序章のはじまり[ヘイムダル編]1


 気がついたら、ヘイムダルはそこにいた。見覚えのないそこに立っていた。ついさっきまで何をしていたのか、なぜか全く思い出せない。どうして自分がここにいるのかもわからない。
「ここは……どこだ?」
 ヘイムダルはややかすれた声でつぶやいて、深紫の双眸で周囲を見回した。辺りの景色をとらえていくにつれて、寝起きのようにぼんやりとしていた彼の表情が、怪訝なものに変化していった。
 そこは真っ白な場所だった。四方の全てが汚れのない白色で、その他には何もない。
 純白に満ちたそこに、ヘイムダルは爽やかさよりも薄気味悪さを感じながら、右手を眼前に伸ばしてみた。視界にははっきりと自分の肌と衣服がうつった。濃霧に包まれているわけではないようだ。慎重に二、三歩進んでみると、靴裏からは固い感触がつたわってきた。だが、視線を落としても見えるのは自分自身を除けばやはり白色のみで、床もわからなければ影さえなかった。さらに妙なことに、光源といえるものはどこにも見当たらないのに、白色は四方八方、鮮明に視認することができた。
 状況を把握すればするほど異様さが際立つ空間に、ヘイムダルはかすかな目眩を覚えた。騒ぎ出そうとする心を、深呼吸することでどうにか落ち着かせる。
 ……これは、夢だ。自分は、悪い夢を見ている。
 どこか願うように、漠然とそう思ったとき、背後から強い風が吹きつけてきた。全身にぶつかってくるような風に、ヘイムダルは堪えきれずに一歩分ほど前によろめいた。彼の絹糸のようにさらりとした薄紫色の髪が、激しく暴れて視界を遮る。通り過ぎていく風の音は、まるで獣の唸り声のように耳元で低く響き――途端、ふっと無音になった。同時に、体に当たる風の感触も消えた。
 四肢の自由が戻ってきたことに、ヘイムダルは短く息を吐き出して、体の力をゆるめた。だが、安堵するかたわら、違和感も覚えていた。
 今のは、風が止む、という感じではなかった。唐突に周囲から絶ち消えたような、消滅したような、そんな感覚だった。
(それだけじゃない。あともう一つ、ある。なにか……)
 そこまで考えたとき、はっとしてヘイムダルは頭部に手を伸ばした。そして、掌からつたわってきた事実に息を呑んだ。触れた髪は乱れていなかった。
 強風にあおられた感覚は、簡単に思い出せるほどはっきりと残っている。自分の髪が鬱陶しいぐらいに視界を妨げていたのも、記憶している。それなのに、髪には風の影響を受けた様子が全くなかった。
 ヘイムダルは腹の底に冷たいものを感じながら、もう一度注意深く周囲に視線を走らせた。すると、ちょうど真後ろを向いたとき、道があるのを見つけた。最初に見回したときは、確かに白一色だったと記憶しているのに、今は眼前に平らにならされた地面がある。だが、その現れた道もまたおかしかった。まっすぐ伸びている道は、少し行ったところでぷっつりと切れて、その先は白色に変わっている。両端も、ヘイムダルが両腕をいっぱいに伸ばしたほどの幅で地面はその色を失っている。
 やはりこれは夢だ、気味の悪い幻想だと、ヘイムダルはあらためて思った。のんきにこんな夢を見ている場合ではない。自分はアースガルドの見張り番なのだから、早く起きなければいけない。
 そう自分自身に厳しく言い聞かせるが、周囲の状況はちっとも変わらなかった。何度か目を閉じて開いてみたが、相変わらず眼前にはおかしな道があり、その他は全てが白い。
 ヘイムダルはやや絶望的な気分にとらわれながら、じっと道を見つめた。ここを行く以外に選択肢はないと、どこか諦めるように本能がすでに答えを出しているが、気持ちは全くすすまなかった。
