序章のはじまり[ロキ編]8


 翌朝、スルトに告げた通り、ロキはムスペルヘイムを発った。
 だが、彼が目指した場所はアースガルドではなかった。スルトの用事は後回しにして、まずは私用を片づけるためにロキはヨツンヘイムへと向かった。
 ビューレイストでの一件から、念のため背後には注意を払っていたが、尾行されているような気配はなかった。しかし、いつ情報の解析が終わるかしれないので、ロキはできるだけ急いでアングルボダのところを目指した。
 久しぶりに来た『鉄の森』と呼ばれるその場所は、最後に足を踏み入れたときととくに変わったところはなかった。
 とがった葉を茂らせる、金属的な冷たさと硬質さを宿す木々の間をロキは黙々と歩いて行く。
 なぜか不愉快に近い嫌な気分だった。頭上に広がる薄墨を流した空のように心は翳り、重かった。知りたいことが知れるかもしれないというのに、訊ねたくないという思いがどこからかわいてくる。だが、気づかなかったふりをすることもできそうにはない。
 もしも、アングルボダが魔術のことに関わっていると判明したら、自分はどうするべきなのか。
 ふと浮かび上がってきた疑問をロキは考えたが、答えを出すことはできなかった。
 一度も足を止めずに森の中を進んで行き、やがて生い茂る草木が減り、ひっそりと建つ一軒の家屋が視界に入ってきた。丸太を組んで造られた、ほとんど装飾のないそここそが、尋ね人の住居だ。
「………」
 ロキは離れた場所で足を止めると一度深く呼吸をしてから、今までよりも慎重な足取りで家に歩み寄った。
 いつもやっていたように扉を軽く叩いて、彼女の名前を口にする。
 やや間があって、小さな軋みとともに扉が開いた。
「……ロキ?」
 来訪者の姿を認めた途端、中から現れた人物は警戒の表情を驚きに変えて、やがてゆっくりと薄く微笑んだ。
「あんたがここに来ることはもう二度とないと思っていたよ。何の用だい?」
「アングルボダ、話がある。個人的な話だ」
「……いいよ、入りな」
 静けさを宿した黒い双眸で探るようにロキを見つめた後、アングルボダは彼を家の中に招き入れた。
 外観と同じで内装も装飾の類は少なく、家具も必要最低限しかない。
 身を翻し一足先に奥へと向かう彼女について行きながら、ロキは今と記憶を照らし合わせて考える。
 自分の来訪にアングルボダが多少怪訝そうにしたのは、前にアース神族と揉め事があったせいだろう。それを除けば、第一印象は最後に会ったときと何ら変わったところはなかった。
 居間につくと、アングルボダが振り返ってロキに声をかけた。
「麦酒でいい?」
「ああ」
 これも昔と変わらない慣れたやりとりをして、ロキは長いすに座る。
 アングルボダが飲み物を準備している間、そっと魔力の気配を探ってみたが、これといって何も感じられなかった。
「それで、話って?」
 麦酒の入った木の杯を二つ、長いすの前にある卓に置いて、隣に腰掛けたアングルボダが訊ねてくる。
 灰色の髪の毛に暗色の瞳、淡い笑みを形作る少し紫がかった唇。先程よりも近い距離で彼女の顔を見て、ロキは懐かしさよりも妙な居たたまれなさを強く感じた。
「……その前に、俺に言いたいことはないのか?」
 ほとんど無意識に、ロキは頭に浮かんだ言葉を口にしていた。
 彼らしくない神妙さを含んだ台詞を耳にして、アングルボダがくすくすと小さな笑い声を立てる。
「なんだい、いきなり。……ああ、もしかして子供達のこと? 別にその件であんたに言うことは何もないよ。悪いのはそれを指示した奴と、守れなかったあたし自身だからね」
 そう言った声色は全体的に軽い調子ではあったが、最後のほうはわずかに暗い感情が見え隠れしていた。
「………」
 ロキは何も返せなかった。浮かんできた同意や慰めの言葉はこの場にはふさわしくないように思え、杯を手に取るアングルボダの姿を黙って見ていることしかできなかった。
 アングルボダは麦酒を一口飲むと、再びロキに黒色の瞳を向けた。
「あたしのことよりも、あんたのことを聞かせてよ。話っていうのはなんだい?」
 一瞬の躊躇いを挟んで、ロキはゆっくりと口を開いた。
「……ビューレイストを知っているか?」
