祝、飯田線全通80周年 4


 科学や技術が進歩発展しようとも、未だにどうにもならないことはある。
「……雨、まだ止みませんね」
 窓辺で藤乗務員がつぶやくように言った。
 運輸区内を眺めることのできる窓のガラスは、今はすっかり水滴にまみれて、薄暗くぼやけた景色が広がっている。外ははっきりと見えないが、建物や地面を細かく叩き続ける物音が強い雨であることを伝えてくる。
「こればかりは、予報を信じて待つしかありません」
 おれは暗い表情の藤乗務員にそう返して、壁際に設置されている大型モニターに視線を移した。
 鉄道の運行には必須の天気の情報が映し出されている。中央には色別で現在の大気の状態を示した東海地方から長野県にかけての地図があり、端には注意報や警報、風速や降水量、今後の天気についての予想などが並んでいる。
 十分置きに自動で更新されていく映像は、少しずつではあるが着実に晴れのほうへと変わってきている。雨雲は、夜には長野県のほうから去るということだった。
「今日中には、記念列車の送り込み回送を終えたいですね」
 おれが目を戻すと、藤乗務員は不安げに微笑み返して自席に戻っていった。
 彼の抱く心配はよくわかる。なのに、あれ以外のことを言えない自分が情けない。
 おれは机の上にある自分のノートパソコンに顔を向けた。
 液晶の画面には現在の飯田線の運行状況が表示されている。愛知県のほうは平常運行しているが、長野県のほうは大雨により運転見合わせ中だ。
 おれはペットボトルから水を飲み、椅子の背もたれにもたれて小さく息を吐いた。
 肩から背中にかけて、疲労とは異なる、のしかかるような重さを感じる。
 ……早く止んでほしい。一秒でも早く、この不快感から解放されたい。
 運行支障が出る度に思うことだが、今回は一段とそう思えてくる。
 今日は、藤乗務員も言っていたが、飯田線全通八十周年のために使う車両を回送しなければならないからだ。予定通りなら、記念列車となる車両は夕方までにはここ伊那松島運輸区に送り込めていた。この分だと、順調にいっても夜になってしまうだろう。そこから、翌朝の運行に向けての準備もしなければいけない。
 昨日までは天気がよかったのに、なんてタイミングが悪いんだ……。
 胸中で愚痴をこぼして、もう一口水を飲む。体内を流れていく涼やかな感覚に気分を落ち着けて、背もたれから身を起こして椅子に座り直した。
 こういうときは、できることを全力でやるしかない。
 おれは自分自身に言い聞かせ、運行再開となったときのためにダイヤと車両の運用の確認と調整を始めた。


 空気はまだ湿り気を帯びていて少し蒸し暑いが、悪い気はしなかった。むしろ、ほっとしていた。
 おれは朝よりも軽くなった足取りで、電灯に照らされて濡れ光る地面の上を歩いていく。
 昼を過ぎてからようやく雨足は弱くなり、予報の通り、夜には嘘のように雨は止んだ。予定より約四時間遅れで、記念列車用の車両の回送を今日のうちに終えることができた。
 もうすっかり夜になってしまったが、明日の運用には間に合うだろう。
 車両停泊用の留置線まで来たとき、回送した車両から一人の人間が出てきた。乗務員のかっちりとした制服とは異なる紺色の作業着。車両の検査員だ。
「飯田線、お疲れさまです。車両に問題はありませんでした」
 検査員から言葉とともに透明なファイルに入った書類を差し出された。おれは受け取って、中身の検査報告書を確認する。
 ……うん。回送時の自分の感覚をそこに加味しても、とくに運行に問題なさそうだ。
「お疲れ様です。ありがとうございました」
「明日明後日の天気は良いそうですよ。では、失礼します」
 会釈をして去っていく検査員から、おれはあらためて記念列車『飯田線80周年アルプス号』となる車両に目をやった。
 ステンレスの銀の車体に描かれた橙色が鮮やかに景色に映えている。辺りが暗くなっているから日中よりもさらにそう見える。
