祝、飯田線全通80周年 ‐3‐


「飯田線」
 電車から豊橋駅に降り立ったばかりの自分を呼んだ声の主は、意外な人物だった。
 おれは思わず、返事も歩み寄ることも忘れてその場で固まってしまった。
 ホームの壁際に立ってこちらを見ているのは、真っ白な長い髪が印象的な一人の男だ。半袖の白シャツに、金のシングルボタンのついた黒ベストといった装いは自分が身につけているものと似ている。だが、男のものには自社のコーポレートカラーである橙色のラインがベストの腹回りの他にシャツの袖の部分にも入っており、ネクタイの着用もしている。
 JR東海においてこの制服を着ることのできる路線擬人は、今現在たった一人しかいない。
 ――東海道新幹線。
 なぜ、彼がここにいて、自分を呼ぶ……?
 たしかに豊橋駅は東海道新幹線の停車駅でもあるが、ここは在来線のおれのホームで、彼と自分は今も昔も関係があまりあるほうではない。
「飯田線? おい、どうした?」
 東海道新幹線が怪訝そうに聞いてくる。
 おれは我に返って足早にそばに近づいた。
「東海道新幹線、お疲れ様です」
「お疲れさま」
「何か、おれに用事ですか?」
「ああ。待ってた。これを持て。行くぞ」
「えっ……」
 東海道新幹線は言い終えるや、足元に置いてあった紙袋をおれに渡して、さっさと改札に続く階段に向かい歩き出してしまった。
 受け取った紙袋と離れ行く相手を交互に見やる。
 わけがわからない。
 だが、無視するわけにはいかない。
 おれは自分の鞄の横に紙袋を持って、一つに結われた髪が揺れる黒い背中を追った。
「東海道新幹線、あの、行くってどこに……?」
「名古屋。東海主幹の執務室だ」
「東海主幹の……? 何かあったんですか?」
「詳しくは知らん。ただ、ちょうどおまえが豊橋に来るから、それとついでに一緒に連れてこいって言われただけだ」
 振り向くことなく東海道新幹線が答えた。
 後ろについて歩いているため表情は見えないが、その声色から彼の機嫌がよくないことが察せられた。
 もっと尋ねたかったが、おれはおとなしく口をつぐむことにした。
 機嫌は運行に影響する可能性がある。東海の路線の中で最も忙しい人物をあまり刺激したくはない。
 階段を上り、新幹線乗り場への乗り換え改札を通り、停車している名古屋行きのこだまに乗り込む。
 整然と青い椅子が並ぶ車内にはちらほらと乗客がいるだけだ。
「座っていいぞ。この時間は混みはしない」
 そう言って東海道新幹線が三列に並んだ椅子のほうを指さす。
 おれは示されたうちの窓側の席に座った。東海道新幹線は通路側に腰を下ろして、必然的に真ん中の席が荷物置きになる。
 ……これは、なんだろう……。
 おれは隣に置いた紙袋をあらためて見る。
 膝ほどの高さがある黒色無地の長方形で、口をしっかりテープで封がされているために中身はわからない。重さは片手で持ち上げられないほどではないが、それなりにあった。
 盗み見るように視線を紙袋から上に動かす。
 渡してきた当人である東海道新幹線は携帯端末を出して、無表情に操作している。
 本当に、この状況は何なんだろう……。
 据わりの悪い気分を覚えていると、新幹線がゆっくりと滑るように動き出した。
 名古屋駅に到着するまで約三十分。
 おれは胸中にもやもやとするものを抱えたまま、窓の外に視線を放った。


「失礼します……」
 東海道新幹線に続いて執務室に足を踏み入れた。
「あら、偉い。ちゃんと連れてきたのね」
 椅子に座った黒の短髪にスーツ姿の東海主幹の姿が視界に映り、聞こえてきた彼女の声によって緊張感が強くなる。
 だが、東海道新幹線は全くそうとは感じないらしい。
 どこか気怠そうに足を止めて、持っていた鞄を絨毯の上に置いた。
「そう命令したのはそっちだろ」
