祝、飯田線全通80周年 ‐1‐


「――以上が、信州デスティネーションキャンペーンと、貴方の全通八十周年で走らせる臨時列車およびイベントについてよ。何か質問はあるかしら? 飯田線」
 凛とした声音が正面から問うてくる。
 おれは呼吸を一回分意識してから返事をした。
「いいえ」
 たったそれだけのことなのに緊張が増して喉の渇きを覚えた。つい唾を呑み込んでしまいそうになるのを堪える。
「そう。なら、持ち場に戻っていいわよ。変更があったら随時伝えるわ」
「はい」
 椅子に腰掛ける相手に会釈をし、回れ右をして扉のほうに歩き出す。
「飯田線、くれぐれも中央本線とは喧嘩しないようにね」
「!」
 まるで不意打ちのように放られた言葉に、おれは驚いて動きを止めた。
 一歩前に進めていた片足を引き戻しながら、半身で後ろに振り返る。
「……はい」
 情けないかな、すぐに思いつけた答えはそれだけだった。しかも、声量は弱くなってしまった。
 辛い。
 居心地の悪さが限界に達して、おれは気持ち急いで扉に向かう。
「失礼しました」
 声が裏返らないように注意しながら、そそくさと執務室から退室した。
 最後にちらと見えた相手の顔は微笑んでいるようだったが……それが良いものなのかどうか、おれには判断がつかなかった。


 特徴的な電子音を鳴らしてエレベーターが一階に到着する。
 数人の人間達に続き、開いた両開きの扉からJR名古屋駅の改札方面に踏み出してようやく、強張っていた肩の力が緩んだ。駅ビルの出入口から入り込んできた冬の冷たい外気が心地いい。
 ……毎回のことだが、彼女と面と向かうのは苦手だ。
 JR東海主幹との話は長い時間ではなかったのに、心身にはじっとりとした疲労感がある。
 ……正直、国鉄のときのほうがこんなに緊張はしなかったな。
 息を吐きながらおれは思う。
 もっとも、それは国鉄の彼が親しみやすかったからというわけではなく、相対することがほとんどなかったからだ。基本的に連絡は東海道本線や人間の社員からで、直接会うことがあっても他の路線達もいて集会のような感じだった。決して気楽ではなかったが、東海主幹ほどこっちのことを視られている感覚はなく、気を張り詰める必要はあまりなかった。
 あの黒茶色の、理知的な双眸で見据えられると、どうしても畏縮してしまう。出会ってから三十年経ったが全く慣れない。
 ……でも、だからといって、彼女のことが嫌い、というわけではない。
 今も昔も変わることなく、毅然とした態度の東海主幹を思い返す。
 誕生したときから多額の負債を背負いながらも、弱々しい姿を一切見せずに、先頭でおれ達を導いている。進む先の難題や周囲からの圧力に屈さず、確実に結果を出すその手腕には感服する。
 ……私鉄だったときの自分にあれだけの力があれば、今は現在と違っていたのかも……。
 ふと浮かんだ考えに、おれは口元で自嘲した。
 何を今さら。そんなことを考えても無意味だ。
 沈みそうな意識をしっかりと前に向ける。
 引きずるような足取りになっていた歩みに力を込める。
 ……自分達の東海主幹のように。
「いたー! 飯田ちゃーん!」
 だが、十歩もいかないうちに、人々のざわめきに被さるように聞こえてきた突然の大声に、おれは思わず足を止めてしまった。
 無視するべきだったと気がついたときには遅かった。
 視界に、名古屋駅のシンボル的な金色の時計よりも目を引く、赤いネクタイを締めた濃紺色の制服が映る。結った髪を右肩から前に流した男が一人、器用に人波を縫ってこちらにやってくる。
 見間違えようもなく、メイだ。
「飯田ちゃん!」
 気づいたんだから大きな声で呼ぶな。
 しかし、ここで怒り返したらさらに目立つことになるから我慢する。ここから逃げても同じようなことになるだろう。
 ……あの、上機嫌な足の運びだけでもやめさせたい。
 周囲の目を気にしながら待つおれの真正面に、メイは笑顔で立ち止まった。
「飯田ちゃん、お疲れさま」
「なんで、おまえがここにいるんだよ」
 今いる場所はJRの名古屋駅で、名鉄名古屋本線である相手の名古屋の駅は少し離れた地下に置かれている。しかも、メイは金山駅から東側の豊橋方面へ行く担当で、名古屋は業務場所には入ってないはずだ。
「本社でミーティングがあったんだよ」
 朗らかにメイが答える。
「で、今日、飯田ちゃんも名古屋駅に行くって言ってたから、もしかしたら会えるかも?、って思って捜してたの。そしたら、こうして会えた! これはもう運命というしか――いたっ」
 はしゃぎ出したメイの頭を一発殴って落ち着かせる。
 こいつのことだから、そんなことだろうと大方予想はついていたが……ったく。
「くだらないことしてないで、ちゃんと仕事しろ」
「くだらなくないよ。わたしにとっては重要なことだよ!」
 どこがだ。そもそも、おれとおまえは豊橋駅でしょっちゅう会っているだろう。
 メイの考えは昔からよく理解できない。もっとも、完全に理解したいとは思わないが。
 疑問は流すことにして、おれはズボンのポケットから懐中時計を取り出して時間の確認をする。
 大丈夫。今から改札に行けば、慌てることなく新幹線に乗れる。
 有り難いことに、名古屋から豊橋までは東海道本線だけでなく、こだまの自由席限定だが東海道新幹線も無料で乗れるようにしてもらっている。一時間毎の本数は少ないが、在来線よりも確実に座れるし、乗り心地は申し分ないから、よく新幹線のほうを利用しているのだ。
「飯田ちゃん、名古屋での用事は終わったの? 今からどうするの?」
「用は済んだから豊橋駅に戻る」
 懐中時計をしまいながら答えると、ぐいっと右腕を引っ張られた。
「なんだよ」
 顔を上げると、メイがおれの腕をつかんだままでにこりと笑った。
「じゃあ、一緒に戻ろう! 名鉄で!」
「金がかかるから嫌だ。新幹線で戻る」
「えー! わたしが払うから! 名鉄で行こうよ!」
 メイは頬を膨らまし、ぐいぐいと強弱をつけながらしつこく腕を引っ張ってくる。
「ねえ!」
 ああ、うるさい。
 周囲の人間の何人かがこちらに振り向くのが目に入って、おれはうんざりとする。
「わかった、わかった。おれの乗車料金はおまえが全額払えよ」
「やったー!」
「っ、もう引っ張るな。手を放せって」
 言っても、メイは頑なに放そうとはせずに歩を進め始める。
 振りほどくか、と一瞬思ったが、これ以上周りの注目を集めたくはないため、おれはおとなしく同じ方向に足を動かすことにした。


