ナリとナルヴィの冒険 2


   ◇◆◇◆

 平らにならされた地面に長い影が伸びる。
 ――実に、無駄な時間だった。
(オーディンのやつ……何が、ミッドガルドで会ったいい女だ……そんな話どうでもいい!)
 豪奢な館が背後で小さくなっていくのとは対照的に、ロキの中でアースの主神への苛立ちが大きく渦を巻く
 自分の進む先に転がっていた小石を踏む。靴底の固い違和感にすらささくれ立った気持ちは刺激されて、ロキは持ち上げた足の下にある小石を睨みつけると感情のまま前へ蹴り飛ばした。
 角張った小石は低く緩やかな弧を描いたあと、地面を不安定に転がって、白い花に当たって止まった。
「?」
 ふと、不思議に思ってロキは歩みを止めた。
 小石よりもさらに先の道に見覚えのある人物の姿が見える。
 金髪の女性の青い眼が碧眼と絡む。
「ロキ!」
「シギュン?」
 名前を呼んで走ってくるのは間違いない、自分の妻だ。
 しかし、認識しても妙な感じが消えない。何か、様子がおかしい。
「ロキ!」
「お、おい……」
 胸の中に飛び込んできたシギュンを、ロキは少しうろたえながらも受け止めた。
「シギュン……どうしたんだ?」
 普段頭の後ろで結って整えている髪が今はところどころ解け、手に触れた小さな肩からは震えが伝わってくる。
「ロキ……」
 シギュンがゆっくりと顔を上げる。その瞳は涙で濡れていた。
 不愉快な熱にざわめいていたロキの胸中がすっと冷えていく。
「ナリが……ナルヴィが……いないの」
 動揺が滲んだ声でシギュンが言った。
「いない? 遊びに行って帰ってきてないのか?」
「わからない……。気づいたら、家にいなかったの」
 胸に当てられた細い手がロキの服をぎゅっと握りしめる。
「ナリ達が遊びに行きそうな場所は探したわ……でも、どこにも見つからないの……。シフさん達にも聞いたけど、知らないって……」
 弱々しい声が途切れ、青色の瞳から涙が一筋こぼれ落ちる。
 ロキは慌ててシギュンの濡れる頬を拭った。
「シギュン、大丈夫だ。俺が子供達を捜してくる」
「私も行くわ!」
「シギュンは家で待っていてくれ。子供達が家に帰ってきて誰もいなかったら、寂しがるだろう?」
「でも」
「シギュン」
「……わかったわ」
 躊躇った様子を見せながらも、シギュンはロキの言葉を受け入れてゆっくりと体を離した。
 ロキが安心させるように微笑む。
「すぐにつれて帰る」
「お願い」
 シギュンはまだ負の情に揺れる双眸でロキを数秒見つめてから、踵を返して家のほうへと足を向けた。
 寂しげな彼女の背中が小さくなるまで見送って、ロキは空を見上げた。
 清々しかった青は憂いを覚えるような朱色に変わり、その一部には冷たい紺色が滲んでいる。頬を撫でる風も夜の気配を含み、完全な日暮れまでにもうそんなに時間がないことが知れた。
(無断で出かけるなっていつも言ってただろう……)
 愚痴るように思ったロキの脳裏に、ふと、昼間に見た息子達の姿が過った。
 望みを一蹴されて浮かべた不満げな表情。その双眸には、諦めや悲しみ以上に反抗の色があった。
