序章のはじまり[ロキ編]9


「ロキ神」
 ヴァラスキャルヴの門にロキが近づいていくと、声をかけるより先に門番が名前を呼んできた。
「謁見の間でオーディン様がお待ちです」
 先の大鴉がロキの帰還を主人に伝えたのだろう。
 門番の言葉にロキは驚くでもなく、ただ短く返事をするとヴァラスキャルヴの中へ入った。
 相変わらず品よく美しく飾りつけられた内部を玄関からまっすぐに進んでいき、緩やかな階段を上りきったところで一度足を止める。
 ロキは気を引き締めて、深呼吸して心を落ち着けると、眼前にある両開き式の扉に手をかけた。
「思っていたよりも元気そうだな、ロキ」
 扉の先、謁見の間にロキが入ると、馴染みのある声音が正面奥から響いてきた。
 普段口にしている形式だけの挨拶を省略して、ロキは声のほうに足を進めた。
「本来なら労わるべきなのだろうが、先に戻ってきたヘイムダルの話を聞くかぎり、今のおまえにはその資格はないようだな」
 巨大な空間の奥にある玉座から少し離れたところでロキが立ち止まると、眼前の豪奢な席に腰かける白髪隻眼の男が再び口を開いた。その表情は微笑んではいるが、ロキを見下ろす灰色の片目は冗談の気配をはらんではいなかった。
「何があったのか話してもらおうか、ロキ」
 オーディンに求められ、ロキは話した。余分な感情を込めず、淡々とした口調で、ヘイムダルとともにさらわれたときのことから順を追って報告した。悩んでいたビューレイストのことも、処罰を覚悟して明かした。
 話の最中、オーディンは簡単な質問を挟むだけで、表情も声も一切変化させることはなかった。スルトの用事を口にしたときでさえ、さっぱり感情が読めない態度を保っていた。
 ロキが話し終えると、謁見の間にはどこか張りつめた沈黙が落ちた。
「………」
 碧眼を玉座の主神に向けて、もう何も言うことのないロキはただ黙して相手の反応を待った。
 オーディンが最初に話題にすることは何だろうか。やはり自分がビューレイストのことについて隠していたことか。
 居心地が良いとはいえない空気の中、妙にやきもきとした気分でロキが突っ立っていると、おもむろに視線の先の唇が動いた。
「ロキ」
 名を呼ばれ、ロキの体に微かに緊張が走る。
「スルトについて、おまえはどう思っている?」
「……なんで、そんなことを訊くんだ」
 危惧していた話題とは関係のない台詞だったが、問われるとは予想しておらず、ロキの表情に戸惑いが浮かぶ。
 意図のくみ取れなかった疑問について彼が聞き返すと、オーディンは相変わらず心中が読み取れない表情と声色で答えた。
「おまえは直にスルトと話をしている。その『協力』という話が信用できるかどうか見極めるために、おまえの意見を聞きたい」
「………」
 ロキは一旦口を閉じて考えた。
 オーディンの言ったことは確かに最もだと思ったが、あの言葉には他にも何か意図が込められているような感じがした。スルトのことだけではなく……そう、自分についても探られている気がした。
 ロキとスルトの関係についてオーディンは何も知らない。ロキ自身が彼に話そうと思ったことがないからだ。もちろん、現在もそんな思いは微塵もない。
 ロキは慎重に言葉を選んで返答する。
 ムスペルとの関係を疑われて罰せられるのも嫌だが、自分が適当に答えたせいで協力を取りつけられなかったら、スルトからは文句を言われるだけではすまないことが容易に想像できたからだ。
「……スルトの言葉が信用できるかできないかっていうのなら、信用できる、と俺は思う。スルトは、ムスペルヘイム以外の土地にさして関心がない様子だったし、敵意らしいものは感じられなかった。……それに、実際に目にしたが、あの力は放っておいたら危険だ」
 ビューレイストやアングルボダとの出来事を思い出して、ロキの表情が苦く歪む。
「そうか」
 それだけ言って、オーディンは目を閉じて沈黙した。
 先よりも重く深い静寂に、ロキは強い焦燥を感じる。だが、思考する相手に声をかけるのははばかられた。うまく気分を紛らわすこともできず、耳が痛くなるような静けさをじっと耐える。