 躊躇して立ち尽くすヘイムダルの耳元に、不意に誰かが囁きかけてきた。ぎょっとしてヘイムダルは声のしたほうへ振り向いたが、誰もいない。他の方角にも視線を向けてみたが、人影は見当たらず、気配さえなかった。だが、幻聴というには、自分の名前を呼んだ、男とも女とも区別のつかない中性的な声音がはっきりと耳に残っている。
「行く、しかないか……」
 決意というには若干弱々しい口調でつぶやいて、ヘイムダルは慎重に足を踏み出した。
 歩き出してみると、その道は見た目の他にも、おかしな点があるのに気がついた。目でとらえるかぎり、道の末端は白色に変わっているのに、いくら歩いても足下の地面が一向になくならないのだ。眼前の景色は変わらず、土色の終わりにはたどり着かず、まるで進んでいないかのような錯覚に襲われる。
 ヘイムダルは一度立ち止まり、後ろを振り返ってみた。すると、長く続いているはずの背後の道は、進む方向と同じく、少し伸びた先で白色に変わっていた。
「………」
 ヘイムダルは無言で顔を少し歪めると、前に向き直って歩みを再開した。説明できない出来事の連続で、この空間にたいして驚くという感覚が徐々に麻痺してきたのを、頭の隅でぼんやりと感じていた。
 おかしな道は、ただただまっすぐに続いている。相変わらず周囲はどこまでも白く、足下は平らな土色ばかり。どこへ向かっているのか、この道はどこまで続いているのか、どれだけ歩いたのか、ちっともわからない。
 変化の乏しい景色に、ヘイムダルの思考は辺りの警戒よりも、ここはどこなのか、どうして自分はこんなところにいるのか、だんだんとそんな疑問に流れていく。だが、いくらそれを自問自答したところで答えが得られるはずもなく、憶測さえ浮かばなかった。悪夢として片づけてしまえたら手っ取り早いのに、夢にしては覚める気配が一向にない。しかし現実にしては、起こる出来事が幻想的過ぎている。この場所に立っていた前のことがわかればどうにかできるかもしれないが、意識の一部は未だに霞がかっていて、思うように記憶を引き出すことができなかった。
 苛立ちと不快から、ヘイムダルは悪態を吐きたい衝動に駆られながらも口を固く閉じて、邪魔な曇りを払おうと必死に思考を回転させる。
 ここにくる前、自分はどこにいた? 何をしていた? どうやってここにきた? どんな理由でここにいる……?
 しかし、記憶の像は多少色づきはしても、不安定に漂うだけで一向に形をなさなかった。
 ヘイムダルは方法を変えてみることにした。自問しても浮かんでこないのなら、まずは自分で描いてみたらどうだろうか。それを取っ掛かりにして導き出すのだ。
 本来、自分がいるべき場所である、神の世界アースガルドを思い描く。青々とした草原が広がり、木々は豊かな葉を抱いて、美しい意匠が施された建造物が建ち並ぶ。空は抜けるように青く、空気は澄んでいて、風はそこに存在するものの間を優しく通り過ぎていく。自分はそんなアースガルドの出入り口のそばにいて、内と外の音を聞き、やってくる者の姿を見ている。
 不意に脳内に描いたそこに、意識とは関係なく黒色が割り込んできた。像は徐々に大きく鮮明になり、他の色も加わって、ヘイムダルはそれが見知った人物だと気がつく。熱をもたず消えることのない赤色の炎がたゆたう虹の橋ビフレストを、長い黒髪を揺らしながら渡る彼の顔はなぜかこわばっている。その両腕には大事そうに抱えているものがあるが、それだけはいくら近づいても何であるのかわからなかった。うつむきがちだった彼の顔が上がり、やや緑みの強い碧眼がこちらに向いた。
「ロキ」
 ヘイムダルの口から、一つの名前がこぼれ出た。ただしそれは、頭の中の像に向けて発したものではなかった。
 気がつけば、白色だけだった道の先に、『彼』がいた。背を向けて立っているが、ヘイムダルには目の前の黒髪の人物が自分と同じアース神族のロキであると一目でわかった。
 この不可思議な場所で、仲が良くないとはいえ見知った人物に出会うことができて、ヘイムダルの表情から緊張が薄れる。
