鉄路を走る者/営む者 4


 沿線火災発生から二時間後、ようやく鎮火の一報が入り、さらに一時間後、線路点検の終了報告を受けた。
(……火災による設備延焼などの異常はなし。運行再開可能、か)
 新幹線総合指令所からの電話を終えて、現在の運行や設備の状況が表示されている画面を見ながら東海は眉を寄せた。顔を動かし、床のほうに視線を落とす。
 力なく横たわる体。両の瞼が閉ざされたその顔は、東海がここにきて最初に見たときよりも幾分か血色を取り戻したが、にじむ苦痛の色は消えていない。
 東海道新幹線の意識は未だ戻らない。
(起きないことには、運行再開の調整もできないわね……)
 東海は椅子から腰を上げ、東海道新幹線のそばでしゃがみこんだ。
 手首で脈を診る。きたときよりは落ち着いている。体温も高くはないように感じる。
「……東海道新幹線。東海道新幹線」
 東海がやや鋭い声で呼びかける。
 沿線火災はおさまった。すでに全線で運行を止めてから三時間は経過している。自然に目覚めるのを待ちたいところだが、悠長にしている余裕はない。
「起きなさい、東海道新幹線」
 さらに言葉を重ねる。だが、肩を揺すっても、瞼が開く気配さえしない。
(このままだとまずいわね……。山陽新幹線に任せるしかないのかしら……)
「……ぅ」
 暗雲の消えない現状に眉を寄せたときだった。東海道新幹線の口から小さな声がこぼれたのを、東海は聞き逃さなかった。
「東海道新幹線?」
 身を乗り出して、上から覗きこむように顔を見る。
「……しま、さん……」
 かすれ声でのつぶやき、しかし、瞳は開かない。
 十秒ほど様子を見、東海は体を戻してため息を一つ吐いた。
 芽生えた希望があっさりとしおれてしまったことへの残念な気持ち。同時に、もやついたものが胸の奥に生じた。
 東海道新幹線が口にした言葉、それは東海も知る人の名前だった。
 島さん、もとい、島秀雄。東海道新幹線の建設の際に技師長として国鉄に勤めていた男性だ。新幹線の父と称される第四代国鉄総裁の十河信二と並ぶ、彼がいなければ今の新幹線はなかったと言われる尽力者だ。
 そして、同時に東海道新幹線の擬人にとっては忘れられない大切な人でもある。
(……国鉄じゃないだけましね……)
 自分の妙に落ち着かない心に東海はそう言い聞かせて、それかけた目の前の状況への対応に思考を戻した。
 どうにかして、東海道新幹線を起こすことを試みる。あるいは、彼を起こすのは諦めて山陽新幹線に運行を任せる。
 その他は……。
 東海が腕時計に目を向けた。鉄道の運行のように一秒さえ狂わないようにと、毎日時間を合わせている時計の針は今もたしかな時を刻み続けている。
 太い針が次の数字をゆるゆると指し示す。
 何もしていなくても時間は過ぎていく。
 無駄にしていい時間はない。
 ふと、茶色の髪と瞳をもつ、どこか冷ややかな印象の男の顔が東海の脳裏をかすめていった。
 ――この状況を、国鉄の彼ならば、どうしただろうか。
「……関係ないわ」
 独りごち、首を大きく一振りする。
 東海が横たわる東海道新幹線を見据え直したとき、彼のそばに落ちている携帯端末が小刻みに振動し始めた。
 拾い上げて画面を見れば、山陽新幹線からの着信であることが表示されていた。
(こっちから連絡させるって言ったのに……まったく西のやつは)
 忠告が役に立たなかった様に東海は呆れながら、振動し続ける携帯端末を見つめた。
 目覚めない東海道新幹線。
 運行再開は早急。
 現状で一番早く確実な方法は、山陽新幹線に運行の代理をさせることだ。
 山陽新幹線は二番目に走り出した新幹線で、開業前は東海道新幹線に新幹線の運行について教えてもらっていたという。
 性格に若干の難はあるが、一時的になら東海道新幹線の代理をつとめることはできるだろう。
 正直、自社の新幹線の運行を他社に任せるのは抵抗があるが……。
 着信から留守番電話に切り替わって、携帯端末が震えを止めた。
 東海は、ゆっくりと立ち上がった。