 ややあって、灰色の瞳が再びロキをとらえた。
「ムスペルと協力、か。前例がなければ、考えたこともない話だな。しかも、現段階で問題となるものの全貌はわからず、相手とは言葉だけで信用を抱けるほどの間柄ではない」
「………」
「だから、ロキ、とりあえずこの件はおまえが動け」
「……は?」
 一言前の言葉を聞いて、てっきり断るのかと思っていたロキは、何を言いつけられたのかすぐには理解できなかった。
 気の抜けた声をこぼして呆けた様子の彼を愉快そうに眺めながら、オーディンは先程の言葉をわかりやすく噛み砕いてもう一度告げた。
「スルトの話の件に、アース神族は協力する。だが、現状はいまひとつ信用と情報に欠けるため、まずはおまえが一人で事に当たれ。と、こういうことだ。わかったか、ロキ?」
 いくら軽い調子で訊かれても、当事者にとっては「はい」などとあっさり返事ができる内容ではない。
 ロキは驚きのあまり何度か声をつまらせた後、ようやく胸中の疑問を絞り出した。
「……どうして、俺なんだ?」
「ちょうどいいからに決まっているだろう」
「ちょうど、いい……?」
 復唱しても、さっぱり意味がわからなかった。
 顔をしかめるロキに、オーディンはまるで世間話をするような気軽さで理由を話す。
「何をするのか、問題となっているものがどんなものなのか、おまえはすでに知っているだろう。橋渡し役に選ばれたということは、おまえがそれなりに相手から信頼されているということでもある。それに、追放された人物のほうが外では何かと行動しやすいだろう」
「……ちょっとまて」
 台詞の後半にとんでもないことを耳にした気がして、ロキが確認するようにオーディンに問う。
「さっき……『追放』って言わなかったか?」
「ああ。おまえには今回の件の罰として一時的にアースガルドから出て行ってもらう」
 さらりと言い切られた言葉に、ロキはひどい衝撃と困惑を隠せなかった。
「なっ……まて、おかしいぞ。追放されるっていうのに、どうやって仕事しろっていうんだ? 無理だろう、そんなの……!」
「落ち着け、ロキ。追放処分といっても表面上だけだ。……まあ、アースガルドにしばらく入れないのは同じだがな」
「だから、どういうことなんだ!」
 言葉の真意が解せずに、ロキが少し苛立った声を上げる。
 彼の荒ぶる感情を受け流しながら、オーディンは淡々と詳細を語った。
「おまえからの話によると、スルトは今の時点ではできるだけ周囲には内密に行動しているらしいな。だとしたら、こちらもそうするべきだろう。全体像が見えていないうちは、あまり派手に動かないほうがいい。連絡は心配するな、ムギンとフニンで可能だ。他の者達にはおまえは一時的に追放ということにして接触させないようにする。だから、おまえはアースガルドを出て、事の真相を探ってこい」
「………」
「不満か? だが、これはおまえへの処罰でもあるんだぞ。理由はどうあれ、報告に際しての隠し事と嘘には目をつむることはできないぞ、ロキ」
 それを言われてしまうと、ロキが拒否を示すことはできなくなった。
「……わかったよ。俺がやればいいんだろう」
 ため息混じりに、ロキが承諾する。
 オーディンの己の思考を隠すような微笑が、どこか満足げな笑みに変わった。
「なら、ロキ。出立は明日な」
「……明日?」
 唐突な言葉にロキが軽く目を瞠る。
「早いほうがいいだろう。他の者に余計な詮索をされる前に出て行くべきだ」
「………」
 オーディンの言い分は理由としては納得できた。だが、一ヶ月以上ぶりに戻ってきた者を一日の休みもなく追放するのはどう考えてもひどくはないか。
 さすがにこれにはロキは返事をせず、抗議の視線を向けた。
 たいして、オーディンも引かず、無言で見返してくる。
 しばしの沈黙と緊張の末に、
「……わかった」
 折れたのは、ロキだった。今の彼に、普段のようにオーディンとやりあえる元気は残っていなかった。