 気に入らないところは沢山あるが、頭の良さではアースガルドで一、二を争う奴だ、この場所に関して何か知っているかもしれない。そう思い、自然とヘイムダルの歩調は早くなる。
 近づくヘイムダルに気づいたのか、ロキがゆっくりと振り返った。記憶のとおり、空や海の青とは異なる碧色の瞳と視線が合う。
「おまえのせいだ」
 突然耳に入り込んできた低い声音に、ヘイムダルは反射的に立ち止まった。すぐにはあれが自分に向けて言われたものだと、ロキが言ったものだともわからなかった。
 ヘイムダルはかすかに眉をひそめて、探るようにロキを見つめた。眼前の彼の顔は無表情に近いが、その双眸の奥には、息をひそめて機をうかがう獣の眼に似た光がちらついている。先程の言葉には、明らかに悪意や殺意といった負の感情を含み、からかいや冗談とは思えなかった。しかし、ヘイムダルには彼が自分の何を咎めているのか、思い当たるものがない。
「俺のせい……? 何が、どういう意味だ、ロキ」
 困惑気味に聞き返したとき、正面から風が吹いてきた。今度は髪を揺らす程度の微風だが、鼻先に漂ってきたにおいにヘイムダルの頭の芯が揺らいだ。すぐにそれが何であるのかに気づき、ヘイムダルは軽く青ざめて息を呑む。好んでかぎたくはない類の、生き物の本能を刺激するそのにおいは、間違いない、血臭だ。
 一体どこからかと、根元を探して視線をさまよわせたヘイムダルは、ロキの右手に先程まではなかったはずの剣が握られていることに気がついた。新たに発生した視界の像に、嫌な汗が額ににじむ。漂う血のにおいが濃くなったような気がした。
 ロキが手にした剣の刃には、赤黒い液体がべっとりと付着していた。ときおり、ぽたりと剣の先から滴り落ちる血液に、ヘイムダルは妙に胸騒ぎがしてならなかった。
 ……あれは誰の血、なのだろうか。
 そう思った直後、波打った金色が視界の端にうつった。汚れた刀身から引きはがすようにヘイムダルが視線を金色に移すと、その正体がわかった。
 白色のそこに無造作に広がっているのは、ゆるやかに波打った長めの金髪だ。髪をたどっていくと、まぶたを閉じた若い女の横顔があった。
 ヘイムダルは全身の血液が一気に下がっていくのを感じた。眼前の女には見覚えがある。彼女の名前が脳裏に浮かぶ。
 深紫の瞳が女から血で汚れた剣に戻り、やがてロキへと注がれる。
 じりじりと灼かれるような焦燥感にとらわれながら、ヘイムダルがかすれた声を発した。
「ロキ、そこに倒れているのはシギュン、だろう……? なにが、あったんだ」
 しかし、待っても返答はなかった。ロキは鋭い意思を感じさせるが、どこか虚ろな印象をも受ける碧眼を向けてくるばかりで、眉一つ動かさない。
 ヘイムダルは彼の後ろに倒れているシギュンに、もう一度目を落とした。その肢体は微動だにしない。眠っているように見える顔はどことなく青白い気がした。視線を手前に戻すと、赤黒い血が暴力的なまでに視界に飛び込んでくる。それらの情報だけで、ヘイムダルの頭の中に一つの推測が浮かぶ。考えれば考えるほど心地の良くないそれを否定してほしくて、深紫の瞳をロキに向けた。
 すると、沈黙を有していた彼が動いた。
 ひやりと、殺気がヘイムダルの全身をなでる。
(まずい……っ)
 はっとしたときには、揺るぎない戦意をともなってロキが踏み込んでくるところだった。
 彼の俊敏さと眼前の光景への戸惑いから、ヘイムダルの反応は遅れた。危険を察知したときには、血色をおびた刃が間近で見えた。
 がきっ、と固く鋭い音が耳を打つ。右腕に重い振動が走り抜ける。
 だが、痛みはない。
 ヘイムダルが我に返ると、振り下ろされたロキの剣は、眼前に差し挟まれた別の剣によって防がれていた。
 ……いや、違う。ヘイムダル自身で、右手に持っている剣によって受け止めていた。