「それを放り出さなかったことを誉めたのよ。有り難く受け取りなさい」
「………」
 言い返されて、東海道新幹線は押し黙る。その横顔は不愉快そうに歪んでいた。
 対して、彼を見る東海主幹の顔には、なんだか安心できない類いの微笑がある。
 なんだこの、修羅場な感じは……。
 はらはらとする。ここに自分がいていいのだろうか。というか、居づらい。
 東海主幹を前にして、今回は一人きりではないのに安心できない。逆に、一人のほうが気楽なのではないかとさえ思えてくる。
「飯田線、ご苦労様」
「! はいっ」
 唐突に、東海主幹に流れるように視線と言葉を向けられて、おれは慌てて返事をした。
 東海主幹は、ついさっきの東海道新幹線とのやりとりなんてなかったかのように言葉を続ける。
「今日貴方に来てもらったのは、飯田線全通八十周年を記念したイベントについて伝えるためよ。この祝いの機会に飯田線の存在を多くの人に知ってもらうことと、沿線の観光PRを目的として、今月の二十九日と三十日に名古屋駅の中央コンコースで行うことが決まったわ」
 名古屋駅で飯田線のイベントか。珍しいな。
 あれ? ちょっとまてよ。今月の二十九日、三十日って……今日はたしか、二十四日のはずだ……。
 わいた疑問を解決する暇もなく、説明が重なる。
「内容は展示に記念品の配付、駅員や各関係者のトークショー、といったところ。詳しいことは、あとから渡す書類に書いてあるから読んでおいて。それで飯田線、貴方にはどちらかの日に一時的でいいから、イベントに参加してもらいたいの」
 さらに寝耳に水過ぎる。
 おれは今度はすかさず尋ねる。
「あの、具体的に、おれは何をすれば……」
「とくに決まってないわ。準備でもかまわないし……ああ、イベントで喋ってもいいわよ。トークショーやりたい?」
「いいえ、それは遠慮しておきます……」
「そう。これがイベントについての書類よ」
「はい……」
 東海主幹が差し出した書類を受け取る。
「それじゃあ、」
「ちょっといいか」
 不機嫌とわかる低い声音が東海主幹の言葉を遮った。
 こちらを見ていた黒茶の瞳が少し横に動く。
 おれも辿るように隣に向けば、東海道新幹線が両腕を組んで相変わらずむすっとした表情を作っていた。
「なんで、俺もここに呼ばれたんだ?」
 そういえば、そうだ。
 東海道新幹線の問いに、おれも不思議に思った。
 東海主幹の用件は飯田線についてのことだ。なのに、どうして東海道新幹線もここにいる? おれを連れてくるだけなら、もう彼の役割は終わったはずだ。
「どうしてだと思う?」
 東海主幹が東海道新幹線をまっすぐに見つめて聞き返す。
「………」
 東海道新幹線は視線を返すだけで答えない。先よりも眉間に皺を寄せて、真剣に考えているようだ。
 東海主幹の眼光がわずかに緩められた。
「五割は、なんとなくよ」
「おい!」
 東海道新幹線が弾かれたように怒鳴った。
 しかし、東海主幹は微動だにせずに話しを続ける。
「残りの五割は、これからのことを考えて」
 明らかに含みのある物言いだった。
 蚊帳の外だが、おれはその中身に強く興味を引かれた。
 当然、東海道新幹線も。
「これから?」
 東海主幹が人差し指を空中で線を書くように横に動かす。
「わが社の路線網はフィッシュボーンの形。だからこそ、その中で貴方を最も太い幹としてとらえ、そこから生える枝となる在来線からの利便性を考慮して運行ダイヤを組んでいるわ。今までは、在来線から新幹線へ乗るため、という考えを重視していたけれど、これからは逆も考えるべきだと思っているの」
「つまり、俺が在来線に客を連れてこい、って?」
「理解が早いわね。そのために、そろそろ在来線と親睦を深めなさい。貴方、東海道本線以外とはほとんど関わったことがないんでしょう?」