「明朝、おまえの家に使いをやる。それまでゆっくり体を休めておけ、ロキ」


(また面倒なことになったな……)
 ヨツンヘイムから戻ってきたせいだけではない疲労を感じながら、ロキは自宅への帰路を歩んでいた。
 スルトからの用事が終われば、どんな形であれ面倒事から解放されると思っていたのに、まさか処罰と称して仕事を押しつけられるとは想像にしていなかった。しかも、一番相手をするのが面倒な奴と関わりながら、どう考えても楽ではない仕事をしなければならなくなるとは……。頭痛がするどころではない。
 明日からの己を思い、気だるい体でロキはため息を吐いた。
「――…とさーん!」
 そのとき、うつむいた彼の耳に誰かの声が滑り込んできた。
 通い慣れた道を足が動くままにほとんど無意識で歩いていたロキは、前方からやって来るものにたいして全くの無警戒だった。
「っ……!?」
 聞こえてきたそれが何であったのかを把握する前に、腰の辺りに鈍くて重い衝撃が走った。少しだけよろめいて、ロキは足を止める。
 突然のことに彼が顔をしかめて違和感のあるところに視線をやると、四つの青色の瞳と目が合った。
「帰ってくるのおそい!」
「今まで何してたの!」
「……なんだ、おまえらか……」
 走って飛びついてきたのは、ロキの息子のナルヴィとナリだった。
 子供達の姿を認めるなり、ロキは面倒そうな顔を作って、今度は小さくため息を吐いた。
「もう、お父さん!」
「せっかくぼくたちが出迎えてあげたのに!」
「ひどい!」
「ひどーい!」
 明らかに煩わしげな態度をされて、二人はむっと唇をとがらせてロキにつめ寄る。
「一ヶ月以上もどこで何してたのさ!」
「ぼくたち心配したんだからね!」
「ああ、もう、うるさいな。とりあえず、離れろ。歩けないだろう」
 口々に言葉をぶつけてくる子供達に、ロキの表情も不機嫌のそれに変わる。
 しかし、ナルヴィとナリは見下ろしてくるやや鋭さをおびた碧眼や低くなった声音に全く動じる様子はなかった。
 それどころか、
「『おそくなってごめんなさい』も言えないお父さんは!」
「お母さんにしかってもらおう!」
 ロキの言葉を聞き入れず、彼の腕を二人で片方ずつ両手でしっかりつかむと、走ってきた道を戻り始めた。
「おい、こら! 危ないだろ、手を離せ……!」
 自分の胸ほども身長がない子供が相手といっても二人がかりのため、ロキは振りほどくことも立ち止まっていることもできず、引っ張られるままに歩みを進める。
 前を行く二人の足取りは引かれる側のことを全く考えていない容赦のないもので、足の運びに集中していないと転んでしまいそうだ。
(心配してたのなら、少しは労れ……!)
 そんなロキの思いがくみ取られることは結局なく、転倒することだけはなんとか避けて、三人は目的地である自宅に着いた。
「お母さーん!」
「お父さん、帰ってきたよ!」
 玄関の扉を開けると同時に、ナルヴィとナリが家の奥に向かって声を張り上げる。
「おまえら、着いたんだからもう手を離せ……」
 ロキの不満の言葉が、不意に途中から妙に弱く小さくなって消えた。
 碧眼が自然と子供達から奥から現れた人物に移る。
 緩やかに波打つ金色の髪に、自分をとらえる澄んだ青い瞳。
(……シギュン)
 彼女の姿を目にした途端、ロキの表情から苛立ちが抜け落ちた。
 無事だということは、ヘイムダルから教えられてすでに知っていた。それでも、実際に元気を取り戻した姿を目にすると、胸の深いところから熱く息苦しくなるような感情が一気にわき上がってきた。
 ロキはとっさに何か言おうと思ったが、震える心に邪魔をされて言葉を発することはできなかった。
 視線を向けたまま呆けたように立ち尽くす彼に、シギュンがほんのりと頬を朱に染めて微笑む。
「おかえりなさい、ロキ」
「……あ、ああ……ただいま」
 耳を打つ心地よい声音にロキはなんとか唇を動かすことができたが、不自然に視線を外しながらのまごついた返事をするのが精一杯だった。