 剣を抜いた覚えもなければ、体を動かした覚えも、ヘイムダルにはない。ましてや、その剣に見覚えすらない。しかし、視界には確かに二つの刃が交差していて、手からは柄の感触と重みがつたわってくる。
 何が、どうなっているのか。
 困惑する思考の中に、鋼の滑る音が響く。腕にかかっていた力がふっと消えた。
 今は疑問について考えている場合ではない。ヘイムダルは数々の謎を一旦頭の隅に置いて、新たなロキの一撃を今度は意識的に受けた。彼が普段から愛用している二刀流の剣とは長さや構えなどは異なるが、焦ることなく的確に手元の剣を操る。
 ヘイムダルはつばぜり合いには持ち込まずに、ロキの剣をはじき返した。
 攻撃には転じなかった。相手は自分を殺そうとしているかもしれないが、自分が相手をそうする気にはなれなかった。
 ヘイムダルにとって、ロキはもっとも気に食わない奴だが、だからといって安易に殺してしまいたいと思うほど、短絡的な思考は持ち合わせていない。出生や素行はどうあれ、今は同族である人物と、理由も知らずに生死をかけて剣を重ねるのは己の主義に反する。
「ロキ」
 鋭く名前を呼んでヘイムダルが戦いの中止を訴えるが、ロキの応えは鋼の鋭い一閃のみだった。
 ヘイムダルは舌を打ち、相手の剣を自分のそれで受け流す。
(どうすればいい、どうしたら終わらせられる……?)
 焦るヘイムダルの耳元で、不意に誰かが「殺せ」と囁いてきた。脳を麻痺させるような甘く鋭い中性的な声音に、思わず呼吸が乱れて、手元が狂いそうになるのをなんとかおさえる。
 しかし、囁きはもう一度、呪いのように彼の脳髄を刺激する。視界と思考がぼやけて、心が中身をなくしたように軽くなる。危険だと本能が警告するが、それすらも、かたわらで口を開けた黒々とした何かに呑み込まれ、意識は意思に関係なく徐々に閉ざされていく。
 急速に輪郭を失い、闇に侵食されていく目の前の世界に、ふと、青とはいえず緑ともいえない色彩だけが鮮やかに浮かび上がってきた。それが何であるのか、ヘイムダルが思い出した途端、失いかけていた五感が一瞬のざわめきをおびて戻ってきた。
 ヘイムダルはとっさに体を動かした。すぐに視界の端に、赤黒く染まった鋼が横切っていくのが見えた。間一髪のところで、ロキの攻撃を避けたのだ。
 しかし、安心してはいられなかった。感覚は戻ったが、強く意識して踏みとどまっていないと、足下をすくわれてしまいそうな危機感が未だにある。不安定なこの状態で、もしまた同じことが起こったら、次はかわせるだろうか。
 わきあがる不安のせいか、ヘイムダルは喉を絞められているかのようなひどい息苦しさに襲われた。それが彼の思考に乱れを生み、心にかすかなすきを作った。狙ったように入り込んできた囁きが先程よりも強い力で、ヘイムダルの頭の芯を揺さぶる。
 ――ロキを殺さなければ、自分が殺される。
 ――殺してしまえ。
 どくんと、心臓が大きく高鳴る。異様な浮遊感が心身を包む。
 眼前のロキの姿が、いやにはっきりと視界にうつる。
 そう感じた直後、音が、光が、色が、思考が、ヘイムダルから消え失せた。
 ほんの一瞬の沈黙ののち、彼がはっと我に返ったときには、自分の剣がよろめいたロキに向かって振られようとしていた。
 ヘイムダルは慌て左手で右腕をつかみ、無理矢理刃の軌道を変える。鋼の先端はぎりぎりのところで、ロキの体の前を通り過ぎた。
 だが、それで危機が過ぎたわけではなかった。後先を考えずにやった行動のために、ヘイムダルの体勢が崩れかける。
 足下をふらつかせる彼に、容赦なくロキが刃を向けてくる。
 大気を切り裂いて迫る切っ先を、今度は避けきれない。
「っ……!」
