序章のはじまり[ヘイムダル編]2


 起きろ。夢を見ている場合じゃない。眠っている時間はない。早く目を覚ませ。でないと――
(殺される……っ)
 目の前の闇が割れて、ヘイムダルの視界にどっと色の洪水がおしよせてくる。まぶしさに思わず開いたまぶたを閉じかけるが、晴天の昼の陽光よりも弱い明るさに、深紫の瞳はすぐになれた。
 目覚めたばかりのかすんだ意識で、ヘイムダルは遠くに見える硬質な灰色が石造りの天井だと気づき、自分がどこかの建物の中で横たわっていることをぼんやりとだが理解した。
「やっと、起きたか」
 耳に滑り込んできたため息混じりの声に、ヘイムダルは誘われるまま右へ顔を動かして、目を瞠った。視界に入ってきた、くせのない長い黒髪や緑がかった青色の瞳が、彼の意識を一気に覚醒させた。どこまでも続く奇妙な白色の空間、そこにいた彼、その手にある血のついた剣、足下に倒れた彼女……いつかの映像が次々と脳裏によみがえってくる。
「ろ、っ――」
 眼前の人物の名前を口にしようとして、ヘイムダルは喉に違和感を覚えて咳き込んだ。内側からではなく外側から多少の圧迫感をともなってずきずきと痛む。片手で喉に触れてみたが、外傷らしいものはなかった。しかし、痛みのせいで息苦しくて喋りにくい。
 どうしてこんなところが痛むのか。気にはなったが、今は喉の痛みの原因よりも注意を向けないといけないものがある。ヘイムダルは呼吸が完全に整うのを待たずに半身を起こすと、あらためて彼に視線をやった。
 ヘイムダルから五歩分ほど離れた位置、扉の横の壁にもたれて座っているのは、紛れもなくロキだった。はっきりと彼であることを認識して、ヘイムダルに緊張が走るが、すぐに奇妙なことに気がついた。
 目の前のロキからは殺気や戦意の類を感じなかった。碧色の瞳には獣のような鋭い眼光はなく、表情も険しくない。そのかわり、どことなく疲労を含んでいるように見えた。
「なんだ」
 無言の視線に、ロキが不愉快そうな声を上げる。
「いや……」
 ヘイムダルは濁った返事をして顔をそらした。
 何かおかしい。何かひっかかる。
 ロキにたいして抱いた奇妙な感覚に疑問をもち――すぐに答えを導き出した。
(そうか。あれは……夢、か)
 先程から頭の中にちらついてしょうがない、白色の空間での出来事。あれは現実ではなく気味の悪い夢だと結論づけると、ロキへの違和感に納得がいった。剣戟の手応えも抱いた感情もしっかりと残っているが、現実の感覚にふれてくる夢というものは以前にも見たことはある。あそこで起こった出来事を思い返すと、夢であることが徐々にしっくりとしてきた。
 警戒を続ける必要はないとわかり、緊張が解ける。ヘイムダルはゆっくりと安堵の息を吐いた。少しずつ喉の違和感も消えはじめ、気分も落ち着き、ようやく周囲の状況を把握する余裕がうまれた。
 ヘイムダルが見回して確認したところ、倒れていたそこは狭く四角い閑散とした部屋だった。天井、壁、床は全て同じ灰色の石で組まれて、壁掛けや敷物といったものはなくむき出しの状態だ。灯りは天井からつり下げられた質素な作りのものが一つだけで、放たれる光はこの空間を照らすのが精一杯というほどに弱々しくて頼りない。窓はなく、天井近くの壁に小さな通気口があるだけで、外の様子は何もつたわってこない。出入り口はロキの横にある、少し大きめの木造の扉のみ。室内に調度品は一切なく、二人の人物だけというがらんとしたその部屋は実に寒々しい。室温が身をすくませるほど低くはないのが、唯一の救いだろうか。
 しかし、この部屋がどこの建物の一室なのか、ヘイムダルにはわからなかった。見覚えも心当たりもない。ここはどこで、どうして自分はこんなところで寝ていたのか。
「ヘイムダル」
 わきあがる疑問に顔をしかめたヘイムダルを、突然ロキが呼んだ。
 ヘイムダルは考えるのを中断して、視線を室内からロキに移した。だが、自分から注意を引いたというのに、いくら待ってもロキはあれ以上何も言ってこなかった。一度だけ口を開いて話す素振りを見せたが、すぐに一音も発することなく閉じてしまい、あとはただまっすぐ碧眼を向けてくるばかりだ。
