豊橋駅の例のあれ


 どうしてこうなった。
 早朝の爽やかな陽光と空気に包まれた豊橋駅のホームで、おれは眼前を見据えたままで呆然とする。
 見間違いか。寝惚けているのか。それとも、ここはまだ夢の中か。
 そう疑って、目を瞬いたり、頬をつねってみたりしたが視覚は変わらず、むしろ痛覚が今は現実だと状況を突きつけてきた。
 それでも、ここにこんなものがあるなんて、やはり信じられない。
 おれはそっと目の前にあるものに指の先で触れてみた。軽く叩いてもみる。固い感触と音がした。
 本物だ。張りぼてでも、上からシールの類いが貼られているわけでもない。悪戯でもなさそうだ。
「……なんでだよ……」
 ならば、余計に意味がわからない。
 困惑して右手を体のほうに戻したとき、おれの耳に聞き慣れた声音が滑り込んできた。
「飯田ちゃん、おはよう!」
 明るい声のほうに顔だけで振り返れば、改札に続く階段を降りてこちらにやってくる、にこやかな表情をした一人の男の姿が見えた。
「……メイ……」
「なに? どうしたの? わたしの顔、何かおかしい?」
 普段のように挨拶を返すこともなく眉をひそめたおれに、歩み寄ってきたメイ――名鉄名古屋本線の東側の担当――が不思議そうに首を傾げた。
 何かおかしい、か。ある意味では現状にあっている。
「そうだな……おまえ自身は、おかしくはないな」
「?」
「なんだ。これのこと、知らないのか」
 疑問を深めた様子のメイに、おれは視線を正面へと戻した。言葉と目の動きで指し示した先には件のものがある。
「駅名標? あ、民営化後の新しいのだね」
「……おまえ、これを見て気づかないのか」
 呑気な応答におれが呆れ気味に返事をすれば、メイは「んー?」と唸りながら駅名標を疑問の面持ちで五秒ほど見つめてから、目を軽く見開いた。
 やっと、違和感に気づいたか。
「あれ……これって、飯田ちゃんのだよね?」
「違う。次の駅が『いな』って入ってるだろう。おまえのだよ」
「………」
 違和感の箇所を口にすれば、途端、メイは唇を閉じて真顔になった。駅名標を見据える眼は先程と違って鋭い。
 怒っているのか? まあ、それもそうか。前身の時代から直通や線路の共有をしているとはいえ、自分とこいつは今でも別の会社だ。こんな駅名標にされたらな。
 おれは納得して、国鉄からJR東海となってから新設された駅名標を改めて眺めた。
 白色がベースの長方形の立て看板には、中央上部あたりに駅名がひらがな表記で大きく書かれ、その下部には小さめな字体で漢字での表記、ローマ字、所在地が順に続く。ローマ字の背景にはライン状の、左上には自社のロゴマークがコーポレートカラーの橙色で配置されている。
 ぱっと見どころか、飯田線の次の駅を知らなければ、JR東海の駅名標にしか見えない。
 だが、さっき言った通り、これは違う。目の前の駅名標には、次が名鉄の駅である伊奈駅を示す名称が入っている。
 裏側の、自分が使っている二番線のほうを向いたものは停車駅がちゃんと自分の駅である『ふなまち』となっていることを考えると、これは間違えたのではなく、あえてこういう仕様にしたのだろう。
 豊橋駅が元は国鉄、今はJR東海の所有だからといって、少々やりすぎな感じがしないでもない。間借りしているといっても、名鉄はこれでいいのだろうか。
「……飯田ちゃん」
「なんだ。文句があるなら、おれじゃなくて人間の社員に言えよ」
 胸の奥から絞り出したかのような呼びかけに顔をそちらに向ければ、メイもほとんど同じタイミングでこちらを向いた。
 目が合う。その表情は真剣だ、と見えた矢先、急に相好が崩れた。
 瞳がきらきらと輝き、頬が赤く染まる。
「飯田ちゃん!」
「?!」
 えっ、と思ったときに遅かった。メイの両手が包み込むようにおれの手をつかんでいた。しかも無駄に力強く、簡単には振り払えない。
「おい、メイ――」
「わたしへの飯田ちゃんのプロポーズだね? はい、喜んで受けます!」
 どうしてそうなる。
「そんなわけあるか!」
 ぐいっと詰め寄ってきて興奮気味に高々と宣言したメイにおれは叫んで、相手の顔面めがけて腕を振り上げた。
「ぶっ」
 狙い通り、クリーンヒット。
 メイが後ろによろけて力が緩んだすきにその手からすり抜けて、おれは足早にそこから立ち去ることにした。
 うずくまったメイを視界の端でとらえても、罪悪感なんてわずかもわいてこない。
 ……まったく。出会って五十年以上経つっていうのに、なんであいつは変わらずああなんだ!
 呆れを含んだ苛立ちを覚えて、おれは暖まり始めた空気の中にため息をこぼした。