 ヘイムダルは体を痛めるのを覚悟して、迫りくる相手の剣に横合いから己のそれを叩きつけて、力ずくで突きの狙いを外させた。甲高い金属音が辺りに響き、右腕をひどい痺れが襲ったが、ヘイムダルは歯を食いしばり、どうにか体勢を立て直すと、続けて相手を下がらせるための攻撃を素早く繰り出した。思惑どおり、ロキは剣を引いて後ろに飛び退いた。
 相手を追うことはしなかった。ヘイムダルは汗ばんだ手で剣の柄を握り直す。深紫の瞳を一秒たりともロキから外さない。心身が切実に休息を求めているが、戦いは終わっていない。一体どうすれば、どちらも傷つかずに終わらせられるのか。
 浅い呼吸の中で、ヘイムダルは必死で思考を働かす。囁きがすきをみて、自分をほの暗い底へと突き落とそうとしているのを感じる。早くこの状態を脱しなければ、疲弊しきった精神と肉体はいつ崩れてもおかしくはない。
(説得は……無理か)
 見据えてくる碧眼は鋭く、ロキは未だに闘争心を失ってはいない。
(なら……)
 ヘイムダルの頭に一つの方法が浮かぶ。それは荒っぽく、失敗すればどちらかが大怪我、もしくは死ぬ可能性が高いが、もはや穏便に事をおさめることができる方法は思いつかなかった。のんびりと考えている余裕もない。
(やるしかない)
 ヘイムダルは意を決し、地を蹴った。
 迫る彼を、ロキは退くことなく正面から迎え撃つ。
 二人の間に、打ち付けあう鋼の音が響き、火花が散る。形を変えながら、二つの刃は重なっては離れるのを繰り返す。
 耳元で誰かが囁きかけてくるが、ヘイムダルはそれに意識を傾けないようにして、とにかく眼前の攻防に集中した。
 機会は一瞬、きっと一度しかおとずれない。
 ヘイムダルは横薙ぎにされたロキの剣をはじいて受け流す。そして、そのまま攻撃に繋げようとして……やめた。
 普通なら追撃を警戒して退くところを、ロキが堂々と踏み込んできたのだ。彼特有の、傍目には無謀としか思えない剣術の型を無視した動きに、ヘイムダルはつとめて冷静に対処する。振り下げられた剣を受け止めると、巧みに刃を滑らせて相手の動作の乱れを誘った。
 しかし、ロキはそれを読んでいたのか、的確な足さばきで揺らいだ重心を安定させると、斜めに切り上げてきた。
 ヘイムダルはとっさに剣を引いて半歩下がる。直後、鈍い銀光が視界を横切った。
(いまだっ)
 大きく振るった攻撃の影響でロキの防御がおろそかになったのを見計らい、ヘイムダルは相手の間合いに躊躇うことなく踏み込んだ。ロキが反応するよりも早く、彼の剣の腹に狙いをすまして己の剣を大きく跳ね上げた。鋭い衝撃が腕から肩にまで走り抜ける。耳をつんざく音色にまざったうめき声は、どちらのものか。一瞬の重みと固い感触ののちに、ヘイムダルの剣がふっと軽くなった。視界から、半身を赤黒く染めた鋼が小さくなって消え、一呼吸ほど遅れて、からん、という硬質な音が耳に届いた。
 すかさずヘイムダルは、武器を失ったロキに拳の一撃を入れた。もちろん急所は外し、相手が戦意をなくす程度の力で。しかし、ロキは苦悶の表情と、体を痛みと苦しみに揺らしただけで、その眼光から鋭さを失うことはなかった。反撃しようとする彼に、ヘイムダルは舌を打ち、己の剣を自ら後ろに投げ捨てた。片腕だと取っ組み合いでは不利、かつ、一歩間違えば刃によってどちらもひどい怪我をする可能性があると判断したからだ。
 碧と深紫の瞳が、至近距離で絡まり合う。
「ロキ!」
 ヘイムダルが鋭く強く彼の名前を呼んで、腕に力を込める。
 正面からの力比べはどちらも同等。二人はもつれあい、互いに大きく体勢を崩した。
 浮遊感とともに、ヘイムダルの視界がぐるりとまわる。様々な色の像が急速に流れていき、ついには真っ白に変わり、自分の位置を見失った。
 このままではまずいとヘイムダルは焦ったが、どうすることもできなかった。
 息がつまるほどの衝撃が全身を襲い、彼の意識はそこでぷっつりと途切れた。