祝、飯田線全通80周年 5
飯田駅からいつもより多くの人を乗せた特急伊那路は、定刻通りに豊橋駅に到着した。
乗客が全員降りたことを確認してから、おれも列車を降りる。
「飯田線、お疲れ様」
「……東海道本線?」
ホームに両足を着いた直後にかけられた声に、改札とは逆のほうに振り向けば、ホームの端に立ってこちらを見ていたのは間違いなく彼だった。
なんだ……?
疑問が浮かぶ。ここは東海道本線も使用する四番線ホームだから、たまたま会ったことにたいする挨拶かと最初思ったが、それにしては普段と雰囲気が違うように感じた。
「昨日今日と問題が起こらなくてよかったのう」
実際、違った。いつもなら軽い挨拶をしてすぐに別れるのに、東海道本線はおれの前まで来ると足を止めた。
「ああ」
怪訝に思いながらも、とりあえずおれは返事をする。だが、あれ以上の言葉は出てこなかった。
疑問を抱きながら立ち尽くしていると、東海道本線は片手を伸べてきた。そこには大きな白無地の紙袋が一つある。
「ほれ、おぬしの全通八十周年祝い、わしとシンからじゃ」
「え……」
おれは言われた言葉を頭の中で繰り返して、差し出されている紙袋と東海道本線を交互に見やった。
東海道本線からおれに祝い……? 贈り物だって?
そんなこと、これまでに一度もなかったことだ。
しかも、彼が言う『シン』って、たしか東海道新幹線のことじゃ……?
おれの聞き間違いか。
「どうした? わしとシンからの贈り物、遠慮せずに受け取れ」
間違いではなかった。
「ああ、ありがと……」
おれは驚きが引かないまま、促されるままに紙袋を受け取った。
大きさに比べて重さはあまりない。東海道本線と東海道新幹線からの贈り物とは一体何なんだろうか。
気になってたまらず、上から紙袋の中身を見た。
見覚えのある、リスとウサギの絵が描かれた小袋が大量に入っている。
「おい、これ……」
「駄菓子、ラムネじゃ。食べたことあるじゃろ?」
困惑するおれに東海道本線がさらりと応える。
違う、そういうことが聞きたいんじゃない。
おれは呼吸を一つ置いてから、あらためて問いを口にした。
「なんで、ラムネばかりこんなにあるんだ。別に、おれはラムネ好きってわけじゃないんだが……」
全部かどうかはわからないが、傾かせて見てみても、紙袋の中にはラムネの小袋しか見えない。
「わしはおぬしの好きなものを知らん。じゃから、消去法でそれにしたんじゃ」
「消去法……?」
「疲れたときには糖分じゃろ?」
「そうだが……」
「この時期、チョコやアメは溶けてしまうからのう」
「そう、だな……」
東海道本線の飄々とした態度は相変わらずで、疑問は解決されてないがこれ以上尋ねるのが嫌になってきた。
おれはもう一度紙袋の中身を見る。やっぱり、ラムネしかない。
これ、いくつ入ってるんだ。絶対一人にあげる量じゃないだろう。
「なんじゃ、不満か?」
その言葉に顔を上げれば、東海道本線は少し眉をひそめていた。
不満か、そうでないか、なんて聞かれたらそんなの……。
「いいや……ありがたくもらうよ」
心の声を無視しておれは言った。
すでによくわからない状況なのだから他の面倒事が増えるのは避けたい、本音よりもその思いが勝った。
「そうか」
東海道本線がしかめっ面をやめて微笑を浮かべた。
「もし、おぬしだけでは食べ切れぬようなら、他の者に分けてやれ。おぬしの記念にかけて八十個入っておる」
「は、はちじゅう……?」
「ではな。これからも頑張るんじゃぞ」
驚くおれにかまわず、東海道本線は横を通り過ぎて去っていく。そんな彼について行くかのように、停車していた列車が静岡方面に向かって走り出す。
ホームに重たい走行音が響き、髪や服を揺らす風が起こり、ほどなくして元の静けさが戻ってくる。
おれは東海道本線の消えた景色から視線を引きずり下ろして、手に持つ紙袋を見た。
――ラムネ菓子が八十個。
「これは、嫌がらせなのか……?」
変な疲労を感じて、ため息を吐かずにはいられなかった。
◇
左手に持つ小袋から、白色の円形の小さな粒を一つ取り出して口に放り込む。ほんのりとした甘みを感じるそれを口内で少しだけ転がし、表面が柔らかくなってきたところで一噛みすると簡単に砕けて、さわやかな甘さが広がった。独特な粉っぽさも合わせておいしい。
後味を楽しみながら、俺は小袋の中を見る。今食べた白以外に淡いピンクや黄色が入っている。
さて、次はどれにしよう。