「ロキ?」
 ヘイムダルが訝しんで声をかけるが、返答はない。
 何のために自分を呼んだのか。何を言おうとしたのか。何度うながしてもかんばしい反応は得られず、ヘイムダルは不審の念を強くする。
 しかし、同じ問いをこれ以上繰り返しても空振りが続くだけのような気がして、質問を変えることにした。
「ロキ、ここがどこなのか知っているか?」
「………」
「俺は……俺達は、どうしてこんなところにいるんだ?」
「………」
 だが、どちらの問いにも、ロキは何も応えなかった。うなずいて肯定することもしなければ、頭を横に振って否定することもしない。
「ロキ」
 名前を呼ぶヘイムダルの声に苛立ちが混ざりはじめる。
 聞こえていないわけでも、無視をしているわけでもないことは、まっすぐ見つめてくる相手の目からわかるが、応答をしない理由はさっぱりわからなかった。
 奇妙な沈黙を守るロキにたいしての適当な言葉や対応が思いつかず、とうとうヘイムダルも口を閉ざした。
 戸惑いと不快さが入り混じった異様な沈黙が、二人の間に落ちる。
 無言の空気を破ったのは、意外なことにロキだった。だが、ようやく彼から発せられたのは、今までの問いかけにたいしての答えではなかった。
「……間抜けだな」
「なんだと?」
 脈絡なくつぶやかれた悪しき言葉に、ヘイムダルは眉根を寄せて、発言の真意を確かめるようにロキを見つめた。
 ロキは冷ややかな笑みを浮かべて、さらに悪意を吐き出す。
「そうだろう。自分の置かれている状況さえ、ろくに理解できていないなんて。そんな奴が神々の見張り番だって? 聞いて呆れる」
「おまえ――」
 そこで思い直して、ヘイムダルは続くはずだった言葉を呑み込んだ。現状を考えて、今はいつものように口喧嘩をしている場合ではないと判断したのだ。
 高ぶった意識を落ち着かせてから、ヘイムダルはあらためて口を開いた。
「ロキ、何を知っているんだ? おまえは何か知っているんだろう?」
「………」
 その質問になると、途端にロキの発言は止まってしまった。
 ヘイムダルは諦めるように嘆息すると、彼から深紫の瞳をそらして立ち上がった。
 このままロキに訊いていては埒があかない。ヘイムダルは自分自身で調べることにした。
 動かずとも簡単に全体を見渡すことができるこの部屋に、手がかりになりそうなものはない。ならば、室外に出てみるしかないだろう。
 そう判断して、ヘイムダルは扉に向かい歩き出したが、その行く手を無言でロキが遮った。
 立ちはだかる彼の心理が読めず、ヘイムダルの胸中で怒りと戸惑いが絡み合い、渦を巻く。
 先程からのロキの行動の意味が理解できなかった。眼前の彼の言動は、普段のそれとは明らかにおかしい。しかし、目からは確かな知性を感じ、思考している様子があるため、何者かに操られているようには思えなかった。まさか偽物、ということはないだろう。それとも、これも夢の続きなのだろうか。
 ヘイムダルは考えたが、結局現状ではロキにたいしての答えは出なかった。
 ただはっきりしていることは、この部屋の扉は彼の後ろにしかない、ということだ。
 ヘイムダルは眼光を鋭くして、低い声で言う。
「ロキ、そこをどけ」
「断る」
「どうしてだ?」
「………」
 何度目かの無言に、ついにヘイムダルは怒りを行動に表した。ロキの胸倉をつかんで、真正面から睨みつける。相手も、負けじと視線を返してくる。
 間近でロキの双眸を見据えて、ふとヘイムダルは妙なことに気づいた。見返してくる碧の瞳は鋭さを含んではいるが、今までの言動から考えると宿る気迫が薄いように感じた。どことなく作り物じみている印象さえ受ける。なぜだろうかとヘイムダルは考え、さらに気がついた。そこにあるのは怒気だけではない。喜怒哀楽というよりは、意思に近い何かがある。それも喧嘩腰の態度には似つかわしくない、冷静さをともなったものだ。