「………」
 東海道新幹線はしかめっ面で、唇を一文字に結んで何も答えなかった。
 東海主幹の言う通りだ。自分も、彼とは仕事以外のやりとりは記憶にない。
 ……ん? まてよ。これは、もしかして、おれにも言われてるのか……? 東海道新幹線と……。
「そういうわけだから、飯田線。イベント当日、東海道新幹線も何か手伝うからよろしくね」
「はっ、はい」
 まるで場の全ての流れを掌握しているような東海主幹への返事は、それ以外にできなかった。意見どころか疑問さえ、口にする勇気は出てこない。
「じゃあ、その紙袋を持って、二人で名古屋駅の事務室へ行って、イベントの打ち合わせをしてきて頂戴。今回のイベントは飯田線の乗務員の他に、新幹線の乗務員も参加する予定だから」
「はい」
「………」
 東海主幹の言葉を受けても、東海道新幹線は何も言わなかった。


 七月二十九日。
 豊橋駅よりも役割も規模も大きい名古屋駅だが、さすがに土曜日の早朝は人の姿はまばらだ。店も大半がまだ開店前だ。
 しかし、中央コンコースの広く空いた場所では、すでに飯田線全通八十周年記念イベントの準備が始まっている。
 飯田線の路線図と沿線の見どころが描かれた大きなパネルや、トークショーのためのミニステージ、豊橋から南信州にかけての観光地を紹介するスペースが設置されている。
 突然聞かされたイベントにしては、どれもしっかりとした物が用意されていて、妙な感心を覚えながらおれは、準備に動く人間達の中で先日の打ち合わせのときにいた駅員に声をかけた。
「おはようございます」
「おはようございます、飯田線。朝早くからありがとうございます」
「何か手伝えることはありますか?」
「では、ここのファイルを、こちらにあるパンフレットの袋に一枚ずつ入れるのをお願いします」
「わかりました」
 駅員に示された場所にはブルーシートが敷かれ、その上に複数の段ボール箱がいくつか積んで置かれている。
 おれはそのうちの一つを開けた。緑色の背景に飯田線で活躍した三種類の車両の絵が描かれたファイルの束が、ぎっしり詰まっている。今回のイベントで無料配布する記念品だ。
 ……これを、二日間で四千枚も配るのか……。
 東海主幹に渡された書類に記載されていたことを思い出して、軽く途方にくれた。
 ファイルはこれでもまだ一部なのだ。無料とはいえできるのか。桁が一つ多い気がする。
 有り難さよりも不安を強く感じながら、少し間をあけて横に積まれている段ボール箱の中も見る。南信州の観光パンフレットが入った透明な袋が同じように入っている。これに一枚ずつファイルを入れていくのだ。
 ……一箱で百セットぐらいか。
 おれは携帯端末で運行情報を確認してから、作業のために段ボール箱を一箱ずつ下ろして、その正面に座った。
 一枚でも多く貰ってもらえたら嬉しいな。
 そんなことを思いながら、ファイルを袋の中に入れていく。
「飯田線、おはよう」
「!」
 不意に後ろから呼び声が聞こえてきた。
 おれは作業の手を止めて、声のしたほうに振り向いた。
 橙色のラインの入った制服に身をつつんだ白髪の男が一人、立っている。
 おれは急いで立ち上がった。
「東海道新幹線、おはようございます。来てくださったんですね」
「やらないと東海の奴がうるさいからな」
 ため息混じりに東海道新幹線が言う。その表情は面倒そうではあるが、恐れや怒りといった感情はないように映った。
 先日も思ったが、東海主幹と彼との関係は不思議なものだ。仲が良いというか、馴れているというか、けれど親しいとは違うような……。とにかくおれや他の在来線の者とは違う感じがする。
「で、俺は何をしたらいいんだ?」
 東海道新幹線が辺りを見回してから、尋ねてくる。
「そうですね……」