「知ってるよ」
 わずかな反応さえも見逃すまいとするロキの前で、アングルボダがあっさりと返答する。その表情は一部も乱れることも歪むこともなく、淡い笑みを浮かべたままだ。
「あんたのお兄さんだろ」
「……会ったことがあるのか?」
 やや驚いてロキが訊くと、アングルボダからは淀みのない答えが返ってくる。
「同じ世界に住む者同士だよ、一度くらいは顔を合わせていてもおかしくはないだろ?」
「……そうだな」
 ロキは少し歯切れ悪く返事をして、そのまま口を閉じてしまった。
 脳裏には兄の名を呼んで手を差し伸べる彼女の姿がちらついているが、それをどう訊ねればいいのか悩んでいた。直球で問うか、遠回しに問うか、……問うべきなのか。
 ロキの惑いを感じ取ったのか、アングルボダは目を細め、彼に顔を近づけるとその黒髪に触れた。
「どうしたんだい、ロキ。お兄さんと喧嘩でもしたの?」
 近くで囁かれた声には甘い響きがのっていたが、今のロキの心は少しも震えはしなかった。代わりに、彼女から発せられた『兄』という言葉が彼の思考を前へとうながした。
 ……ここまで来たのは何のためだ?
 ロキは自問自答すると一度目を伏せてから、穏やかでも鋭くもない碧眼で彼女を見据えた。
「アングルボダ」
「なんだい」
 アングルボダの手が髪から頬へと移り、そっと輪郭をなぞっていく。冷たい指だった。
「ビューレイストをけしかけたのは、おまえか?」
 ロキの問いに、アングルボダの手が止まった。その表情から微笑みが消える。
「何のことだい?」
「ビューレイストが俺に復讐をしに来たんだ。……アングルボダ、あいつにあの魔術を与えたのはおまえだな?」
「……言っている意味がよくわからないね。あんたの兄が復讐をしようと何をしようと、あたしには何の関係もないよ」
 興醒めしたというように、アングルボダがロキから身を離して顔をそらした。
 だが、ロキは彼女から視線を外すことなく、静かな口調で言い重ねた。
「ビューレイストから聞いたんだ。おまえからもらったと、そう言っていた」
「………」
 ロキの言葉はもちろん嘘だ。だが、それぐらい言わないと本当のことは聞けない気がした。
「アングルボダ」
 真摯に返答を求めるロキに、アングルボダの唇がゆっくりと大きく横に歪む。
 部屋の中に、笑い声が響いた。
(なんだ……?)
 ロキは違和感を覚えた。
 それは今まで目の当たりにしたことがあるアングルボダのどの笑いとも違っていた。笑う彼女の様子や空気を震わせる声音から感じるのは楽しさやおかしさではなく、仄暗い感情だった。
「……アングルボダ」
 困惑気味にロキがもう一度名前を呼ぶと、暗色の瞳が彼をとらえた。
 笑いをおさめて、アングルボダが妙にねっとりとした口調で言う。
「あんたは本当に賢いね、ロキ」
 その言葉の意味するところを悟って、ロキの表情がやや険しくなる。だが、彼女を見る碧眼は戸惑いにわずかに揺れていた。
「どうしてだ? おまえ、一体……」
「理由? 目的? そんなの決まってるじゃないか。……憎いからだよ」
「……俺のことがか?」
 絞り出すように言ったロキに、アングルボダが嘲笑じみた笑いをこぼす。
「違うよ。あんたのことは愛してるよ、ロキ。……でもね、あんたは邪魔になると思ったんだ」
「邪魔……?」
 復唱したロキは薄ら寒いものを感じた。
 目の前にいる、妖しく笑うアングルボダの姿が、ふとビューレイストと重なって見える。
 ……違う。自分が知っている彼女とは。何か嫌な予感がする。
「ねぇ、ロキ」
 アングルボダが再び身を寄せてくる。
「あんた、ヨツンに戻ってこない? あたしと一緒に壊そうよ、世界を全て、さ」
「……何を、言ってるんだ……?」
 なぜそんなことを言い出すのか、ロキには彼女の意図がわからなかった。ただ確かなのは、彼女が冗談で言っているわけではないということだ。
 アングルボダの絡みつくような視線と声を受けて、本能が警告を始める。このままここにいてはいけない、彼女といてはいけない、と。
 しかし、ロキはその場から動かなかった。今のアングルボダを見て、逃げることを心が選ぼうとしなかった。