(まさか、あいつら……)
 思考が嫌な予想を導き出す。
 ――自分が断ったから、無断でどこかに行ってしまったのだとしたら。
 涙に濡れるシギュンの顔が視界にちらつく。ロキは胸の奥が鈍く痛むのを感じた。
「くそっ、手間のかかるばか息子達だ……!」
 独りごち、体の向きを変えて足早に歩き出す。
 たしか、ナリとナルヴィはミッドガルドに行きたいと、冒険がしたいと言っていた。自分の考えが正しければ、彼らが行く場所に心当たりがある。
 まず、ふたりはアースガルドからは出ていない。外に出るには、虹の橋ビフレストを渡る必要があるからだ。橋の袂には見張り番のヘイムダルや彼の部下が常駐していて、最近ようやく木製の剣を満足に振れるようになった子供が通過することは不可能だ。
 普段からよく遊びに行っているトールの館や、馴染みのある遊び場にもいないだろう。すでにシギュンが捜しに行っているはずだ。
 それらを総合的にふまえ、数時間で子供の足で行ける場所といえば思いつくのは一つしかない。居住区の外れにある北の森だ。
 その森には、息子たちを連れて木の実を採りに何度か行ったことがある。木々が生い茂っていて広く迷子になる危険があるため、アースガルドでは子供だけで行くのは禁止となっている場所だ。だからこそ、冒険するにはかっこうの場所だといえる。
 穏やかな光に包まれた建物群が背後に遠くなるにつれて、大気の冷たさと暗さが増していく。影が夜の闇に溶け込み始め、空と大地の境目が、存在するものの輪郭と色が、曖昧になっていく。
(さすがに明かりが必要か)
 ここよりも光の少ない巨人族の世界ヨツンヘイムで生まれ育ったため、夜目は効くほうだが、捜索するとなると明るいほうがいいだろう。
 ロキは立ち止まり、腰に下げた鞄から半透明の白い丸石を取り出した。包み込むように片手で握って丸石に魔力をこめる。手の内側がじんわりと温かくなり、指の隙間から白色の光が漏れてくる。発光した丸石を上に軽く放れば、落ちることなく肩の高さで止まってロキの周囲を照らし出した。さすがに昼間のような明るさはないが、全くないよりかは捜しやすい。この光でナリ達がこちらの存在に気づいてくれる可能性もある。
 ロキが歩みを再開する。光球となった丸石は浮遊しながらついてくる。
 北の森は歩いてきた道よりも木々や草に満ちて、一層夜の気配が濃い。自分よりも圧倒的に大きく広く、闇に沈むそこはアース神族の世界だとわかっていても警戒心を刺激される。
 ロキは森の出入り口で立ち止まった。
「ナリ! ナルヴィ!」
 大声で呼んだ名前は、余韻すら残さずに夜気の中に消えていった。待っても返る声はない。物音もしない。
 静かな森を見据え、ロキは足を踏み入れた。
「ナリ、ナルヴィ、どこだ?」
 何度もそう声を上げながら奥に進んでいく。反応を一瞬でも見逃すまいと聞き逃すまいとするが、どこまで行っても見えるものは木や草ばかり、聞こえてくるのは虫の音や葉擦れの音ばかりだ。
 普段木の実を採っている場所まで来ても、ふたりがいると知れる痕跡は何も発見できなかった。
(この森じゃないのか?)
