鉄路を走る者(サンプル)

鉄道擬人化の小説です。
前にWebに掲載した話を加筆修正して収録しています。

 「鉄路を走る者」(東海道新幹線)

B6サイズ:28P(コピー本):100円
2019/08/12「コミックマーケット96」で発行


◆表紙と本文のイメージ
 

 


◆本文サンプル
鉄道の擬人である東海道新幹線についての話。
※本では縦書きになります

 異変は、突然だった。

 部屋から出ようとしたとき、焦げ臭いにおいを感じた。
「?」
 俺は扉に向かって踏み出したばかりの右足を後ろに戻して、事務室の中を見渡した。
 だが、視線を一巡らせしただけで足りる狭い室内には、発生源らしき煙も火の気も見当たらない。
 気のせいか?
 思い、俺はあらためて空気を嗅いでみた。
 違う。やはり、においがする。いけないものを燃やしたような、不快になるにおいが。
 鼻先で手を振ってみるが、不審なにおいは薄まるどころか逆に強くなる一方だ。
 中でないなら外か?
 俺は閉めきられた曇りガラスの窓に目を移した。しかし、原因が部屋の外にあるにしては騒ぎの気配もなく、四角い窓には怪しい影の一つも映らない。
 ……一体、何だ。
 不気味さと疑問で頭の隅がざわざわとし始める。
 この場所は名古屋駅の新幹線ホームの端に位置する事務室だ。近くに火の気なんてほぼないに等しい。なのに、焦げ臭い……?
 おかしい。これは、無視しておくことはできない。念のために新幹線の総合指令所と連絡を取ろう。
「……ん?」
 思い立って、ポケットから携帯端末を取り出そうとしたが、動かした右の手が急に熱っぽく感じた。
 引き寄せた手のひらを見下ろす。けれど、どこにも異常は見当たらない。動かしてみても痛みはない。
 重なる不可思議に眉を寄せながら、俺は携帯端末をその手につかんだ。
「! けほっ、ごほっ」
 突然、弾けるような乾咳がこぼれ出てきた。二度ではおさまらず、三度四度と続く。
「なんだ、よ……!」
 先程までは何ともなかったのに、今は喉の奥がいがいがする。
 と、ポケットに伸ばしている右手に振動を感じた。携帯端末のバイブだ。何か受信したようだ。
「けほっ」
 俺は引かない喉の違和感に顔をしかめながら、携帯端末をポケットから取り出した。
 ボタンを押せば暗かった画面に光が灯って、表示された赤色の羅列が真っ先に目に飛び込んできた。
 息を呑む。
 『沿線火災、発生』
 携帯端末の画面に映るその文字列が視覚からじわじわと脳に染み入って、不快感が恐怖へと変化する。肉体に感じる熱さとは逆に、背筋にひどい悪寒が走った。
「ぅ……」
 俺は崩れるように床へ膝をついた。足にうまく力が入らない。
 画面の赤い文字列を見ると、目に突き刺さるような痛みを覚える。
 携帯端末を握る手が小刻みに震えている。
「……しっかりしろ、しっかりするんだ……!」
 必至に自分に言い聞かせる。
 沿線火災なんて、初めてのことではない。これまでもあった。煙のせいで視界不良になって運転を見合わすぐらいで、設備が壊れることはなかった。だから、今回も大丈夫だ。恐れることはない。
 気を抜けば暗闇に落ちそうな意識を強くもって、携帯端末を操作しようとしたとき、着信が入った。切り替わった画面には、新幹線総合指令所、とある。
 震える指で携帯端末の通話ボタンを押して耳に当てれば、男のどこか強ばった声が聞こえてきた。
「東海道新幹線総合指令所の雨宮です。東海道新幹線、品川付近で沿線火災が起こりました」
「ああ……速報を見た。火災の状況は、どうなっている?」
 意地で咳をねじ伏せながら応答すると、相手の声ににじむ緊張感が強くなったように思えた。
「火災は線路そばのビルで起こっています。設備との距離が近く、煙と炎が迫っています。延焼する可能性があります」
 それで、か。
 俺は体に現れた異変の理由を理解した。火災の影響が今までに経験したどの沿線火災よりも強く出ているのだ。
 ――延焼の可能性。
 望んでいないのに脳が、線路設備を焼く炎の様子を鮮明に描き出して、恐怖が増す。
「っ、けほ、けほ」
「東海道新幹線? 大丈夫ですか?」
「……平気だ。火災がおさまるまで、運転を見合わせる。走行中の列車は、ただちに最寄りの駅に停車させる」
「了解しました。……あ、しかし、東京に向かっている列車が――」
 その先は聞けなかった。
 握っていた手から携帯端末が床に落ちてしまったのだ。
 何をしているんだ。拾わなければ。
 そう思うが、右手も左手もうまく動かせない。
 力を入れるどころか、全身から力が抜けていく感じがする。
「けほ、ごほっ、ごほっ!」
 咳が激しくなる。止められない。息が苦しい。
 視界が揺れ、明滅し、妙に薄暗くなる。
 ……だめだ。俺は、走らなければならない存在なんだ。顔を上げろ。前を見ろ。体を動かせ。こんなことで、屈するな。
 ――そうだ。新幹線、己がやるべきことをやれ。
「っ……しま、さん……」
 懐かしい人の姿が脳裏を過ぎったのを最後に、全てが黒一色に変わって、消えた。

