鉄路を走る者/営む者 3


 彼女が沿線火災の一報を受け取ったのは、JR名古屋駅に直結するビルにある自分の執務室でだった。

 ポン、という軽快な電子音が鳴って、目の前にあるパソコンの液晶画面の上端に小さなウインドウが現れた。赤い枠線で囲まれた黒い背景の四角いそれには、白色で『10:26 東海道新幹線の沿線で火災発生』の文章が浮かんでいる。
(沿線火災?)
 部屋の主――JR東海の主幹は眉を寄せて、書きかけの文書ファイルを保存して閉じ、赤枠のウインドウをマウスでクリックした。
 新たなウインドウが現れる。今度のは液晶画面全体の大きさで、東海道新幹線の沿線のどの付近で火事が起きたのか、現在の状況などの詳細が図や文章で示されている。
(品川……線路に近いわね)
 東海の眉間の皺が濃くなった。
 このままでは線路の設備に炎が移って延焼する可能性が高い。そうなったら長時間の運転見合わせ、場合によっては設備故障による事故が発生するかもしれない。
(……これは、東海道新幹線だけに任せずに、私のほうでも対処したほうがいいわね)
 懸念を抱き、しばし考えた末にそう判断して、東海は新幹線総合指令所に連絡をとろうと机の右斜めに置いてある電話に手を伸ばした。
 だが、受話器に手が触れる直前、電話が鳴り出した。ボタンの上にある横長の画面に表示された電話番号は、JR名古屋駅の乗務員室のものだ。
「はい、東海主幹です」
 二コール目で受話器を取り、普段のように名乗れば、返ってきたのはやけに忙しない声だった。
「東海主幹、大変です! 新幹線が……東海道新幹線が、ホーム事務室で倒れています!」
「東海道新幹線が?」
 耳に届いた言葉は東海の意識をざわつかせたが、冷静さがわき上がる感情を抑え、いつもの落ち着いた声音で応える。
「状況は?」
「え、と、外傷はないようですが、苦しそうです。呼びかけても反応しません。それと、体温が高いように思えます」
「わかったわ。私が今からホーム事務室に行くから、そのままの状態にしておいて。騒ぎになると困るから、私が行くまで他の誰も事務室には入れないで頂戴」
「わかりました」
 通話を終えて受話器を戻しながら、パソコンのキーボードを叩く。
 切り替えたウインドウには、東海道新幹線の現在の運行状況がほぼリアルタイムで表示されている。現状は、沿線火災のために全区間で運転見合わせ。走行していた列車は、火災現場は避け、車間距離を保ちながら次々と停車している。
(気絶しているようだけど、運行は制御できているのね……)
 暴走や事故が起こっていないことにほっとしたが、完全に安心とまではいかない。
 東海は一通メールを送信したあと、パソコンをスリープ状態にして椅子から立ち上がった。


