鉄路を走る者 2


 順調に動いていく感覚は、当たり前だからこそ、気持ちがいい。
「……やっと、遅れがなくなったか……」
 俺はつぶやいて、椅子の背もたれに背中を預けた。正面にある机の上のパソコンから視線を外して、その横に置いていたペットボトルを手に取る。ふたを開けて中身を一口。すっかりぬるくなってしまったが、喉を通っていくほうじ茶の香ばしい感覚に緊張が緩み、ほっと息を吐いた。
 一時はどうなることかと思ったが、運行設備に被害がなくて本当によかった……。
 沿線火災で三時間近くも運転見合せをすることになってしまった。再開後も遅延は長引き、夕方になってようやく解消することができた。
 俺の体調のほうも回復した。息苦しさや喉の痛みなどの違和感はもうしない。
 あとは、終電まで何事もなくいってほしいものだ。
 そこまで考えて、ふと山陽新幹線のことを思い出した。沿線火災の影響で一時的に気を失った俺のことをひどく心配していた。
 パソコンの画面に表示されている時計に目をやる。十七時少し前。今から名古屋駅を一回りして東京のほうに寄っても、今日中に新大阪へ行くことは可能だ。
 ほうじ茶をもう一口飲み、ペットボトルのふたを閉めて机に戻す。空いた手で携帯端末を取り出し、メールで山陽新幹線に今日は新大阪泊まりすることを伝えると、俺は見回りをするために椅子から腰を上げた。
 駅のホームに続く事務室の扉を開く。
「――ご苦労様」
「!」
 俺は思わず、片足を一歩分後ろに引いていた。
 驚いた。扉を開けてすぐそこに、東海の奴が立っていたのだ。
「……なに、してるんだ」
「貴方に用があってきたのよ」
 平然と東海が応える。
 どうやら、彼女が訪問してきたタイミングと、俺が扉を開けたタイミングが見事に重なったようだ。
 俺は一回呼吸を挟んで、まだ鼓動の速い心臓の音を耳の奥に聞きながら、あらためて尋ねる。
「用ってなんだ?」
「三十分ほど付き合いなさい」
「?」
「ほら、行くわよ」
 俺が疑問を発する前に東海は踵を返し、片足を一歩前へ出している。惑う俺の気配を感じ取ったのか、顔だけで振り向いてこちらを見てくる。
「……わかったよ」
 うながすような視線を受けて、拒否する返事は躊躇われた。
 前に向き直り歩き出した東海のあとに俺はついていく。
 新幹線ホームから降り、改札を出てコンコースへ。さんざめく人々の間を縫うようにして幅の広い通路を歩く。
 ほどなくして足が止まったのは、構内にある一軒の店の前だ。店頭の看板に大きく描かれた黄色のものには見覚えがある。
「ここ……」
「入るわよ」
 俺の発言を無視して東海が店内に入っていく。
 しかたなく、俺は喉元まで上がってきた言葉を途中で呑み込んで、それに続いた。
「東海主幹さん、いらっしゃいませ。お席はこちらになります」
「ありがとう」
 予約をしていたのか、入ってすぐに店員が席に案内する。椅子とソファーの席が机を挟んで配置されている禁煙席の一角だ。東海が先に通路側の椅子のほうに座ったので、俺は壁側のソファーに腰かけた。
 向き合う形で二人で座り、流れるのは沈黙。
「……東海」
「待ってなさい」
 耐えきれずに口を開いた俺にすかさず東海が発言を断ち切った。
 怪訝に思いつつも、言われたとおりに俺は黙ることにした。
「お待たせしました」
 少しして先程の店員がお盆を手に戻ってきた。
 水の入った透明なコップが東海と俺の前に置かれる。そして、ホットコーヒーの白いカップが一つと、店頭でも見かけた黄色のもの――ひよこを模した菓子が一つ。最後に伝票を残して店員は去っていった。
「? おい……」
「貴方のよ」
 東海がひよこ型の菓子ののった皿を俺のほうに動かしてから、ホットコーヒーのカップを手に取って口をつける。
 俺は寄越された皿を見つめた。薄い黄色の粉がまぶされた丸みのある形の体に、眼が黒色の、くちばしと翼が黄色のチョコで作られ、つけられている。眼に当たる円形のチョコには微かに水滴がついているせいできらめいていて、それがなんだか生き物じみて見え、少し食べづらい。
 このひよこの菓子……そういえば、なんという名前だったか。
「ぴよりん、嫌いだったかしら?」
 『ぴよりん』、ああ、そうだ、そういう名前だった。
「いいや……」
 食べたことはある。好きでも嫌いでもない。
 目線を上げると、手を出さない俺を不審に思ったのか、まっすぐにこちらを見る東海と目が合った。
 ……食おう。
 俺は目線を下げ直して、皿を引き寄せ、のっているスプーンを手にした。ぴよりんの……どこから食べようか。最初に顔の正面からいくのは妙に抵抗がある。
 考えて、俺は皿を百八十度回して背中からスプーンを入れた。そんなに力を入れなくてもスプーンの表面をうめる量がすくいとれた。そのまま口に運ぶ。
 ――美味しい。
 食感は柔らかく、甘さ控えめのプリンの味を感じる。もう一口欲しくなってすぐに二口目へ、そして三口目を食べる。
 甘いものは特別好きというわけではないのに、なぜだろう、次々と手が出てしまう。
 気づけば、ぴよりんは残り一口分になっていた。俺は躊躇わず最後を口にした。
「美味しかった?」
 計っていたのか、俺がスプーンを置いた直後に東海が聞いてくる。
 正直、美味しかった。 が、自分に向けられる黒茶色の瞳を見た途端、素直に言うのはおもしろくないと感じた。
「まぁ……」
「そう」
 俺の曖昧とした返事に、笑顔もなく不満そうな様子もなく東海は応えてコーヒーを飲む。
 今の質問は何のためにしたのか、わからないほどに淡白な反応だった。
 そもそも、なぜ、東海はここに俺を連れてきたんだ? まさか、お茶をするためだけではないだろう。
 次にくるだろう本題に内心身構えていると、東海が飲み終えたコーヒーカップを置いた。そして、伝票を手にして椅子から立ち上がる。
「行くわよ」
「? ああ……」
 うながされ、俺も腰を上げる。
 会計を済ませた東海とともに店の外に出た。
「東海道新幹線」
 店の出入り口から三歩ほど離れたところで東海が立ち止まって、俺に振り向いた。
「それじゃあ、残りの仕事を頑張りなさい」
 ……え?
「用事は……?」
「貴方への用事なら終わったわ」
 これで、終わり? どういうことだ。
 東海の思考がさっぱり読めずに困惑していると、俺を見据える黒茶色の瞳が少し鋭く細くなった。
「何してるの? もう大丈夫なんでしょう? 早く行きなさい」
「……ごちそうさま」
 これ以上の余分な発言は許さないという意思の滲んだ語調と表情にたいして、俺が考えた末に返せたのはそれだけだった。
 一体、どういうことなんだ……?
 疑問を抱えたまま新幹線の改札口のほうに歩き出した俺を、東海が追ってくることも、声をかけてくることもなかった。

   ◇

 一つに結んだ白い長髪の揺れる黒色の背中が、行き交う人間達に紛れて見えなくなった。
 東海はポケットから携帯端末を取り出して、電話帳に記憶してある電話番号の一つに発信する。
 二コール目で壮年の男の声が通話に出た。
 新幹線の改札口の方面を見つめて、東海が開口する。
「お疲れ様です。東海主幹です。東海道新幹線の容態ですが、問題ありません」