 不安が心を過ぎる。しかし、もう一度考えても思いつくのはこの森しかない。
 眉を寄せながらロキは周囲を見回した。
 自分を含めた誰かが何度か往復するうちに自然とできた、今通ってきた細い道。そこから対角線上に似たような道が一本ある。他は草木が生い茂っているだけだ。
(……あいつらがここに来たとして、冒険なら知っている場所に行く可能性は低い、か……)
 だとしたら、捜索範囲はこの森全体ということになる。
 ロキは表情を曇らせた。
(俺だけじゃ時間が……無理だな。誰かに手伝ってもらうか……)
 それが最善だろう。
 思考はそう答えを出したが、ロキは行動に移せなかった。佇んだまま、眉間のしわを濃くする。
 ――自分の問題に他人を介入させたくない。
 妙な自尊心が決断を鈍らせていた。子供達の一大事だとはわかっている。早く見つけなければならないと知っている。けれど、他の奴に頼りたくない。弱みを見せたくない。
 強い風が吹いて草葉をざわめかせる。日はすっかり暮れて、空気に昼間の暖かさはわずかも残っていない。野宿に慣れていない、ましてや、何の準備もない子供が一晩を越すには辛いだろう。今頃、お腹が空いたと、寒いと、泣いているかもしれない。
『お願い』
 息子達のことを考えたロキの脳裏に、涙に濡れるシギュンの顔が浮かんだ。切ない彼女の声が記憶の中から響いてくる。
「………」
 ロキはぎゅっと拳を握ると踵を返した。足早に来た道へ戻り始める。
(トールだ。あいつなら、変なことを言わずに手伝ってくれるだろ)
 決断すれば、無意識のうちに早足が駆け足へと変わる。
 森の入り口がやけに遠く感じる。ここからトールの館までは走り続けても三十分はかかる。
「くそっ。……ん?」
 思わず悪態を吐いたロキの耳に、忙しない葉擦れの音が聞こえてきた。風のせいではない。頭上に広がる木々の葉からではない。
 気になってロキは立ち止まった。
「……れか! だれか、たすけて!」
「!」
 大きくなる草葉の音色に混じって声が聞こえた。それは、幼い男児の声音。ロキにとっては聞き覚えのあるものだ。
「ナルヴィ! いるのか?」
 ロキが辺りに視線を巡らせながら一番下の息子の名を呼ぶ。
 走ってきた道の右横にある低木が揺れた。濃い緑の中にうっすらと金色が混ざる。
「ナルヴィ!」
 小さな体が転がるように草葉の間から現れて、ロキは急いで駆け寄った。
「! お父さん……!」
 緑がかった青い瞳がロキの姿をとらえて大きく見開く。ナルヴィはくしゃりと顔を歪めて父親の腰に抱きついた
 ロキはほっとした気持ちで、金色の髪についた葉を払ってやり、頭を撫でる。
「ナルヴィ、大丈夫か?」
「ぼくは、だいじょうぶ……でも、兄さんが、兄さんが……」
「ナリ? ナリがどうした?」
「兄さんが……木から……兄さんが……」
「落ち着け、ナルヴィ」
「兄さん……う、うぅ」
 ロキがなだめて話を聞こうとするが、ナルヴィはぽろぽろと涙を流すばかりだ。
(しかたない)
 ロキは右手のひらをそっとナルヴィの額に当てた。
「“Lagu” “Thorn”」
 短い呪文を唱える。手のひらと額の間で、黄みがかった温かな光が二秒ほど発光した。乱れた精神を落ち着かせる魔術だ。
「ナルヴィ、話せるか?」
「……うん」
 三度の瞬きを挟んでからナルヴィが返事をする。頬を伝う涙は止まり、その顔と声は落ち着きを取り戻している。
 ロキはナルヴィの頭を撫でてやりながら、ゆっくりとした口調で再び尋ねた。
「ナリに何があったんだ?」
「兄さんが、木から落ちた……」
「! どこで?」
「あっち」
 ナルヴィが自分が出てきた茂みを指さした。闇に沈む草葉が風によって乾いた音を立てる。
「お父さん……兄さんをたすけて」
「ああ、わかってる。ナルヴィ、俺から離れるなよ」
「うん」
 ナルヴィは差し出されたロキの左手をぎゅっと握った。
 ふたりで茂みの中へと分け入る。足を動かす度に葉擦れの音が響く。道とは違い、低木の枝や葉、地面から浮き出た木の根などが多く歩きづらい。受け身をとれずに転んだら、単なる擦り傷や切り傷ではすまない可能性もある。
 ――ならば、木から落ちたというナリは無事なのか。
(ひどいけがをしてないといいが……)
 状況がわからないだけに気が急く。しかし、ロキは速度を上げることはできなかった。歩幅の狭い子供を連れているからという理由と、もう一つ。
「ナルヴィ、こっちか?」
「たぶん……」
 答えは心許ない。辺りは暗く見通しが悪い上に、助けを求めて必死に走ってきたから周りを見ている余裕がほとんどなかったのだろう。
 一度止まり、ロキはじっと周囲に目を凝らした。ナリのもとに続く道がわからない。何か手がかりはないだろうか。踏み倒された草とか……。
(ん?)