「シン、おるか?」
考えて手を止めたとき、事務室の扉をノックする音と声が聞こえてきた。
東海道本線か。
「いるぞ」
「失礼する」
返事をすれば、予想通りに、海道本線が入ってきた。
俺を見たその顔が微笑みを浮かべる。
「おぬしは相変わらずそのラムネが好きじゃのう」
「うるさい」
俺は小袋からピンク色を取って口に運んだ。ラムネのさわやかさにイチゴの味が重なって、先程とは別のおいしさを感じる。
「で、何の用だ?」
尋ねながらもう一つラムネを食べる。
「飯田線に全通記念のプレゼントを渡しておいたぞ」
「……本当にやったのか……」
驚きと呆れに、レモンの味を堪能する余裕がなくなった。口の中の粘つくような甘みと酸味を喉の奥に呑み込む。
「何を言っておる。おぬしの案じゃろ?」
「……俺は、別に、渡したい、とは言ってない」
当然というような態度でされた返事に言い返したが、俺は舌の根に苦いものを感じずにはいられなかった。
飯田線にお祝いを渡したい、とは言ってない。が、それに近いようなことは言った覚えがあった。
あれは、今から五日前のことだ。
豊橋駅で昼食をとろうと駅ビルのレストラン街に行く途中、通りかかった在来線の改札になんとなく目をやったとき、俺は思わず足を止めた。
改札を入ってすぐ正面のところに、『祝、飯田線全通80周年』と上部に書かれた大きなパネルが設置され、そのタイトルの下には駅や車両の写真、手書きの文章が書かれた紙が貼られている。隣にはポスターとパンフレット、八月二十日までのカウントダウンも置いてある。
在来線の改札はすっかり飯田線のお祝い一色だ。ここは東海道本線や私鉄の駅でもあったよな……?、と疑いたくなるほどに。
正直、びっくりした。
同時に、ほっとした。
ちゃんと、自分のところでも盛大に祝ってもらえてるんだな。
名古屋駅でのイベントのことを思い出して、俺は思う。準備を手伝ったあと、何度かあの日と翌日にイベントの様子を見に行ったが、どちらもなかなか賑わっていた。
リニア中央新幹線の絡みで東海の奴からこれから先、難題をふられそうで心配だったが、周りがこれなら大丈夫そうだ。
「シン? こんなところで何をしておる?」
突然聞こえてきた声にたちまち感慨が引いていく。
俺は顔をしかめた。
しまった。全然気がつかなかった。
っていうか、なんで今日に限ってこの時間に同じ駅にいるんだよ。
「シン」
……しょうがない。
しぶしぶ俺は呼び声のほうに振り向いた。
ちょうど、東海道本線がそばまで来て立ち止まったところだった。
「別に……なんとなく、あれを見ていただけだ」
俺が目線で改札のほうを示す。
「ああ、飯田線の全通記念か。派手にやっておるのう。記念のロゴやあの展示物は、飯田線の関係者が製作したそうじゃぞ」
「へぇー」
「そういえば、シン。名古屋駅で、飯田線とイベントをしたそうじゃな」
「したんじゃない。飯田線のイベントの準備を少し手伝っただけだ」
訂正しながら東海道本線のほうに振り向けば、愉しげな笑みを浮かべていた。
……なんだよ、その顔は。
「ほう、おぬしが在来線の手伝いをな」
「東海の奴に言われたんだよ! これからは、俺と在来線との関係を深めていきたいとかなんとか」
「ほーう」
東海道本線が一度深くうなずく。その表情は相変わらずだ。
相手が何を思ったのか、何を考えているのか。五十年以上の付き合いになるのに全然わからない。
悔しい。それと、不愉快だ。
俺は話題を変えたくて、しかし自分の胸中を悟られないように、何気ない風で尋ねることにした。
「あんたは飯田線を祝ってやらないのか?」
「あいにくとその予定はないのう」
「飯田線とは昔からの知り合いなんだろ?」
詳しいことは知らないが、俺が生まれるよりも前から、同じ国鉄の路線として近くで走っていることは知っている。あと、ときどき東海道本線が他の在来線に贈り物をしていることも。
「シン、属す場所が同じで、古くから近くにいても、必ず仲が良いとは限らぬぞ。とくに飯田線はもともと私鉄じゃったから、わしのことは毛嫌いしておったからのう」
東海道本線がしみじみと言う。どちからというと穏便ではない内容なのに愉快そうなのが不思議だ。
一体昔に何があったんだ……? 東海道本線が日本で最初に生まれた鉄道の擬人だから、他の奴らともめ事が幾度とあったと聞いたことはあるが……。
「しかし、それは良い案じゃな、シン」
なんだって……?