「あたしとは、嫌?」
 悪酔いしそうな甘い声で囁いて、アングルボダが手を伸べてくる。
 彼女が触れる前に、ロキはその手首をつかんで止めた。
「アングルボダ……俺は、ヨツンには戻らない」
「………」
「どうしたんだ? 昔のおまえはそんなこと――」
「残念だよ、ロキ」
 自分の名前が耳に届いた瞬間、ロキは肌が粟立つほどの悪寒に襲われた。
 一瞬にして室内の空気が張りつめたものに変化する。
(この、魔力は……)
 心身に重圧を与える強い魔力の発生に、ロキは軽い混乱を覚えた。出所を探ろうとするがどこかわからない。
 ――否、直感的に気づいていたが、信じたくなかった。
 アングルボダは何も感じていないのか、優雅な動作で、力の弱まったロキの手を自分の手首から外して長いすから降りる。
「あんたはやっぱり邪魔になりそうだね……」
 発した声にすでに甘さはない。含まれる感情に温かみはない。見下ろしてくる双眸は、まるで底の見えない落とし穴のようだ。
 どうして……、なぜ……、アングルボダも……?
「………」
 じっとしていてはいけないとわかっているのに、焦燥感と不安がロキの行動を縛りつけていた。わき上がる疑問に答えも出せず、ただ視線を返すことしかできない。
 アングルボダがどこか虚ろさを感じさせる笑みを浮かべた。
「ねぇ、ロキ。あたしのためにここで――死んで」
 室内に落ちた恐ろしい言葉に、ロキは耳を疑った。心臓の鼓動が驚きと恐怖によって速くなる。
 聞き間違えだと、そう思いたかった。
 風もないのにアングルボダの灰色の髪が揺れ動く。
 周囲の魔力が急激に高まり、音もなく大気が騒ぐのをロキは肌で感じた。
「っ……!」
 突然、ロキの全身にひどい重みがのしかかってきた。頭の芯が揺さぶられ、意識が遠くなり始める。
(まずい……)
 このままだとアングルボダの魔力によって押しつぶされてしまう。
 ロキが己の身の危険を感じたとき、背後から強い風が吹きつけてきて、唐突に視界が朱に染まった。
 何が起きたのか、ロキには理解できなかった。
 耳元で唸り声に似た低い音が響き、前方からそれをかき消すほどの甲高い声が聞こえてくる。
(アングルボダ……!)
 はっとしてロキは彼女の名前を呼ぼうとしたが、思うように唇を動かすことができず、頭の中で叫ぶだけに終わった。彼女の姿は鮮烈な色におおい尽くされてしまっていて、何もわからない。
(くっ……)
 激しい魔力の奔流に、ロキはどうすることもできなかった。声を発することも身動きも取れず、意識を繋ぎ止めているのにも限界がきて、ついに瞼を落とした。
 だが、彼が五感を全て失う前に低音は消え、体がふっと軽くなった。
「――…したか」
 耳に滑り込んできた微かな声に、ロキの薄れかけていた意識は急速に醒めた。
 はっとして碧眼を開いた先に見えたのは、見慣れたアングルボダの家の居間だった。
 だが、肝心の彼女の姿がない。
「アングルボダ……?」
 ロキは少しかすれた声音で呼んで、目の前にいたはずの彼女を探して慌てて顔を動かした。
 視線を後ろにやったとき、彼は一瞬碧眼を見開き、たちまち表情を嫌そうに歪めた。
「……スルト」
 視界に入ってきたのは、できればもう一生会いたくないと思っている、鮮やかな衣をまとった黒と赤の毛色の人物だった。
 スルトの来訪にロキは苦いものを感じると同時に、あの朱色がなんであったかを悟った。あれは炎――スルトが使う特殊な炎の魔術だ。
 スルトは何か考えているような面持ちをして別のところを見ていたが、ロキの視線に気づくと、深紅の瞳を彼に向けて不満そうに言い放った。
「おぬしがおると、わしの捕りものが失敗する可能性が高いのはどういうわけじゃ」
「そんなの知るか! 大体、どうしておまえがここにいるんだ? っ……! そうだ、アングルボダは……アングルボダはどうした!?」
「うるさい奴じゃのう。あの女なら逃げおったわ」
「そう……か」
 無事だとわかった途端、ロキはなぜか妙に安堵を感じた。高まった熱が頭からすっと引いていく。
 だが、ほっとしたのも束の間、すぐに彼はとんでもないことに気がついた。
(逃げた? スルトの炎から……逃げた?)