   ◇

 大きな白の陰の中で小さな姿がうずくまり、泣いている。
「ひぐっ……」
 くぐもった声がこぼれる。
 涙が頬をつたって地面に落ちる。
「うっ、うっ……」
 体の奥からこみ上げてくるものがとまらない。
 目が熱い。胸が苦しい。頭の中がぐらぐらする。
「――新幹線? こんなところでどうしたんだ?」
 ふと耳に届いたのは、知っている声。
「ぅ、しま、さん……」
 うつむいていた顔を上げて、かすれた声で現れた人物の名前を口にする。
「ああ、目をこすってはだめだ。ほら」
 折り畳まれたハンカチがそっと濡れた目の下に当てられた。
 柔らかな肌触りに不思議と不快な熱さが引いていく。
「島さん……」
 少し落ち着いた声でもう一度その人の名前を呼べば、
「どうした? 何かあったのか?」
 優しい声と眼差しが聞いてくる。
 一つ呼吸を置いてから、涙がこぼれる理由を、胸に渦巻く疑問を、言葉に変えた。
「僕、いらないって……。『新幹線』なんて、いらない、むだだって……言われた。僕は、走っちゃいけないの……? いらないの……?」
「そんなことはない。おまえは、この時代、これからの時代に必要な鉄道だ」
「島さん……」
 すぐに返ってきた言葉は真剣で穏やかで、胸の苦しさが楽になる。
 けれど、不安は消え去らない。安心すると同時に、自分を忌まわしげに見下ろす人達が脳裏を過ぎって、再び気持ちが沈んでしまう。
「でも、僕……わっ」
 不意に視界が高くなった。
 そばにある白色の車両の窓がいつもよりも近くにある。抱き上げられたのだ。
 戸惑いながら自分を抱えている人のほうを向けば、力強い視線が返ってきた。
「新幹線」
 大きな手が小さな手をとって車体に触れさせる。
「おまえを必要ないと言った者は、まだおまえのことをよく知らないだけだ。そういう者達に教えてあげろ。走って、走り続けて、『新幹線』がどういう存在かを」
 語りかけてくる声に、硬く滑らかな感触に、乱れていた頭の中が気持ちがすっと静まっていく。
 そして、涙の代わりにわき上がってくるのは温かな感情と望み。
 ――走りたい。新幹線として、走っていきたい。
「うん。僕、がんばる」
 笑顔を返せば、その人もうなずいて笑った。