 ……やっぱり、この車両は、自分の路線にはちょっと合わないなぁ。
 おれは思って、苦笑する。
 視線を横にずらして隣に留置している車両と見比べれば、理由は一目瞭然だ。
 どちらも313系という型式でコーポーレートカラーが線模様でデザインされた車両であるが、普段から自分が使用しているものはシンプルな一本線であるのにたいして、記念列車用として送られたものは太さの異なる縞模様になっており、疾走感のあるスタイリッシュな印象を受ける。どこか都会っぽさを感じる車両は、主に山岳地帯を走る自分の路線とはあまり合ってない気がする。
 まぁ、それも当然なのかもしれないが。
「それ、無事に回送できたんだね」
「!」
 突然、後方から聞こえてきた声におれは振り返った。
 自分と同じ橙色のラインが入った制服を身につけ、毛先にいくほど黒よりも銅色に近くなる短髪の男が一人、こちらに向かって歩いてくる。
「お疲れ様、飯田線」
「中央本線……?」
 微笑んで隣までやってきたのは、名古屋から甲信地方を通って新宿までを結ぶ路線の中央本線だ。
 あれ? 今日は、彼と約束していただろうか。
 おれはすぐに考える。
 中央本線とは前々から辰野駅を通して直通している関係だが、忙しい首都圏も走る彼が自分の路線のほうに来るのは珍しいことだ。用事のときは自分の終点であり中央本線の駅でもある辰野駅か、JR東海本社のある名古屋駅でやりとりすることがほとんどだ。また、彼とは昔からの知り合いであるが、親しいと言えるほどの仲ではない。
 考えてみても、中央本線との予定は思い当たらなかった。だとすると、緊急の用事か……?
 しかし、視界に映る横顔は至って穏やかだ。全く焦りのない表情で、留置された車両を眺めている。
「まさか、君の記念でぼくの車両が使われるなんてね」
 急用とはほど遠い口調で中央本線が言った。
 ……もしかして、わざわざそれを言いに来たのか。
「しょうがないだろう。記念列車に向いている車両は、おれの路線には特急用の車両しかないんだから」
 だがその車両は、全通八十周年記念で走らせる別の記念列車『飯田線80周年秘境駅号』で使用することが決まっている。だから今回、もう一種類を自分以外のところから調達することになったのだ。
 スタイリッシュな外観をした313系は、中央本線で使われている車両だ。もともと中央本線のライナー用として造られた車両で、内装のほうも普通のものよりグレードが高いから、記念列車には適しているのだろう。信州DCの臨時列車としても使用されているし。
「君は、相変わらず皮肉っぽいね」
 中央本線がこちらを向いてほんのり苦く笑った。
 そこに悪意は感じられないからこそ、なんだか面白くない気持ちになる。
「悪かったな」
「そういう意味で言ったわけではないんだけれど……。でも、そんな君だからこそ、鉄路を託した伊那は安心しているだろうね」
「っ、」
 胸の奥がずきりと痛んだ。
 おれの脳裏に、今の自分のように黒髪を後頭部で一つに結った青年の姿が過ぎる。
 ――伊那……伊那電気鉄道。
 彼は、飯田線北部の線路を築いた鉄道で、他の鉄路を走る者達と同じように、誰よりも己の路線を愛する擬人だった。
「どうだろうな……おれは、あいつの鉄路を奪ったようなものだからな……」
 おれがため息とともに吐き出した言葉に、中央本線が眉をひそめる。
「君が決めたことではないだろ?」
 ――全ては国鉄が、人間が決めたことだ。
 わかっている。おれが引き継いだのは、ただの運だった。豊川鉄道あるいは鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気鉄道の中から誰か一人の可能性に当たっただけだ。
 それでも、消えていくしかなかった伊那や三信のことを思うと痛みを覚える。こうやって彼らの鉄路で自分が祝われると罪悪感にも襲われる。何度経験しても慣れることがない。無視したくてもうまくできない。