 アングルボダが、ムスペルの王が放った魔術から逃れた。それがどういうことなのか。
 その事実を認識して、ロキの背筋に寒気が走った。自分に死んでくれと言った、異様な雰囲気のアングルボダが脳裏によみがえる。
「それよりも、ロキ。おぬしはこんなところで何をしておるんじゃ」
 スルトの問いに、物思いに沈みかけていたロキの思考は現実に引き戻された。
 そこでようやくロキは現在の自分の立場を思い出して、気まずげに顔を歪めた。
「俺は……」
 慌てて口を開くが、言葉が続かない。本当のことを言うのを躊躇うが、代わりとなる機転の利いた台詞は何も思いつかない。
 黙り込んだロキにスルトが次に放ったのは、意外なことに追求の言葉ではなかった。
「おぬし、あのヨツンの者とは親しい仲なのか?」
「あ、ああ……」
 戸惑いのあまり、ロキは反射的に返事をしてしまった。思考が追いついたときには、さらなる質問がスルトの口から発せられていた。
「ならば、あの者は前からあのような強力な魔力を有しておったのか?」
「……いや」
 いまさら一つ前の返答を変えることはできそうもないと諦めて、ロキは正直に否定の言葉を返した。
(ああ、そうか)
 答えると同時に彼は、二つの問いかけからスルトがここにいる理由を悟った。
(情報の解析が終わったのか……)
 だとしたら、やはり自分の考えが合っていたのか。
 しかし、ロキは少しも喜べなかった。謎が減るどころか、大きく深いものが増えてしまったからだ。
「なるほどのう。……して、ロキよ」
 冴えない表情を浮かべるロキを、スルトがわずかに刺々しい口調で呼ぶ。
「おぬし、わしの用事を忘れてはおらんじゃろうな?」
「……わかってるよ」
 ロキは妙に覇気のない声で返事をした。
「ならば、早く行かんか。ぐずぐずしておると、おぬしの腕を一本焦がすぞ」
 スルトなら実行しかねない脅しを含んだ言葉に、しかしロキは怯むことなく何か言おうとしたが、すぐに一音も発することなく口を閉じた。ビューレイストから得た情報について訊ねようとしたのだが、どうせ無駄に終わると思い直して止めたのだ。
(ここでこうしていても、どうしようもないな……)
 これ以上面倒な事態になるのも嫌で、ロキはアースガルドに向かうため、長いすから立ち上がった。
 ふと視界の隅に、卓に置かれた二つの木の杯が入ってきた。
「………」
 胸に微かな痛みが走るのを感じながら、ロキは視線を前に向けて、家の出口へ足を進めた。


 虹の橋ビフレストを渡り終えたロキは、アースガルドに入る手前でその歩みを止めた。
 彼の目の前には、まるで行く手を阻むようにして一人の人物が立っていた。
 薄紫色の髪を持ち、深い紫色の双眸に鋭い光を宿して見据えてくるのは、ロキがヨツンヘイムの森で別れた、アースガルドの見張り番をつとめるヘイムダル神だった。
「ロキ……今まで一体何をしていたんだ?」
 答えなければ中には入れない、という雰囲気を漂わせてヘイムダルが問うてくる。その態度が険しいのは、彼と森の中で別れてからすでに一ヶ月以上が経過しているからだろう。
 だが、ロキは眼前の見張り番にたいして何も話すつもりはなかった。
 顔を歪めて、素っ気なく言い放つ。
「別に。帰ってくるのに手間取っただけだ」
 しかし、そんなおおざっぱな返答でヘイムダルが納得するはずがなかった。
 真意を探るような視線をロキに向けて、見張り番はその場から微動だにしない。
 全く道を空けようとする気配のない相手に、ロキは辟易しながら言った。
「どいてくれないか、ヘイムダル。オーディンの奴に色々と報告しないといけないんだ」
「……ロキ、どうしてあんなことをしたんだ」
 不意に妙に抑えた声音でつぶやかれた疑問に、ロキは眉を寄せた。