 違和感を覚えてロキはしゃがみこんだ。地面をもっと明るく照らすように光球を引き寄せる。
 細い草の間に小さく四角い薄茶色のものが落ちている。石でも木片でもない。
「あ、クッキー」
 隣でナルヴィが言った。
「これ、お昼にお母さんと兄さんと作ったやつとおんなじ」
 ナルヴィが腰のポケットから手のひらほどの袋を取り出してロキに見せる。口が開いたその中には、地面にあるものと同じ形をしたクッキーが二枚入っていた。
「あれ……これだけしかない……落ちちゃったのかな……」
(なるほど)
 悲しそうな表情を浮かべたナルヴィの頭をロキは優しく撫でた。
「クッキーなら、また作ればいい。ナリと一緒にな」
「……うん」
 ロキが立ち上がる。光球の高さを低めに、足元を中心に照らすようにして歩き出す。ナルヴィの落としたクッキーは予想どおり、一ヶ所だけでなく点々と続いていた。それと踏まれた草の跡を合わせれば、ナリのところにたどり着けるはずだ。
「……あっ!」
 進んでいる途中、突然ナルヴィが声を上げて前に駆け出した。
「ナルヴィ!」
 ロキは闇に消えそうになる小さな背中を追った。
 茂みの中から一転、拓けた場所に出る。
「兄さん!」
 扇状の形をした木の下にナルヴィはいた。駆け寄ってみると、膝をつく彼のそばには倒れたナリの姿があった。
「ナリ、大丈夫か? しっかりしろ」
 ロキが声をかけながらナリの首に指を当てた。脈と体温を感じる。
「ナリ、ナリ」
「うっ……、と、さん……?」
 瞼を震わせながらナリがゆっくりと目を開く。緑がかった青の双眸はぼんやりとして、かすれた声を発したその顔色は少し青白い。
「もう大丈夫だ。気分はどうだ? どこか痛いところはあるか?」
「背中、と足……右の……」
 ロキが服越しに背と右足に触れる。足首のあたりでナリが「うっ」と短く呻いた。ズボンの裾をまくり上げてみると、一ヶ所が赤く腫れて熱を持っている。落ちたときに枝で打ったようだ。
 ロキは治癒の魔術を使うため、足首に手のひらをかざして意識を集中させる。
「ねぇ、お父さん! 上! なんかいる!」
 不意に叫ぶようにそう言ったのはナルヴィだ。
 ロキは魔術を中断して、怯える息子を、彼が指さすほうを見た。
 ちょうど自分達の頭上。ロキの身長よりも高い枝の上に、妙な形の影がある。最初、葉や枝が重なってそう見えているのかと思ったが、見つめるうちにそれが鋭利な爪をもった獣の脚だと気づく。まるでこちらを威嚇するように向けられた脚の上からは、鋭い灰青色の眼がある。
 ロキは顔をしかめた。
(あれは……ヨツンヘイムにいる狼……? どうしてこんなところに)
 疑問を抱きながらも危機感が腰の短剣に手をかけさせる。
 碧眼で睨むように灰青の眼を見返すが、木の上の狼は微動だにしない。
「お父さん……」
「ナルヴィはナリと一緒にいろ。すぐに片づけてくる」
 不安げな息子にロキは応えると、鞘から短剣を引き抜いて木の枝に飛び乗った。軽い身のこなしで一分とかからずに狼の下へたどり着く。
 視界の中心に据えた脚が小さく動く。葉擦れの音が耳に響く。ロキはすかさず狼の頭部を狙って短剣を振るった。
 鈍い手応えがあった。
「……?」
 怪訝に思ったロキの前に茶色い塊が落ちてくる。それは、爪の生えた四の脚を力なく放り出して、灰青の眼はぼんやりと中空を見つめている。
 少し待ったがぴくりとも動かない。切り裂いた顔面からは一滴の血も出ていない。
(人形、か?)