 ――ロキは口を介さずに、何かを伝えたがっている。
 ヘイムダルは直感でそう確信する。しかし、彼が具体的に何を伝えようとしているのかまではわからなかった。
 服をつかんでいる腕をロキが乱暴に払い除ける。
 勢いを失ったヘイムダルはされるがまま、拘束をあっさりと解いた。再び詰め寄ることもせず、彼が伝えようとしていることは何か、考えを巡らす。だが、当惑と焦りが強くなるだけで、一筋の光明さえ見出せなかった。
 黙して立ち尽くすヘイムダルに、ロキが屈折した笑みを浮かべて言う。
「のんきにこんなところにいていいのか、ヘイムダル。おまえが自分の意思じゃなく、アースガルドの外にいるのがどういうことか、わかっているんだろう?」
 その言葉からヘイムダルは、ここがアースガルドではないことと、自分が何者かによってここに連れてこられたことを知った。
 ロキが言わんとしていることは、深く考えるまでもなくすぐにわかった。見張り番の任をもつヘイムダルを、アースガルドから不在にしたがる理由は一つしかない。また、そんなことを画策する奴も。
 ――アースガルドに危険が迫っている。
 だが、ヘイムダルは冷静さを失わなかった。アースガルドには力のある他の神々、トールやチュール達がいる。自分がいなくとも、すぐには大事にはならないだろう。
 それよりも、己が今最も向き合うべきなのは、この状況だ。とくに、ロキ。目の前の彼についてはまだ情報が足りず、どうしてこんなことをするのか推測すらできていない。
 ヘイムダルは相手の一挙一動に注意を払いながら、自分の考えを口にする。
「アースガルドの護りを弱めてそこを突く気か……巨人の仕業だな。それで、おまえはそいつらの仲間なのか、ロキ?」
 あえて名前の部分を強調して疑問を投げかけると、ロキは一呼吸分の沈黙ののちに、どこか挑むような答えを返してきた。
「……そうだと、言ったら?」
 ヘイムダルの心が波立つが、すぐに平静を取り戻す。返事を真に受けてはいけない。彼の言動には別の何かがある。そう自分に言い聞かせ、ヘイムダルは冷静に対応しようとしたが、発した声から棘を完全に抜くことはできなかった。
「馬鹿なことを言うな。そこをどいてくれ、ロキ。俺はアースガルドに帰らなければならないんだ」
「断ると、さっき言っただろう」
「ロキ」
「……ヘイムダル。どうして俺がここにおまえといると思う?」
「どうして? それは……」
 問いの指し示す意味が心の奥まで染みてきて、ヘイムダルの声が詰まる。嫌な考えが頭をもたげる。
「単におまえと会話するためにここにいると、そう思っているわけじゃないだろう?」
 ロキの右手が体の後ろにまわる。間をおかず、硬質な音がヘイムダルの耳に届き、視界に抜き身の短剣が入ってきた。氷のように冷えた輝きを放つそれに、悪寒が走った。
 ヘイムダルの手が無意識に腰へと動いたが、そこに目当てのものはなかった。丸腰という状態を認識して、心臓の鼓動が一段と速くなる。室内に武器になりそうなものは見当たらない。
 絶体絶命の四文字がヘイムダルの脳裏をかすめるが、すぐにそうではない可能性に気がついた。
 最初からロキが殺すことを前提にここにいるのだとしたら、自分が目覚める前にすでに実行していたはずだ。そのほうが手っ取り早いし、何より己の身に危険が少なくてすむ。そうしなかったということは、彼は本気ではない。
(だとしても、これはどういうことなんだ?)
 恐怖が幾分か和らいでも、ヘイムダルのロキへの疑念や戸惑いは強くなる一方だった。
 彼に殺す気はないとして、この状況で自分は一体どう振る舞えばいいのか、全くつかめない。
 一見するかぎり、短剣を抜いたのは単なる冗談ではなさそうだ。ロキに刃をおさめる様子はない。この戦いの延長線上に、彼の意図するところがあるのか。
 今までの不可解な言動に、目前の戦い。そんなことをするロキの理由と目的。そして、彼が自分に伝えようとしていることは一体……?