 いくら東海主幹からの命令とはいえ、さすがに彼をここで長時間拘束しておくわけにはいかないだろう。
 おれは少し考えて、ファイルとパンフレット入りの袋をそれぞれ手に取った。
「ファイルをこの袋の中に入れるのを手伝っていただけますか?」
「ああ」
 嫌がる素振りもなく、東海道新幹線はあっさり返事をした。座り直したおれの隣に腰を下ろして作業を始める。
 ……つい、横目でその姿を見てしまう。
 東海道新幹線は開業する前から注目され、現在でも日本の大動脈と呼ばれる重要な路線だ。彼にはこういう雑務のようなことは似合わない印象を抱いていたが、意外なことに手慣れている。丁寧にてきぱきとやっていく様子に、なんだか感動に似たものを覚える。
 って、自分がさぼっていてはいけない。
 視線を前に戻しておれも作業を再開した。
 着実に、黙々と、目の前の作業は進んでいく。
 会話はない。簡単な作業だから話し合うことがない。仕事以外に東海道新幹線と何を話したらいいのか、わからない。
 東海主幹が、彼と在来線との親睦を深める、と言っていたが一体どうなるのか。未だにさっぱりだ。想像もつかない。彼のことは嫌いではないし、今なお続く活躍ぶりはすごいと思う。尊敬に近い。だからこそ、おれとしては、現在の距離感でも別にかまわないのだが……。
 奇妙な心持ちで作業を続けること約一時間。一見して多いなと感じた量も、二人でやると思っていたよりも早くに終えることができた。
 おれが終わった袋をブルーシートに置いてある他のそれらとまとめ、隣に目をやれば、ちょうど東海道新幹線も最後の一つを終えたところだった。
 東海道新幹線はファイルを入れた袋を、何を思ったのか、ひっくり返して反対側を見た。
「……長野県の飯田市には、『りんご並木』っていうのがあるんだってな」
「あ、はい」
 東海道新幹線が発した言葉におれは驚いた。
 彼の視線の先には南信州の観光パンフレットがあるが、見えている表紙の部分にはそのことは書かれてない。
 『りんご並木』は、四百メートルにわたって様々な品種のりんごの木が続く大通りで南信州の観光名所の一つだ。しかし、一般的に広く知られている場所とは言い難い。それに彼は名の通り、東海道を走る路線だ。
「よくご存じですね」
「……前に、リニアの奴から、土産のりんご片手に聞かされた」
「リニア中央新幹線が……。ああ、たしかに視察に来ていました」
 納得すると同時に、十歳ほどの溌剌とした少年の姿が脳裏に浮かんだ。
 東海道新幹線がこちらを見る。
「リニアに会ったことあるのか?」
「はい。中央新幹線の長野県の駅は、おれの路線の近くにできる予定なので」
「ふーん。そうか。なるほどな」
 深く一つ頷くと、東海道新幹線は手にしていた袋を完成品の一つに加えて、腰を上げた。大きな伸びをしたあと、新幹線の改札口のほうを見やってからおれに振り向く。
「じゃあ、俺は戻るから」
「あ、ちょっと待ってください」
 おれは立ち上がり、詰めた袋を一つ手に取って東海道新幹線に差し出した。
 仲を深める、ということに今のところ思いつくのはこういうささやかな接点をもつことしかない。
「これ、よかったらどうぞ」
 東海道新幹線は一瞬驚いたような顔をしてから、表情をやわらげて袋を受け取った。
「ありがとう」
「いえ。こちらこそ、お忙しい中ありがとうございました」
「頑張れよ。東海は、容赦はしないが悪い奴じゃない」
「え……」
 どうして、いきなり東海主幹のことを……?
 だが、戸惑っているうちに東海道新幹線は向きを変え、歩いて行ってしまった。聞き返すことを考えたときには、呼び止めるにはもう離れ過ぎていた。
 おれは、橙色と青色のゴムで結われた白い髪の揺れる後ろ姿を見つめる。
 しかし、彼が見えなくなるまで考え続けたが、最後の言葉の真意はさっぱりわからなかった。