考え事に気を取られていて、耳に入ってきた言葉の意味をすぐに理解できなかった。
俺が東海道本線をあらためて見ると、先程よりも楽しげな表情が三割ほど濃さを増したように映った。
「せっかくじゃから、やってみようかのう。おぬしの今後のためにも」
そこでようやく、俺は聞こえた言葉の意味を悟った。
――飯田線に贈り物をする、しかし、なぜか、東海道本線だけでなく俺も送り主に含んでいる。
「おい、じじい」
「おっと、そろそろ名古屋のほうに行かねばならん。それではな、シン」
「ちょっと、待て……」
しかし呼び止める声もむなしく、東海道本線は自分の言葉を言い終えるや歩き出し、在来線の改札の中へ入っていってしまった。聞こえていただろうに、一度もこちらを振り返ることはしなかった。
風が吹き去るような相手の態度に、俺は追いかけるという選択肢すら浮かばないまま、その場で呆然と姿が見えなくなるまで見ていた。
それから、今日の今まで東海道本線に出会うことはなく、そんな話を彼としたことさえ忘れていた。
うん。今あのときのことを思い返してみても、贈り物は俺じゃなくて、東海道本線が勝手にしたこととしか思えない。
視線の先の相手の表情は、腹が立ちそうなほどに同じだ。
「……で、飯田線に何をあげたんだよ」
色々とこみ上げてくるものはあったが、すでに贈ってしまったのならしょうがない。俺は文句を言うことを諦めて、気にかかったことを尋ねた。
「それじゃ」
「それ……?」
何を示しているのか、さっぱりわからない。東海道本線は俺のほうを見ている。後ろやそばに目をやってみたが、贈り物になりそうなものはない。
「どれだよ」
聞き返すと、東海道本線は人差し指で指さした。
俺の前にある机の上の小袋に。
「今おぬしが食べておる、そのラムネじゃ」
「……は?」
「それを八十個やった」
「はぁ?!」
驚きのあまり、裏返った声が出てしまった。
東海道本線と机に置いている未開封のラムネを交互に見やる。
否定をしてこない。冗談じゃないのか。
もう後の祭りだからと奥に抑え込んだ感情が喉元によみがえってきた。
「なんでっ、全通記念の祝いにそんなものをやったんだよ! ラムネ八十個って……、もっと他にあっただろう!」
「だって、わし、あやつの好物を知らんもん」
変に可愛い子ぶるなよ。やや丸くなった口調と小首を傾げる仕草に余計に苛々する。
「だからって、なんでラムネ!」
「わからなかったから、おぬしの好物を選んでみたんじゃ」
「っ、もっと考えろよ!」
「ほっほっほ。わしの贈り物が不満なら、今度からは自分でするんじゃな、シン」
「は、何言って……、あっ、おい!」
東海道本線が机の上からラムネを一袋さらっていった。
「わしもしっかりと糖分を補給せねばな。そろそろ秋雨に、台風の季節じゃからな。暑い夏が終わっても気を抜けん」
そんなことを言いながら東海道本線は踵を返すと、さっさと部屋から出ていった。
「この、くそジジイが!」
閉まった扉に向かって吐き捨てる。東海道本線の反応は、当たり前だがなかった。
ったく……。
俺は椅子の背もたれに妙に疲労感のある体を預けた。
本当に昔から面倒くさいことばかりしてくれる奴だ。しばらくの間、飯田線と顔を合わせ辛くなったじゃないか。
手中の小袋から一粒を取って口に放る。噛めばラムネは簡単に砕けて、溶け消えていった。
◇
確率としては、彼と出会う可能性のほうが低い。
「東海道新幹線、お疲れさまです」
名古屋から東京方面へと向かう新幹線の車内。開いた貫通扉から姿を現した東海道新幹線その人に気づいて、おれは挨拶をした。
「……お疲れさま、飯田線」
東海道新幹線はおれが座る席のそばで足を止めて、どこかぎこちなく応えた。
……どうしたのだろう。
てっきり、これまでのように挨拶を終えたら通り過ぎていくものだと思っていたが、東海道新幹線は通行人の邪魔にならないようにおれのいる座席側の通路の端に寄ってその場にとどまっている。表情は何か言いたげに見えるが、待っていても何も言わない。
このまま沈黙が続くのはさすがに居心地が悪い。もう一度、おれから口を開くことにした。
「何か、ご用ですか?」
「あぁ……その、東海道本線から、全通祝いをもらったんだってな」
脳裏に豊橋駅で渡された大量のラムネ菓子が過ぎった。
そうだ。あれは東海道新幹線からもだったというのに、まだ彼には礼を言ってなかった。
「はい。その節はありがとうございました」
すると、なぜか、東海道新幹線の顔が苦いものを噛んでしまったかのように歪んだ。
「あれはっ、東海道本線の奴が勝手にやったことで……! だからっ、別に、おまえが礼を言う必要はない!」
強い口調のそれは、怒りというよりも嘆きに近い感情を含んでいるように感じた。意外な言葉を耳にして、おれはきょとんとしてしまった。
東海道新幹線が口を閉じてこちらを見つめている。おれの反応を待っているのか。だが、なんて返したらいいのか、すぐに思いつかない。
対して、困って黙っているおれをどう思ったのか、東海道新幹線は目尻を下げて一回小さなため息を吐いた。
「悪い、迷惑かけたな」
えっ……、東海道新幹線がおれに謝っている……?
