十月一日の新幹線


 携帯端末の画面に表示されている時間が21時17分になった。
 東京行きの最終ののぞみである、のぞみ64号が駅に到着する予定の時間まであと三分。
 俺は携帯端末を制服のポケットにしまって、事務室からホームへと出た。たちまち、ほんのり冷たい夜の空気と人の声や物音が混じったざわめきに包まれる。
 平日だが、東京行きの最終ののぞみに乗ろうとする客は意外と多い。
 俺はホームの様子を一瞥してから、懐中時計を取り出して、盤面を見ながら意識と感覚を列車の運行に集中させた。
 ……大丈夫。問題ない。今走っているどの列車も順調だ。
 あと少しで、今日という日を無事に終えられる。
「東海道!」
 ふと、聞こえてきた声に顔を上げた。若干他の音に紛れていたが、聞いたことのある声のような気がした。
 ホームに視線を巡らせる。さっき見たときと変わらず、のぞみに乗ろうとする客が号車ごとに列を作っている。さすがに平日は、スーツ姿のビジネス目的と思われる客が多い。
 ……ん?
 暗色の多い中に、少し異なる黒色の服装の人物がちらりと目に入った。黒の他に見えた白と青はもしかして……と思った矢先、人々の間をそれは抜け出してきた。見覚えのある姿がはっきりと視界に映る。
「東海道!」
 自分のような黒の制服と白い髪をした男が、今にも駆け出しそうな勢いでこちらに歩いてくる。彼の制服の腹回りと袖にあるライン状の刺繍は自分とは違い橙色ではなく、西日本を表す青色だ。
 山陽? 慌ててどうしたんだ……まさか、あいつの区間でトラブルか。この時間に遅延を起こすのは本当に勘弁なんだが……。
「東海道! あの、うわっ!」
「!?」
 俺と目が合った山陽がさらに歩く速度を上げようとして、盛大に転んだ。周囲の人間の一部が彼に振り向く。
 ったく、何してるんだ。
 俺は、うつ伏せに床に倒れこんだ山陽のそばに足早に歩み寄った。
「おい、山陽」
 呼びかければ、山陽はすぐに顔を上げた。自分よりも短い、一つに結った白髪が跳ねるように揺れる。
「東海道、ごめん……」
「まもなく、25番線に21時23発のぞみ64号東京行きが参ります」
 眉尻を下げて情けない表情で謝る山陽の声に、機械的な女性の音声が重なった。
 心配したが、よかった。列車は無事にきた。
「っ、東海道!」
 突然、山陽が焦った様子で声を張り上げる。
 俺は線路のほうに向けかけていた顔を山陽に戻した。
「開業日おめでとう!」
 ……は?
 山陽のまっすぐ真剣な黒茶色の瞳を見つめたまま、俺はきょとんとする。
 開業日おめでとう……? ああ、たしかに、今日は十月一日で、俺の開業記念日だが、もしかして、それを言いに慌てて来たのか……?
 それで、転んだ。それも運行中に。人間が多くいる中で。
「と、東海道……?」
 山陽の顔が少し不安そうになる。
 不注意に失態。しかも、仕事とは関係のない私情で。ここは叱りつけるところだ。
 ――いつもなら。
 俺はため息を一つ吐いた。右手を山陽に差し出す。
「ほら、さっさと起きろ」
「うん……」
 俺の手をつかんで、山陽は立ち上がった。
 低い走行音を響かせながら、左側の線路にのぞみ64号が入ってくる。21時20分、定刻通りだ。
「あの、ごめん、東海道」
 山陽が明らかに肩を落として控えめな声を出す。普段のような険しい表情も口調もしたつもりはないが、俺の胸中を幾分か察したようだ。
「どうしても今日中に君へお祝いを言いたくて……。今日はのぞみ64号に乗って、東京へ戻っちゃうって聞いたから慌てて……」
「おまえは本当にマメだな」
 山陽が東海道新幹線開業日に、俺に祝いの言葉を言いにくるのは今年が初めてではない。毎年のことだ。別に他の日でもかまわないのに、どうしても当日に言いたいらしい。
 それが原因でけがをして運行に響いたら、祝いどころじゃなくなるだろうに。まったく。
 俺はもう一度息を吐いて、山陽を起こした右手を相手の額の位置まで持ち上げた。
「東海道?……いたっ!」
 でこぴんを食らわせてやった。山陽がまた情けない表情をして、指で弾いた額を手でさするようにおさえる。
 俺は停車しているのぞみ64号に目をやった。
 客の乗降、乗務員の交代は終わったか。そろそろ発車の時間だ。
 山陽に視線を戻した。
「まだ今日の運行は残ってるんだ、さっさと自分の持ち場に戻れ。それと、ありがとな」
 途端、山陽の顔がすっかり明るくなった。
「東海道も、残りの運行気をつけて!」
「ああ」
 俺は笑顔を浮かべる山陽に背を向けて、のぞみ64号の列車に乗り込んだ。

   ◆

 のぞみ64号は定刻通りに東京駅に到着した。
 乗客が全員列車から降り、車両の扉とホーム可動柵が閉まるまでを見届けてから、俺は十九番線ホームの端へ向かった。
 立ち入り禁止の注意書きがある柵の前に、煉瓦調の石碑が置いてある。
 そこには、『一花開天下春』の言葉と人の顔の青銅製のレリーフがはめられている。眼鏡をかけた老齢の男に笑みはなく、一文字に結ばれた唇と前を見据える瞳に厳めしい印象を覚える。
 だが、俺は人懐っこいとはほど遠いその顔を見ると安心する。同時に、少しだけ悲しくなる。
「十河さん、ありがとうございます」
 俺は小さな声でそう言い、彼の人を数秒の間見つめると、踵を返して歩き出した。