 ロキが足で狼らしきものを小突き、踏んでみる。柔らかな感触がして、開いた切り口から白い綿がのぞいた。
 ――作り物だ。間違いない。
(なんでこんなものが……)
 不謹慎な代物にロキは眉を寄せながら短剣を鞘にしまうと、狼の人形をつかんで木の枝から飛び降りた。
「お、お父さん……!」
「大丈夫。人形だ」
 手にした狼の人形を見てびくりと震えたナルヴィにロキは言って、人形を地面に置いた。興味があるのかそろそろと人形に近づくナルヴィを横目に、倒れているナリのそばにしゃがみ込む。
「待たせたな、ナリ。今、けがを治してやるから」
「ん」
 ロキはナリの右足に軽く手のひらをかざして、短い呪文を口にした。
「“Beorc” “Lagu”」
 手と足の間から黄色を帯びた淡い光がこぼれる。人肌ほどの暖かな光は足の腫れた部分を数秒間包み込むと、音もなく消えていった。同じように背中も治癒の魔術を施す。
「ナリ、痛みはどうだ?」
「……いたくない……うっ」
「起き上がらなくていい」
 上半身を起こそうとして顔を歪めたナリに優しく声をかけてから、ロキは小さな体を抱えて立ち上がった。
 ナリがどこかほっとしたような吐息をもらして瞼を閉じる。表情は穏やかになったが、顔色はまだ良くない。痛みは引いたが、恐怖や不安からくる心身の疲労が残っているのだろう。
 ロキは狼の人形を指でいじっているナルヴィに視線をやった。
「ナルヴィ、悪いがその人形持てるか?」
 とくに仕掛けもなく、放っておいてもよさそうな人形だが、一応オーディンに報告しておいたほうがいいとロキは判断した。
「うん、持てる」
 返事をするとナルヴィは躊躇うことなく狼の人形を両手で持った。生き物ではないとわかり、すっかり安心した様子だ。
「よし、家に帰るぞ」
 光球が闇に沈む道を明るく照らした。


「ナリ! ナルヴィ!」
「お母さん!」
 シギュンが駆け寄ってきたナルヴィを抱き留める。森から家までの道中、全く泣く素振りを見せなかったナルヴィだが、母親を見るとたちまち目に涙を浮かべて泣き出した。
「よかったわ……本当に……」
 なだめるようにナルヴィの背中をさするシギュンの目にも光るものがある。しかし、浮かべる表情は柔らかく安堵に満ちている。
 彼女の安心した様子に、ロキは心の底から緊張が解けていくのを感じた。自分の腕の中で静かに寝息を立てているナリを見てから、シギュンのそばに歩み寄った。
「シギュン、ナリは眠っているから部屋に連れて行くよ」
「ありがとう、ロキ」
「……お母さん……ぼく、おなかすいた」
「ナルヴィの好きな肉巻きとスープがあるわ。一緒に食べましょう」
 手を繋いで居間のほうに歩いていくふたりから、ロキは廊下の隅に放り出された狼の人形に視線を移した。
 明るい中で目にすると人形はところどころ作りの雑さが目立ち、森で見たときよりも迫力に乏しくどこか滑稽だ。
(誰がなんでこんなものを森に……)
 あらためて考えてもやはり意図はさっぱりわからない。
 だが、危険なものではないようだから、オーディンへの報告は明日でいいだろう。
 ロキは子供達の部屋へと足を進めた。


 翌朝。
 左手に狼の人形を持ち、ロキはオーディンの館へ向かっていた。
 爽やかな空気と暖かな日差しの下で、ふあぁ……と今日何度目かの欠伸をする。
 昨夜は、けがをしたナリの看病をしていたため仮眠程度の睡眠しかとれなかった。幸いナリに高熱などの異変は起こらず、朝には元気に目覚めていつものように食事をとっていた。
(冒険、か)