 せっかくの再会の第一声にしてはひどく味気のない応答だったが、シギュンの笑みは楽しそうに嬉しそうに深くなった。
「疲れたでしょう。何か飲み物でも用意するわね」
「ん……」
 先に家の奥に行くシギュンに歯切れの悪い返事をしてロキも歩き出そうとしたが、ふと自分の現状に気づいて足を踏み出すのを止めた。
「どうしたの?」
「お父さん?」
 彼の視線の先で、母を追おうとしていたナルヴィとナリが不思議そうに振り返る。その手は未だにロキの両腕をつかんだままだ。
「……ナルヴィ、ナリ」
 ほんの少し黙考してから、ロキは二人に言った。
「外で遊んでこい」
「えー」
「やだぁ」
 突然の言葉に、ナルヴィとナリは不満そうに顔を歪めてロキの腕を引っ張る。
 駄々をこねる息子達に、ロキは素っ気なくさらに言い放った。
「俺は疲れてるんだよ。今日はもうおまえ達の相手をしている元気はないんだ。俺の休息の邪魔にならないように外に行ってこい」
「………」
「………」
 何を思ったのか、二人はそれぞれ無言でシギュンがいる家の奥と傍らのロキを交互に見ると、しぶしぶといったように手を離した。
「しかたないなぁ」
「けんかしちゃだめだよ」
 そして、むっとした顔でそう言い残して、二人そろって家の外に出て行った。
「………」
 幼い背中を見送ったロキは、彼らの言いように軽い頭痛を覚えながら、シギュンがいるだろう居間に足を進めた。
「あら、ナルヴィとナリは?」
「外に行った」
 一人で入って来た彼を見て小さく首をかしげたシギュンに、ロキは短く返答すると長いすに腰かけた。
 少しして、シギュンが持ってきた麦酒の入った杯を受け取り、口をつける。
「何か食べるものもいる?」
「いや……」
 酒精で胃の奥が熱くなるのを感じながら、ロキは視線でシギュンに自分の隣に座るようにうながした。
「………」
 シギュンが長いすに腰を下ろすのを横目で確認して、もう一口麦酒を飲む。
 話をしようとして彼女を座らせたはいいが、何からどう切り出したらいいのか、ロキはいまさらになって悩んでいた。
(普通に……話せばいいんだ……)
 自分に言い聞かせても、思考の整理はなかなかつかない。
 まずは帰ってくるのが遅くなったことを詫びるべきだろうか、それとも体調について訊くべきだろうか。遅くなった理由は何と言おう。仕事のことがあるから全ては話せない。……ああ、そうだ。一時的に追放されることも話さなければならない。
「ロキ」
 中身が半分ほどに減った杯を見下ろしながら悶々とロキが考え込んでいると、シギュンが呼びかけてきた。
 ロキが顔を向けると、一点の曇りもない青い瞳がじっとこちらを見つめていた。
「シギュン……?」
「ありがとう」
「っ……」
 彼女から贈られたのは、やわらかい微笑みと感謝の言葉だった。
 しかし、ロキは息をつまらせて表情を暗くした。再び顔をそらした彼の心にはうずくような痛みが走っていた。
 自分には感謝を受け取れる資格などない。シギュンをあんな目に遭わせたのは、不注意だった自分自身なのだから。
 自責の念に駆られて、ロキは卓の上に置いた手を強く握り締めた。
(……謝らないとな……)
 わき上がってきた苦しい思いにそう決めて、ロキが彼女の名を口にしようとしたときだった。
 白く細い手がまるで包み込むようにして、固く握られた拳に触れた。
 碧眼を見開いてロキがシギュンを見ると、温かく優しい笑顔がそこにはあった。
「あなたがミッドガルドに連れて行ってくれて、とても嬉しかったわ……。私が倒れたとき、すごく心配してくれたんでしょう?……ありがとう、ロキ。あなたが無事に帰ってきてくれて……こうしてまた触れることができて、私、とても幸せよ」
「………」
 まっすぐ語られたその言葉に、ロキは不思議と罪悪感が薄れ、心が温まっていくのを感じた。
「……シギュン」
 名前を呼んだロキは、彼女に謝罪をしようとは思っていなかった。それよりももっと伝えたいことがあった。