「あんなこと?」
「ルーンだ」
「ああ」
 ロキの頭の中に、別れ際にヘイムダルに手渡したルーン文字を刻んだ木片のことが浮かんだ。
 武器がないから護身用にと彼に渡したそれだったが、本当の目的は違っていた。複数持たせた木片のうちの一つに、自分達に何があったのかを話そうとしたらその記憶の詳細を忘れてしまうルーン文字を刻んでおいたのだ。ヘイムダルが訊ねたのは恐らくそれのことだろう。
 ロキがそんなことをした理由はただ一つ、己の問題にヘイムダルが口を挟んでくることを嫌がったからだ。
 しかし、そのこともロキは話そうとは思わなかった。
「必要だったから」
 またもやろくに実りのない答えに、ヘイムダルは訝しげな顔を作る。
「真面目に答えろ、ロキ」
 だが、鋭い声音でいくら求められようとロキは話す気はなかった。
「詳しいことはオーディンに話す」
 ヘイムダルに向かって突き放すようにはっきりと、一切の揺らぎのない拒否を示す台詞を口にする。
「………」
「………」
 どちらも互いに譲らず、やがて一触即発の睨み合いになったが、ふと深紫の瞳が碧眼から外れた。
 頭上に向いたヘイムダルの視線を追ってロキも見上げると、青空に一羽の大鴉の姿があった。
 二人の様子を観察するように飛翔している黒い獣がどんな意味を持っているのか、ヘイムダルはすぐに察したようだった。苦い表情でロキに視線を戻すと、しぶしぶといった様子で道を空けた。
 ロキは何も言わずに、アースガルドの地を踏んだ。そのまま一度も見張り番を見ることなく、オーディンの館であるヴァラスキャルヴを目指して足を進める。
「ロキ」
 しかし不意に、ヘイムダルが彼を呼んだ。
「今度はなんだ」
 反応するか一瞬悩んだが、背後からの呼び声に妙な含みを感じて、ロキは足を止めて顔だけで振り返った。
「シギュンは無事だ」
「……そうか」
 唐突に発せられた己の妻の安否を示す言葉に、ロキが返したのは淡泊な返事だったが、その表情には微かに内心が覗いていた。
(シギュンは助かったか……)
 胸中のしこりが一つ消えていくのを感じながら、ロキは前に向き直った。
 歩みを再開した彼を、ヘイムダルが再び呼び止めることはなかった。
 降り注ぐ暖かな日差しに、足元には青々とした草や小さな花が咲いて、向かう先には距離があってもそうだとわかるほど立派で美しい建造物が見える。
 ようやく戻ってきたアースガルドだが、ロキは感慨らしいもの を何一つ覚えなかった。
 視界の上部を大鴉が颯爽と飛んでいく。
(オーディンと話す……のか)
 同じ方角へ先行していく影を見ながら、ロキはこれから自分がしなければいけないことを思って小さく息を吐いた。
 乗り気ではないのは、あの腹の黒い主神との駆け引きがあまり好きではないせいもあるが、一番の原因は今の己の立場だった。
 ロキはシギュンが倒れたときに虚偽の報告をしている。それをどうするべきか決めかねていた。素直に全てを話すのか、ビューレイストのことは隠すのか。
(……なんかもう面倒だな)
 スルトの用事を合わせて考えると、だんだんと思考が投げやりになってくる。
 実際のところ、アングルボダの一件から嘘を隠し通そうとする意思は弱くなっていた。
 最初のときと比べて事情は複雑になってしまった。こうなってしまったら、もう一人ではどうしようもできないことを彼は薄々感じ始めていた。
 考え事をしている間に、ロキは建物が建ち並ぶ居住区に足を踏み入れていた。
 通りすがった他の神々が帰ってきた彼の姿を目にするや、妙な反応を示す。
 それが何であるのか、ロキにはすぐにわかったが面倒なので相手にはしなかった。
 好奇の目と囁き声を無視してひたすら黙って歩いて行くと、やがて荘厳できらびやかな建物にたどり着いた。