「飯田線」
「……なんだよ」
 中央本線の呼びかけに、物思いに沈む意識を止めておれはなんとか返事をした。
 すると、こちらを見据える相手の顔が真剣なそれに変わった。
「そろそろその想いから卒業したらどうだい? 十年後には南信州に念願の新幹線が走るようになる。君は路線の未来のために、もっとシャキッとするべきだ」
 凛とした声が耳にわずらわしく感じて、おれはむっとする。
「そんなこと、言われなくてもわかってる」
「本当に?」
「……さっきからなんだ。おまえは、おれを叱りたくてここに来たのか?」
「いいや」
 中央本線は顔を小さく横に振って、ちらりと留置線のほうを見てから柔らかな笑みを浮かべた。
「ぼくのために造られた車両が、君の全通記念のために走ると聞いて見に来たんだよ。明日明後日は東側の業務で無理そうだから、今日のうちにね。でも、まだ記念のヘッドマークがついてなくて残念だったよ。これじゃあ、信州DCで走っているときと変わらないね」
 本音か嘘か、どちらであろうが笑顔で言うことじゃない。
 おれはますます気分が悪くなる。
「なら、用件は済んだろう」
「そうだね。もう帰るとするよ。ここからぼくの路線に戻るの、ちょっと大変だしね」
「うるさい」
「ふふふ。それじゃあね、飯田線、良い全通記念を。ああ、鹿とか木とかにぶつかったりして、ぼくの車両を傷つけないでね」
 最後まで余計な言葉を残して中央本線は去っていく。彼の軽い足取りの後ろ姿を見ていると、苛立っているのが馬鹿らしくなってきた。
 おれはため息を吐く。
 何が、相変わらず、だ。相変わらずなのは中央本線のほうだろう。昔から、東海道本線とはまた違う感じに面倒な奴だ。
 ……もっとも、伊那はそんなあいつを敬っていたようだが。
 おれはもやついた気分のまま、自分の全通を祝うために用意された車両に向き直った。

   ◆

 八月二十日。
 一昨日の悪天候とは一転して、昨日今日と天候は安定している。青空から陽光が降り注ぎ、風は控えめで、外にいるだけでじわりと汗がにじむ夏らしい天気だ。
 そんな暑い日にも関わらず、飯田駅にはぞくぞくと人がやってくる。その顔ぶれは老若男女で、普段とは異なるどこか浮ついたような賑やかさがある。
 彼らの目的は聞かなくても察せられて、感じる緊張が強くなる。
 おれは走行感覚を意識しながら懐中時計を見た。
 ……大丈夫だ。問題なく、着ける。
「電車が来ますので、白線の内側までお下がりください! 危ないので、線の内側まで下がってください!」
 駅員がマイク越しに声を張り上げる。直後、まるでそれが合図だったかのように、ドンッドンッ、と腹の底を震えさせる太鼓の音が鳴り出した。
 ホームに集まった人々の視線が下り線のほうに集中する。警笛を高く響かせながら、銀色の車体に橙色の線模様が鮮やかな列車が駅に入ってきた。次々とカメラのシャッターが切られる。
 太鼓の演奏と沢山の人間に迎えられて到着したのは、全通記念列車の『飯田線80周年アルプス号』だ。二日前に伊那松島運輸区に回送したときにはなかった、全通記念のためのカラフルなヘッドマークをつけている。
 扉が開き、乗客が降りてくる。彼らの笑顔を目にして、おれは一安心した。
 太鼓の音色はまだ止まない。再び、駅員の注意をうながす声が響き、人々の目が今度は上り線へと向く。
 下り線に着いたのとは別の列車がやってくる。警笛を鳴らして入ってきたのは、両端の白い面に橙色のラインが馴染み深い、普段から飯田線の特急として使われている車両だ。しかし今は特急としてではなく、全通記念列車の『飯田線80周年秘境駅号』として駅に到着する。こちらにも、記念用の特別なヘッドマークをつけている。
 記念列車での旅を終えた乗客の表情は一様に明るく、駅に集まった人も列車や親しい者と記念撮影などをして、思い思いにこの日を楽しんでいるようだ。沿線の子供達による太鼓の演奏が終わり、拍手がわき起こる。