 今朝に息子達から、どうしてふたりだけ北の森に行ったのか、その話を聞いた。理由はおおよそ自分が考えたとおりで、ロキが感じたのは怒りでも呆れでもなく、もやもやとした感情だった。話は終わり、家を出たあとでも胸の奥に残って消えない。
 なんだか、罪悪感に近い。
(あのとき、連れて行くって言えばよかったのか? でも、そうなったら今回よりも危険な目に遭わせるかもしれない……。だめだって言うしかないだろ)
 誰にも責任を求められていないのに、言い訳のような言葉が頭の中でぐるぐると回る。意識の端でもういいだろうと思っても、考えるのを止められない。
 ロキはため息を吐いた。
「なに、ロキ、なんか悩み事?」
「っ……」
 突然、すぐそばで聞こえてきた声にロキは立ち止まり、下げていた顔を上げた。
 見張った碧眼が、青空のような色合いをした瞳とかち合う。短い銀髪が陽光を受けてきらきらと光を散らす。
「ウル……いきなり、なんだ」
 自分に声をかけてきた人物を認識すると驚きが不愉快へと変わって、ロキはしかめっ面を作った。
 それに呼応するように目の前に立つ少年、ウルも唇をとがらせる。
「心配してあげたのに、なにその言い草。ひどいな。それにボクはいきなり話しかけてないよ。ちょっと前からロキのこと何度も呼んでたし、君の前から歩いてきたんだよ」
「……じゃあ、何の用だ。俺はおまえに用はない」
 もやついた事情はあるが、当然話すつもりはない。
「んーと、ね……ロキ、その狼の人形どうしたの?」
「これか? 北の森で拾った」
「そうなんだ」
「………」
「………」
 向かい合ったまま沈黙が降りる。ウルは、ロキが持つ狼の人形をちらちらと見てその場から動こうとはしない。
(なんだ……?)
 狼の人形のことを気にしている様子のウルにロキは違和感を覚えた。これまでの短くはない付き合いから、彼が好奇心旺盛なほうだと知っている。いつもなら「それ何? どうしたの? ちょっとよく見せて!」などと積極的にくるのに今は奇妙におとなしい。
 ――そもそも、なぜウルがこんな人形を気にするのか。
 ロキは顔から綿が飛び出た狼の人形を一瞥してから、再びウルを見た。
 抱く疑問が伝わったのか、ウルは苦笑じみた表情を浮かべた。
(まさか)
 ロキの思考が己の疑問に一つの予想を導き出す。
「ウル、おまえ、これが何か、知ってるな?」
「うん。それ、ボクが作ったやつだから」
「……は?」
 あっさり返された答えは、ロキの想像の一段上をいっていた。すぐには理解が追いつかない。
 きょとんとするロキにウルは軽い調子で言葉を続ける。
「この間ね、フォルセティにヨツンヘイムでの旅の話をしたら、自分もそんな冒険をしてみたい、って言ったから、北の森でふたりで冒険ごっこをしたんだよ。その人形はそのときに使ったやつ。全部回収したと思ったんだけど忘れてたみたい。ありがとう、ロキ」
 ウルが手を差し出す。が、ロキはその手を見ただけで狼の人形を渡す素振りさえしなかった。
(……冒険……)
 その言葉は、昨日から今日の間で何度耳にして思ったことだろう。ウルの話がロキの胸中に留まる感情を揺らして止まない。
「ロキ、どうしたの?」
「……ウル」
 瞬きを一つ挟んでからロキは、怪訝そうな相手を碧眼でまっすぐ見据えた。狼の人形を胸の近くまで引き上げる。
「おまえは、なんでこんな手間をかけてまで冒険ごっこをしようと思ったんだ?」
「なんでって、寂しいなぁって感じたからだよ」
「寂しい?」