 ロキの片手がそっとシギュンの頬に触れる。
 惹かれ合うように、互いが互いの瞳をとらえる。
 しばらくの間、二人は何も言わずに見つめ合っていたが、ゆっくりとロキが動いた。
 シギュンが瞼を閉じる。
 吐息がかかるほどの距離まで顔が近づき、やがて、二人の唇が重なる――
「お母さん!」
 前に、家の扉が勢いよく開く音と大声が室内に響いてきた。
 ロキは驚いて動きを止めて、シギュンは目を開いて玄関のほうを振り返った。
「お母さん! ナリが転んでけがした!」
「平気だもん……! これぐらい何ともないもん……!」
 居間に届く声のうちの一つは、明らかに強がりだとわかるほどに震えていた。
「ナルヴィ、ナリ! 今行くから待ってなさい!」
 シギュンは慌てて長いすから立ち上がると、棚から救急箱を取り出してすぐに玄関へ走って行った。
 ややあって、子供の泣き声やシギュンのなだめる声が、居間に独り取り残されたロキの耳に聞こえてくる。
「………」
 ロキは重いため息を一つ吐くと、もやもやとした気持ちを流すように残りの麦酒をあおった。


 子供達の乱入があって、結局、ロキとシギュンが二人きりで再び話せるようになったのはナルヴィとナリが眠った後、深夜近くになってからだった。
 色々と考えた末にロキが彼女に話したのは、今回の出来事の処罰として一時的にアースガルドから追放されることのみだった。
 明日の朝には出て行くことを告げると、シギュンは寂しそうな顔をしたが、「わかったわ」と返事をしただけで何も訊ねてはこなかった。
 ナルヴィとナリには色々と話をせがまれたが、ロキは何も言わなかった。あの二人にまたすぐに出て行くことを話せば、駄々をこねられて面倒なことになるのが容易に想像できたからだ。
 そして、翌朝。
 ロキが旅の支度を整えてからほどなくして、オーディンの使いが出発するようにとの伝言をたずさえて家にやって来た。
 子供達は未だ夢の中。家の前でロキを見送るのはシギュンだけだ。
 気持ちの良い、抜けるような青空と陽気の日だった。
 しかし、ロキを見るシギュンの表情は晴れやかとは言い難かった。
「ロキ……気をつけてね」
「ああ――」
 返事の途中で、ロキはふと彼女を抱き寄せたい衝動に駆られたが、手を伸ばす寸前で思い止まった。
「……行ってくる」
 ほんの少し逡巡してからそれだけ言って、ロキは視線を行くべき道に移すと歩き出した。後ろを振り返ることはしなかった。
「………」
 シギュンは夫の背中が見えなくなるまで、ずっとその場所に立っていた。
 アースガルドの出入り口へ向かうロキに、話しかけようとする者は誰もいなかった。それは早朝という時間帯のせいだけではないだろう。
 昨日も、ロキの家には一人の訪問者もなかった。自分が帰ってきたことはすぐにアースガルド中に広まるだろうから、ロキはトールやウル辺りがうるさくやって来るのではないかと思っていたが、そのどちらも来なかった。
 どうしてかは、深く考えるまでもなくすぐに答えが出た。
 黙々と歩き続けて、ロキはアースガルドの見張り番の手前で一旦足を止めた。
「ロキ神。オーディン様からすでにお話は聞いております」
 そう声をかけてきたのは、通常番人をつとめているヘイムダルではなかった。
 出立時に、ロキと犬猿の仲である人物がちょうど不在なのもまた、偶然ではないだろう。
(本当……こういうことは手早いよな……)
 事の徹底ぶりに感心よりも呆れを強く抱いて、ロキはアースガルドの外に出た。
 ――これでしばらくの間、自分は神々の世界に足を踏み入れることはできない。
 ふとそんなことを思ったが、立ち止まり振り返ってアースの地から離れるのを惜しむような真似を彼はしなかった。
 気持ちも碧眼も、すでにこれから己が遂行すべきことだけに向けられていた。
(まずは、ムスペルヘイムか……)
 スルトにオーディンの返事を伝えなければならない。
 ビフレストを渡り終えてミッドガルドに降りると、ロキは猛禽に姿を変えて、南を目指して空高く飛翔した。