見たことのないばつの悪そうな顔を認識して、一瞬前の出来事が現実に起きたことだと実感する。
慌てておれは首を横に振った。
「いえ、そんな、迷惑だなんて……。あの東海道本線から贈り物をもらう、という貴重な経験ができて良かったです」
嘘ではない。五十年以上前なら嫌という気持ちのほうが強かったかもしれないが、今は東海道本線にたいして昔のような感情は抱いてない。
……渡されたときは困惑したし、八十個のラムネ菓子をどうにかするのには苦労したが。大半は、メイ達や駅員や乗務員など周囲の者に配った。
おれの返答を受けた東海道新幹線が少し目を見開く。
「強いんだな」
「そうですか……?」
「俺なら一発殴りたくなる」
その気持ちはわからないでもない。
おれは胸中で密かに同意して、妙に感心したような表情をする東海道新幹線に小さく笑みを返した。
「慣れているだけです。生まれてこの方色々あったので……」
「色々?」
「聞いても何のためにもならない話です」
どうしようもない自然災害に、人間や擬人達とのごたごたを乗り越えてきただけだ。そこに自分の頑張りもなくはなかったが……今、自分の目の前にいる者と比べればたいしたことではないだろう。
「おれからしてみれば、あなたのほうがずっと強くてすごいと思います、東海道新幹線」
自分の百二十年間を卑下するわけではないが、開業して五十年以上、華々しい始まりから衰えるどころか勢いを増していっている彼には到底敵わない。
今も昔もプレッシャーは相当なものだろうに。
「まぁ……」
東海道新幹線は考えるように少し小首を傾げてから、応えた。
「約束したからな。自分がするべきことをするって」
「約束……それは、東海主幹とですか?」
「それもある」
『それも』? ということは、別の誰かとの約束があるのか。誰なのだろう。東海道本線か、片割れだとも言われる山陽新幹線か……。
「飯田線」
「あ、はい」
鉄道の頂点に君臨するといっても過言ではない彼を強くあり続けさせている人物が気になって、つい考えにふけりかけていた。
東海道新幹線に呼ばれ、おれははっとして返事をした。
一呼吸の間を置いて、東海道新幹線が微笑を浮かべた。
「全通八十周年おめでとう。自分が抱くものを忘れずにいれば、これからも何があろうと強く走り続けられる」
――不思議だ。
あの東海道新幹線に祝われているからというのもあるが、その彼の表情にそう感じた。なんだか懐かしんでいるような、明るいのだがどこか悲しげに映った。
……もしかして、さっきの『約束』と関係あるのだろうか。
好奇心に押されて疑問が喉のほうへやってくる。
「東海道新幹線……、ありがとうございます」
理性が尋ねることを阻んだ。簡単には聞いてはいけない気がしたのだ。
「それじゃあな」
東海道新幹線が顔を俺から通路の奥に移して歩き出す。その横顔はもう、いつもの日本の大動脈としての彼だ。
隣の車両へ行く東海道新幹線を見送って、おれは車窓の景色に目をやった。名古屋の町並みはすでに過ぎて、三河地方の緑の山々が見える。
……意外だった。
正直、東海道新幹線はとっつきにくい人物だと思っていた。同じ会社に属す、鉄道の擬人ではあるが、在来線の自分とは異なる存在だと考えていた。けれど、前回と今回と話をしてみて、彼も自分も変わらない鉄路を走る者だとわかった。
東海道新幹線からの言葉を思い返す。
――今なお強く走り続けている彼が抱いているのは、約束。ならば、自分は……?
すぐにこれまで出会った者達の姿が脳裏を過ぎった。
そうだ。
「彼らのために、おれはこれからも走り続ける」