「うん。自分の旅の話をいつも楽しく聞いてくれるひとが、実際にその経験ができないんだと思ったら、寂しいって感じたんだ。もちろん、そのひとがそうできない理由はわかってるよ。だからこそ、少しでも経験できたらいいなって思ってやることにしたんだ。フォルセティ、最初は遠慮してたけど、最後にはとても喜んでくれたよ。ボクも楽しかった」
 話すうちにそのときのことを思い出したのか、ウルの表情が喜色に満ちた笑顔に変わる。
 逆にロキの表情は陰りを帯びた。脳裏に、昨日のこと、今朝のこと、そして、目を輝かせながら旅の話を聞く息子達の顔がよみがえってくる。
 ――自分は、ウルのように考えたことはなかった。
(……俺が、あいつらにしてやれること……)
 揺らいでいた感情が形を変えて意識の中におさまる。思考が今やるべきことを導き出す。
 ロキの表情がすっと真剣なものに変化した。
「ロキ……?」
「ウル、ちょっと手を貸せ」


「お父さん……本当?」
 相反する思いがこもった声だった。発したナリだけでなく、その隣にいるナルヴィもロキを見上げる顔には期待と不安がない交ぜになった表情が浮かんでいる。
 ロキは息子達の視線を受け止めて、はっきりとした口調で返事をする。
「ああ。明日、俺が用意した遊びでおまえ達が勝ったら、ミッドガルドに連れて行ってやる」
 ロキが用意した遊びとは、ウルがフォルセティとした冒険ごっこを少し変更したものだ。場所は北の森、朝から日暮れ前までに九つの謎を解いて目的のもの探し出す、という内容だ。
「……あの森か……」
 つぶやいたナリの表情が暗くなる。北の森で迷子になってから五日が経ち、体調は回復し、狼は作り物だったとわかったとはいえ、恐怖がまだ残っているのだろう。
 興味はあるが気が進まない、そんな兄の様子をナルヴィが隣でじっと見つめる。
 ロキは沈黙するふたりに問いかけた。
「どうする? やるか?」
「………」
「ねぇ、お父さん。その遊び、ぼくだけが勝っても兄さんとミッドガルドにいけるの?」
「それでもいいが……ナルヴィ、おまえ、ひとりでやる気なのか?」
「うん。兄さんのために、ぼくひとりでやる」
 ロキを見上げるナルヴィの双眸にはたしかな決意がみなぎっている。
 対して、ナリは弟の唐突な発言に目を見張り、慌てた様子で弟の腕をつかんだ。
「なに言ってるんだ、ナルヴィ。ひとりでやるなんて……。お父さん、ぼくもやる!」
「兄さん……」
 ふたりが視線を交わし合う。
「どうする、ナルヴィだけでやるのか? ふたりでやるのか?」
「「ふたりでやる!」」
 ぴたりと揃った威勢のいい返事に、ロキは口元に笑みを作った。
「わかった。じゃあ、明日に必要な物を今日のうちに準備しておけよ」
「うん」
「ナルヴィ、部屋に行こう」
 自室にばたばたと駆けていくナリとナルヴィを見送ると、ロキも明日の準備をするため、玄関のほうへ足を向けた。
「ロキ」
 静かにかけられた声に、ロキは一歩踏み出した足を戻して振り向いた。
 ロキと子供のやりとりを黙って見守っていたシギュンと目が合う。
「ありがとう」
 彼女の穏やかな表情と優しい響きの言葉に、ロキの心が温かく、同時に少しむず痒くなった。
 ロキは自身の黒髪を手で掻くように触って、
「また、あいつらに危険なことをされたら大変だからな」
「そうね」
 ややぶっきらぼうな応えに、シギュンは日溜まりのように微笑んだ。
(……よかった)
 今回の遊びの提案は、彼女に心配をかけるのではないかと危惧の念を抱いていたのだが、どうやら賛成してくれたようだ。
 ロキは呼吸を二つ挟んでから、あらためて、澄んだ青い瞳を見た。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」