 そんなやりとりから、月日は流れて、二〇一六年の三月のある日。

「飯田ちゃーん!」
 豊橋駅のホームへ行く階段を降りている途中で、周りを憚らない大きな声で呼ばれた。
 メイだ。三番線と二番線の間にあるホームで、嬉々とした様子でこちらに向かって手を振っている。
 ……始業早々に何だ。
 こういう場合、おれにとっては高確率でたいしたことじゃない。けれど、ああいう状態のあいつは諦めが悪いことも、もう嫌というほど知っている。
 始発前で、まだ鉄道の関係者しかいないとはいえ、大声で何度も連呼されるのはごめんだ。
「なんだよ、朝っぱらから」
 おれが面倒を具現化させたような足取りでそばに行くと、わずかにも察した気配を見せずにメイは笑顔を広げた。
「飯田ちゃんに一番最初にこれ、見てほしくて」
 メイが三歩横に移動して元いた場所を片手で示す。そこには胸ほどの高さがある黒色の布がかかったものが一つ……ん? これ、もしかして駅名標か?
「それでは、お披露目しまーす! ぱんぱかぱーん!」
 わき上がった疑問を放つ時間もなく、テンション高くメイが布を勢いよく取り去った。
 現れたのは、長方形の白い立て看板。とても見覚えのあるそれは、予想した通りの駅名標だった。
 しかし、何か妙だ。おれが違和感を覚えたとき、その理由が明かされた。
「見て見て、ここ! ここ! 名鉄のナンバリングが入ったんだよ! これ、わたしが貼ったんだよ! 綺麗に出来たでしょ?」
 メイがはしゃぎながら人さし指で駅名標の右上の隅を指す。
 そこには、赤い四角に囲まれた『NH』と『01』の文字、その下には『MEITETSU』の社名。二回りほど小さく似たものが左下、次が伊奈駅であることを示す右横にもついている。
 名鉄が、この三月から駅ナンバリングを導入することは知っていた。
 知ってはいた、が……。
「なんで、看板はこのままなんだよ!」
 そこを突っ込まざるを得ない。
 せっかくJR東海仕様の看板を作り直すチャンスだったはずなのに、どうして既存のものにシールを貼りつけるだけにしたんだ。
 声を張り上げたおれに、メイは少しだけテンションを下げてさらりと応答してくる。
「それはしょうがないよ。許可とかお金とか、かかっちゃうし」
「……本線西が、あんなに不満そうにしていたのにか?」
「名岐の奴は昔からプライドが高いからねー。でも、わたしはこの駅名標大好きだよ!」
 ぱあっと顔を輝かせてメイが主張する。
「それに、ほら、名鉄のだってわかりやすくなったし」
 それは、たしかにそうだが……。いや、逆に、今まで気にされなかったものが目につくようになってややこしくなった気がしないでもない。
「あと、」
 言葉を区切ったメイの頬が赤く色づく。目尻が下がる。
 ……これは、面倒くさくなる兆候だ。
 おれは経験から察して、気持ち半身を相手から引いておく。右手を意識しておく。
 メイは、紅潮した顔に手のひらを当てて妙にうっとりとした様子で言葉を続けた。
「なんだかこれ、飯田ちゃんと入籍したみたいで照れちゃ――痛っ!」
 大体予想通りの科白だとわかって、おれは無言無表情でメイの頭を思いっきり叩いておいた。