 無機質な電子音が十回目の同じ音を耳に響かせる。
(……だめか)
 東海は耳から離した携帯端末の発信を中断して、短く息を吐いた。
 一階へ行くためのエレベーターを待つ間、東海道新幹線に電話をかけてみたが、事務室の固定電話も携帯端末もどちらにも出なかった。
(たいしたことではないといいんだけれど)
 表情には出さないが内心強い不安を抱えながら、東海は扉が開いたエレベーターに乗り込んだ。階数のボタンを押す。扉が閉まり、エレベーターが動き出す。
(……西のほうにも、早めに現状を連絡しておいたほうがいいわね)
 減っていく階数から、手中の携帯端末に視線を落として東海は思った。
 西に所属する山陽新幹線とは直通の関係にあるから、というのもあるが、倒れた東海道新幹線の容態が良くならない場合、東海道新幹線の運行を山陽新幹線に任せる必要が出てくるからだ。擬人の不調で、日本の大動脈たる足を長い時間止めるわけにはいかない。国鉄から東海道新幹線を引き継いだJR東海としては、たとえ気の乗らないことだとしても。
 東海が頭を過ぎった西日本の彼に電話を発信する。携帯端末を耳に当てれば、すぐに相手は出た。
「JR西日本主幹です。東海、もしかして東海道新幹線のこと?」
「そうよ」
 東海が自分と同じぐらいの、若い男の声に手短に応える。
「東海道新幹線が倒れたわ。場合によっては、山陽新幹線に東海道新幹線のほうの運行も任せることになるから、念のために準備をしておいて」
「え、倒れたって……、沿線火災で……?」
 一瞬ですっかり戸惑った調子になった西日本の主幹に、冷静に言葉を返し続けながら、一階に到着したエレベーターから降りる。
「詳しい様子は今から見に行くけど、きっとそうね。ああ、それから、山陽新幹線がうろたえて運行を乱さないように、ちゃんとなだめてあげなさいね」
「なだめるって……。君は相変わらず、言い方が」
「東海道新幹線が回復したら直接山陽新幹線に連絡させるわ。じゃあ、忙しいから切るわね」
「と――」
 何か言いかけた西を無視して東海は一方的に通話を切った。携帯端末をポケットにしまって歩みを速くする。
 平日でも普段から行き交う人、待ち合わせをする人で混雑する名古屋駅だが、今日はとくに多い。新幹線の改札のほうへ向かえば向かうほど人の数が増えていく。大きな荷物を持つ人やスーツ姿の人が目立つ。手元の携帯端末を見たり、電子掲示板を見上げたり、駅員の発する言葉を聞いたりしている彼らの表情は一様に冴えない。すでに新幹線の運転見合わせの影響が出ているようだ。
 東海は入場規制されている改札へ行き、そばに立っている駅員に首から下げている身分証明のカードを提示した。
「東海主幹よ。ホーム事務室にいる東海道新幹線に用があってきたわ」
「了解しました」
 改札内に入ると、そこも外と同じような光景が広がっている。ちょうど列車が到着したのか、大阪方面のホームに続く階段から多くの人間が降りてきた。駅員に誘導されながら、改札の外に出ていく。
 どことなく不安げな人々の顔を横目でちらと見て、東海は東京方面のホームへ上がった。
 ホームの両脇の線路に青いラインの入った白地の車両が停車している。エンジン音を唸らせるその車内には何人もの人の姿が見える。ここも、デッキの扉付近で電話をしたり、座席にもたれるように座ったりした乗客達が曇った表情で運転再開を待っている。
「東海主幹!」
 前のほうから、一人の駅員の男が東海を呼んで小走りで近づいてきた。
「お待ちしてました」
 立ち止まった東海は聞き覚えのある声に、彼が執務室で受け取った電話の主だと気づいた。
「東海道新幹線はまだ?」
「はい。まだ意識は戻っていません」
「ありがとう。あとは私に任せて、貴方は通常の業務に戻りなさい」
「はい、失礼します」
 会釈をして去る駅員とは逆の方向に歩いていく。行く先はもちろん、ホームの端にある東海道新幹線の事務室だ。
 ホームに沿ってまっすぐ歩くと、目の前に白色の無機質な建物が見えてきた。ホームの延長線上にあるそれの扉の前で足を止めて、念のために東海はノックをする。しかし、応答はない。長くは待たずに東海は扉を開けた。
「……東海道新幹線」
 ぽつりとつぶやいて、後ろ手で扉を閉める。
 室内を探し回る必要はなかった。扉を開けてすぐに彼はいた。
 東海道新幹線は、部屋の中ほどでうつ伏せで倒れていた。
「東海道新幹線」
 東海が足早に寄ってしゃがみこみ、強い口調で名前を呼ぶ。反応はぴくりともない。頬を流れる長い白髪の間からのぞく顔は、苦痛がにじみ出ていて蒼白い。
 東海は力なく床に落ちた彼の手を取って、そっと手首に触れた。
(……怪我はないようだけど、脈は少し早い……言っていたとおり、体温が高いわね)
 東海は手を離して立ち上がった。部屋の奥隅に置いてある冷蔵庫に向かい、その上下のうちの上の冷凍用のところから保冷剤を一つ、隣の棚から乾いたタオルを一枚取り出すと、東海道新幹線のそばに戻った。
「東海道新幹線? 動かすわよ」
 聞こえていない可能性を考えつつも一応声をかけてから、東海は東海道新幹線の体を仰向けに寝かし直した。そして、保冷剤を巻いたタオルを額に置く。
 一連の動作中もあとも、東海道新幹線の意識が戻るきざしはない。
(とりあえず、これで様子見ね……)
 無理に起こしたところで、まだ火災はおさまっていないため走ることはできない。それに彼の不調が沿線火災によるものだとしたら、ひとまず、寝かせておいたほうがいいだろう。
(目が覚めるまで、私も新幹線のほうの運行を見ていたほうがよさそうね)
 これまでに例のないことである。現場や総合指令所任せにはせず、自分も補佐に入ったほうが良さそうだ。
 そう判断した東海がパソコンのある机に向かおうとしたとき、ポケットの中で携帯端末の着信音が鳴った。
 取り出して通知の表示されている画面を見るや、東海はすぐに通話のボタンを押して携帯端末を耳に当てた。黒スーツにおおわれた細い背中が自然と伸び、発する声に微かに緊張の響きが混じる。
「はい、東海主幹です」
「わたしだ。メールを見た。東海道新幹線の具合はどうだね?」
 通話口から聞こえてきたのは、齢を重ねた男の低い声だ。年齢のためだけではない威厳が、その姿を目の前にせずとも肌に感じられる。
 落ち着いた口調で東海は返答する。
「脈がやや早く、体温が高いです。外傷はありませんが、意識は戻っていません。原因は沿線火災によるものだと思われるため、処置をしてしばらく様子を見ることにします」
「そうか。彼のことは君に任せる。一秒でも早く運行を再開してくれ」
「はい。了解致しました」
 通話が切れる。
 東海は携帯端末を持っている腕を下ろした。
(一秒でも早く、か)
 少しうつむいていた顔を上げて、東海道新幹線に目をやる。
 床に横たわる彼の様子は決して安らかとはいえない。
「………」
 瞬きを一つ。呼吸を一往復。
 東海は顔を動かし、あらためてパソコンのほうへ歩みを進めた。