 ……良かった。
 おれは念のために時間を確認し、無事に記念列車を走らせ終えることができたのをあらためて意識した。
 並んだ二種類の車両に目を向ける。
 方や北部から、方や南部から、走ってきた列車が同日同時刻に同じ駅に到着する……それはまるで、北と南それぞれから線路が延びて繋がったこの路線の歴史のようだ。
 もしかして、そういう意図の演出なのだろうか。
「飯田線!」
 呼び声に振り向くと、藤乗務員がこちらに向かって足早に歩み寄ってくるのが見えた。
 たしか、彼は『飯田線80周年アルプス号』の乗務だったか。
「藤乗務員、乗務お疲れ様でした」
「お疲れさまです。無事に定刻通りに到着できて良かったです」
 やってきた藤乗務員が安堵をにじませた笑顔で、回送に切り替わった『飯田線80周年アルプス号』を見やった。
 その隣で、もう一方の記念号が乗客を降ろし終えて車内清掃を始める。『飯田線80周年秘境駅号』として走ったほうの車両は回送ではなく、十五時五十八分に発車する特急伊那路号として折り返し運転されるのだ。
 藤乗務員が再びおれのほうに向いた。
「そういえば、飯田線はこのあと伊那路で豊橋に行かれる予定でしたよね?」
「ええ」
「少し待っていてください!」
 返事をすれば藤乗務員はそう言い残して、小走りで改札口のほうへ行ってしまった。
 どうしたのだろう。
 言われた通りに、ホームに集った人々の安全に気を配りながらその場で待っていると、五分ほどで藤乗務員は戻ってきた。後ろに飯田駅の駅長を連れて。
「お待たせしました」
「畠中駅長……? 何かあったんですか?」
 駅長とともにやってきたことに、トラブルだろうかと心配になってきておれは尋ねた。今日は乗客だけでなく、鉄道好きに沿線住民といつになく人が多いから、駅の内外で問題が起こってもおかしくはない。
 しかし、二人の表情に緊迫感や緊張感は見受けられなかった。
 藤乗務員が横に退き、畠中駅長が前に出る。おれを見つめたまま、ふわりと笑顔を浮かべた。
「飯田線、全通八十周年おめでとうございます」
 その言葉とともに、畠中駅長が後ろに回していた手をこちらに差し出してきた。
 そこには、色鮮やかな花束が一つ。
「おめでとうございます!」
 続いて、藤乗務員も笑顔で手を差し出してきた。
 そこには、赤色のリボンがついた白い紙袋が一つ。
 これは……。
「おれに、ですか?」
「はい。飯田線北部担当の乗務員や駅員達からです」
 畠中駅長が答え、藤乗務員が頷く。
「わざわざ、ありがとうございます」
 おれは微笑んで二つの贈り物を受け取った。
 生花のにおいが鼻先に香る。
 全通のお祝い、か。
 胸の奥が微かに疼く。
「飯田線、これからもよろしくお願いします」
 畠中駅長が言い、
「皆で協力して、この路線をもっともっと盛り上げていきましょう」
 藤乗務員が言葉を重ねた。
 あっ……。
 一瞬、笑顔の二人の姿の上に、見知った別の二人の姿が重なって見えた。
 ――これから一緒に、この鉄路を繋げていこう、ずっと先まで――
 あのときのようだ。全通して、伊那と三信と三人揃って会った日のときのよう……。
 そうか。彼らと交わしたあの誓いは、形を変えて今もなおこの地に残っているのか。
 喉元が、目頭が熱くなってくる。
 昨夜の中央本線の言葉が耳によみがえった。
 路線の未来……そうだ。この鉄路を走る者は、もう自分しかいない。だから、自分が繋げていかないといけないんだ。苦痛も喜びも抱えて、これからも走っていかないといけない。
 ――彼らのためにも。
 おれは一度瞬き、目の前の二人をまっすぐに見つめ直して、返すべき言葉を口にした。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
 不思議だった。まだ違和感はあったが、今までのような痛みは感じなかった。