 そのとき、肌に異様なひりつきを感じて、ヘイムダルの思考が中断する。
 今まで培ってきた戦闘のかんから、ヘイムダルが上体を後ろにそらした直後、ひゅっと空気を裂く音とともに、銀光が視界を横切った。
 警告なしの斬撃に、冷や汗が背中をつたう。
 ロキが武器を手に取ったのはただの見せかけではないことが明らかになって、抱いていた安堵が跡形もなく消え去った。
「ヘイムダル」
 怒気は感じないが穏やかでもない声が、ヘイムダルを呼ぶ。
 耳を傾けないのを許さないという響きをそこから感じ取って、ヘイムダルは視線と意識を眼前のロキに集中させた。
「死にたくなかったら、この短剣を奪って俺を止めてみせろ」
 その挑発にヘイムダルは眉をひそめた。彼らしくない言葉だと思った。普段のロキなら、もっと他人の心をひっかいて逆なでするような台詞を選ぶはずだ。
 そこに何かあるのでは、と直感がヘイムダルに鋭く囁いてくるが、ゆっくりと考えている時間はなかった。
 先よりも強く、空気が張り詰める。
 銀色の流れを目でとらえるよりも先に、ヘイムダルが動くと、半歩下がった彼の胸の前を切っ先が通り過ぎていった。
 気を抜く間もなく、ロキが手首を返して、次の攻撃を繰り出してくる。
 三撃目もヘイムダルは紙一重で避けて、自分がどれだけ不利な状況下にあるのかをあらためて実感した。
 武器がないためなかなか攻撃に転じることができない。盾の代わりになるものもなく、防御は相手の刃をかわすしかないが、ここではそれすらも難しい。
 狭い室内は大きく動けばあっという間に背後に壁が迫るため、逃げ場がなくならないように、逐一計算して足を運ばなければならない。機会があれば扉まで行くことを考えていたが、ロキも巧みなもので、ヘイムダルが短剣を避けてそこへ行けないように攻撃を仕掛けてくる。
 ロキの手には迷いもぶれもなかった。一振りは力強く、命中したら大怪我は免れないだろう。だが、戦術としては、ヘイムダルの行動範囲を狭めていることを除いたら、ひどく単純だった。だまし討ちもなく、ただ攻撃に攻撃を重ねてくるだけだ。足運びさえ注意していれば、紙一重で避けることができる。
 ロキの力量を知るヘイムダルは、めりはりのないその戦法にすぐに違和感を覚えた。
(わざと……か?)
 色々と疑問は残るが、戦い方から察するに、やはりロキの目的はヘイムダルを殺めることではなさそうだ。この戦いは別の何かを狙って行われている。
 ふと、ヘイムダルは先程の挑発を思い出した。ロキらしくない言葉。そして、単純な攻撃。
(……短剣を奪え、ということか?)
 奪ったあとはどうするのかは不明だが、今は考えているよりもわかったことをするほうが賢明だろう。
 ヘイムダルは避けながら機をうかがう。だが、なかなかここぞというところが見出せない。
 短剣を奪えと示唆したわりには、ロキの太刀筋は見事で、一向にすきがうまれない。一手を計るかぎり、もしもヘイムダルが失敗したら、攻撃を調節してくれそうには思えなかった。
 徐々に焦りがつのる。機会がくるまで、この攻防をずっと続けるには無理がある。攻撃側のロキよりも、防御に徹するヘイムダルのほうが蓄積する疲労が多く、このままだと体力の限界を先に迎えるのは明白だ。
 ならば、危険だが、自ら相手の攻撃の乱れを誘うしかない。
 ヘイムダルが傷を負うことを覚悟したとき、ロキが短剣を今までよりも大きく横に薙いだ。連撃で調子を崩したのか、それともヘイムダルに機会を与えたのか。銀光が去ったあと、ロキの懐ががら空きになる。
(いまだ!)
 ロキには悪いが、多少の殴打には我慢してもらわなければならない。
 ヘイムダルが右足を踏み出す。
 いや、そうしようとした瞬間、ぞくりと全身が粟立った。
(まずい……!)
 本能が警告する。これは罠だ、と。
 とっさにヘイムダルは膝を折った。身を屈める瞬間、左頬に熱気を感じた。切られたとわかったが、痛みはわずかで傷は浅いと判断して、かまわずに体を右側に倒した。そのまま床を転がって、ロキから離れた位置で素早く跳ね起きる。
 ……ロキは、やはり自分を殺す気なのではないか。
 そんな疑念が脳裏に浮かぶほど、今の一撃は危なかった。一瞬肌に感じた、あの灼けるような気配。あれが本気の殺気だとは思いたくない。
 わきあがる悪い考えに震え出しそうになる体を叱咤して、ヘイムダルは次にくる一振りに意識を集中する。
 だが、喜ぶべきか、予想は外れた。
 ロキは離れたヘイムダルを追うことなく、その場にとどまっていた。かすかに顔をこわばらせ、手元の短剣を凝視している。まるで自分のした行動が自分自身で理解できない、信じられないといった様子だ。
(なんだ……?)
 今までのロキの不可解な言動が、ヘイムダルの脳裏によみがえる。そして、目の前のどこか動揺した様子。
 ヘイムダルの中で何かが繋がりそうになるが、顔を上げたロキと目が合った瞬間に彼から惑いが消えたのを見て取って、思考を頭の隅に追いやった。