 愛知県の地に生まれて長いから、名鉄の路線に乗ったことがないわけではない。この名鉄名古屋駅に来たことは何度かある。
 しかし、わかっていても、ここの様子を目にするとつい眉をひそめてしまう。
 警笛の鋭い音色がホームに響く。
 トンネルから赤色の電車が入ってきた。速度を落とし、人間が並んでいる複数の列のうちの一部の列の前に停車する。扉が開くと、人々が順番に車内へ乗り込んでいく。降りる客がいないのは、反対側で開いた扉から向かいのホームに降りていったからだ。
 発車を知らせるメロディと車掌の声が響き、電車の扉が閉まる。
 ゆっくりと電車が動き出す。徐々に加速して暗いトンネルの中に入り、駅を出ていく。
 車輪の音が消えて構内に静けさが訪れるが、それも束の間のこと。男の声で次発についての放送がかかり、すでに出来ている人の列が伸びて、別のところで新たな列が形成され始める。
 そして、五分と経たずに電車が入ってきて、また別の列の人間達を乗せて走り去っていく……。
 自分の路線とは違って複雑で忙しない様子に、なんだか腹の底がむずむずとしてくる。
「飯田ちゃん?」
 壁際に立って無言でホームを眺めていると、どこか心配そうな声でメイが呼んできた。
「心細いなら、もう一回手繋ごっか?」
 差し出されたメイの手を、今度は確実に叩き払ってやった。
「相変わらずここは面倒くさいな、って思っていただけだ」
「ああー」
 何のことかわかったらしいメイがホームを見やる。
「三面二線しかないからね。ここ、わたしも面倒くさくってあんまり好きじゃない。名岐の奴には、もうちょっと頑張ってほしかったよ」
 やれやれとばかりに肩をすくめるメイに、おれは呆れる。
「共有区間なんて作ったおまえがそれを言うか」
「あれはしょうがないよ。建設費の節約と豊橋方面への早期開通のためにどうしても……あっ、でもでも、わたしは全然面倒くさいなんて思ってないよ。今も昔も思ってないよ。むしろ、幸せだよ!」
「はいはい。おい、乗るのはあれか?」
 新たにやってきた、行き先表示が豊橋となっている白と赤の二色の列車を指せば、メイはうなずいた。
「うん。あそこの列から乗ろう」
 傍らから、懲りずにまた片手が伸びてきた。おれは無視して、示された列へと足を進める。
「あ、飯田ちゃん、まってよー!」
 おれとメイは、一番後ろの車両の乗務員室のそばに立ち乗りをする。
 座る?、とメイに聞かれたが、たとえ他社の路線でも乗客の席を奪うのは気が引けるから断った。
 電車が緩やかに発車する。
 地下から地上に出たところで、おれは前もってメイに言っておくべきことを思い出した。
「メイ」
「なになに?」
「七月から九月末まで信州デスティネーションキャンペーンと、八月におれの全通八十周年記念のイベントがあるから、その間はいつもよりも共有区間のことを任せるかもしれない」
 普段、名鉄との線路共有区間の路線担当は、管理をしている会社がJR東海とあっておれの受け持ちで、メイには二日以上長野のほうに行っているときやトラブルがあったときに代わってもらっている。予定を見る限り、期間中は例年と比べて向こうへ行くのが多くなりそうだから、一応先に伝えておくことにした。
 メイは嫌な顔をするどころか、逆に輝かせた。
「りょうかーい! そのときは任せて。で、飯田ちゃんの記念どんなことするの?」
「まだ公式に発表されてないから言えない」
「えー、うーん……、わかったよ……」
 わくわくしていたかと思えばたちまちしゅんとして、メイはおもむろにポケットから携帯端末を取り出して操作し始めた。視界の端に見える液晶画面に映っているのは、JR東海の公式サイトだ。
 いや、だから、まだ載ってないだろうって。
 やけに真面目な顔つきで画面を見つめるメイに小さくため息を吐いて、おれは反対側にある車窓に視線を転じた。
 一軒家に集合住宅、商店やビル、町並みが移り変わり過ぎていく。
 車内アナウンスが、そろそろ金山駅に着くことを知らせる。
 ――金山駅。ここから、路線の担当がメイに変わるのか……。
 おれはふと思い、同時に、名古屋本線という路線が二つの路線が繋がってできた路線だったということを思い出した。
 胸の奥がちくりと痛む。
 その理由を、おれは考えまいとして、目の前の景色に意識を集中させた。