともに豊川鉄道の開業祝いの贈り物をしてくるのかは、実はいまいちわからない。初めてされたときに尋ねてみたが、「同郷のよしみ、のようなものだ」とだけ真顔で返された。嘘を言ってないと知れるからこそ、謎が深まっただけだった。
メイにも聞いてはみたが、彼にも渥美の真意はわからないらしい。けれど、悪意はないとはわかるから、自分の贈り物と一緒に入れることを許しているのだという。
何であれ、祝いの気持ちは嬉しいものだ。
おれは烏龍茶の紙パックを手に取り、付属のストローをさして一口中身を飲んだ。鼻に抜ける香ばしいかおり、舌に感じる苦み、喉から胃に流れていくお茶の感覚に気分が落ち着く。
一息ついたとき、女性の声が呼びかけてきた。
「飯田線さん。私、少し駅のほうに行ってきます」
「わかりました」
出て行く乗務員を見送って壁にある時計を見上げれば、午後の十一時を数分過ぎたところだった。
おれは懐から手帳を出してクリアポケットに挟んである紙を一枚抜き出した。折り畳まれた白い紙を開くと、そこには豊川鉄道の社章の旗を飾った蒸気機関車の白黒写真が印刷されている。
豊川鉄道開業のときに豊橋駅で撮影されたものだ。
――あの日に見た人々の笑顔、感じた喜びや期待、不安や緊張は今でも忘れられない。
いつもは運行に支障が出ないようにできるだけ意識を遠ざけているが、せめて今日ぐらいはと、おれは自分の門出の日にしばし想いを馳せた。