 『営む者』は『鉄路を走る者』をまとめ率いる者であるが庇護者ではない。その役割は人間に代わり路線の擬人を管理し、鉄道を正常に運行させることだ。
(しょうがないわね……)
 横たわる東海道新幹線に背を向ける。
 扉のほうへ足を一歩、二歩。
「……うぅ……」
 微かな声。
 もう一歩進んだところで、東海は足を止めた。顔だけで振り返る。
「東海道新幹線?」
「っ……」
 言葉になっていないほんの微かな声は返事か否か。瞼は開かない。
 東海は、体も東海道新幹線のほうに向けた。
 ――どうするべきか。
 腕を組んで、彼を見下ろす黒茶色の瞳に瞬きを一つ。
「………」
 ゆっくりと息を吸い、胸の奥に追いやった感情を言葉に変えてみることにした。
「東海道新幹線、起きなさい。貴方が走らなくてどうするの。こんなことで屈してどうするの。貴方は始まりの新幹線でしょう。これまでの、これからの望みを背負って走り続けると、約束したでしょう。………新幹線!」
 最後は声を張り上げ、呼んだ。
 余韻が消え、室内に沈黙が落ちる。
「っ……」
 小さく息を吐き出すような音がこぼれた。
 横たわる東海道新幹線の閉ざされていた瞼が震え、ゆっくりと開く。
 どこか虚ろな茶色がかった黒の瞳が光を映して、瞬きを挟むごとに意思の色を表していく。
(起きた……)
 東海は内心ほっとして、手にしている携帯端末を少しだけ操作した。
 東海道新幹線がゆるゆると上半身を起こす。その拍子に保冷剤を巻いたタオルが額から床に落ちていき、それに気づいた東海道新幹線は不思議そうな表情を浮かべた。
「起きたのね、東海道新幹線」
 東海が声をかければ、ようやくその存在を知ったのだろう、顔を上げた東海道新幹線は目を見開いて驚きを露にした。心身ともに一度崩れたせいか、その様子は普段にはないどこか子供っぽさが感じられる。
 大丈夫だろうか、とすぐに東海の胸のうちに不安が飛来した。
「平気?」
「?」
 何が、と言いたげな視線が返る。
 東海は視界の相手を注意深く見ながら言葉を重ねた。
「品川付近で沿線火災があったのを知ってる?」
「!」
 思い出したのか、東海道新幹線から幼稚な気配が消え去った。焦った様子で声を上げる。
「東海! 状況は? 今、どうなってる?!」
「新大阪から東京の全区間で運転見合わせ中よ。火災のほうは一時間前に鎮火したわ。現場は線路に近かったけれど、幸い運行設備に延焼はなし。火災中にすぐそばを通過した列車にも損傷はなし。走行中だった列車は全て安全に停車したわ。乗務員や乗客に負傷者はいないとのことよ」
「そうか……」
 見開いた眼を緩めて小さく息を吐く。しかし、すぐにはっとした様子で東海道新幹線は危惧の色を浮かべ、東海を見据え直した。
「運行再開はいつできるんだ?」
 その顔は、すでに日本の大動脈の東海道新幹線たるいつもの彼だ。
(大丈夫のようね)
 判断して、東海は決めた。
「そろそろ、かしら」
「じゃあ、」
「待ちなさい。はい、これ」
 勢い込む東海道新幹線の続く発言を遮って、東海は操作した携帯端末を彼に向かって放り投げた。
 慌てて東海道新幹線が携帯端末を受け取る。画面を見て一度瞬きをすると、携帯端末を耳に当てた。
 直後、東海道!、と叫ぶ男の声が携帯端末から漏れてくる。それに東海道新幹線は顔をしかめて応答した。
「うるさい! 少し声をおさえろ、山陽」
 携帯端末越しの通話相手は、山陽新幹線。西日本の主幹に言ったとおりの連絡だ。東海は東海道新幹線の運行再開を本人に任せることにしたのだ。
「――ああ。運行再開の時間が決まったら、また連絡する」
 数回のやり取りの末、東海道新幹線が通話を終えた。
 やはり若干の疲れはあるようだが、その言動と表情にはいつもの強い意思と覇気が感じられる。
 東海は口元に笑みを浮かべた。
「問題なさそうね」
 東海道新幹線がまっすぐに見つめ返してくる。
「一時間以内に運行を再開するわ。残りの時間で一本でも多く走らせなさい、東海道新幹線」
 東海が見据え返しながら、空気の中をすっと通るような声で言えば、
「了解」
 東海道新幹線はしっかりとその場に立ち上がった。