Loki‐隻眼のアース神‐ 5


 そこは、美しい場所だった。
(ここ、どこだ……?)
 景色に全く見覚えはない。それどころか、ここにやってきた記憶もなく、ロキは茫然とその場に立ち尽くす。
 見渡す限り続くのは、緑鮮やかな草原だ。吹く風に細い草がやわらかく波打って、さらさらと軽い音を奏でる。空は雲一つない澄み切った青色で、そこから降り注ぐ太陽の日差しは明るく暖かい。肺に落ちる空気には、ほのかに日と植物の香りがして清々しい。
(不思議なところだ……)
 今まで目にしたどんな景色とも、足を踏み入れたことのあるどんな場所とも異なっている。穏やかな雰囲気に心が安らかになっていくのを感じる。
 ロキはゆっくりと深呼吸して、緑と青の地平線を眺めた。
(……ん?)
 ふと、風の形を描く草原の先に何か別の動くものが見えた。
 それは豆粒ほどの影から徐々に大きさと輪郭、色を鮮明にしていき、やがて、ひとりの若い女性の姿が視認できるようになった。
 知り合いではない。しかし、なんだか気になってロキはじっと見つめてしまう。
 女性が動く。
 空のように曇りのない青い瞳。目が合った、ような気がした。
「………」
 胸の奥からこみ上げてくるものがあり、ロキは唇を小さく開いたが、発するべき言葉がわからず吐息しか出てこなかった。
 女性が顔をそらして背を向ける。結い上げた金色の髪が光を散らす。
(あ……)
 歩き出した女性を追うように、ロキは無意識に足を踏み出していた。

   ◇ 

 一瞬の暗転ののちに淡い光を感じた。
「ぅ……」
 ロキは小さな声をこぼして、ゆるゆると瞼を開いた。
 目の前に、薄暗い褐色が広がっている。その、凹凸のある固い質感には妙に覚えがある。
 ――あれは……岩だ。褐色の、岩の天井……。
 そこまで思考が及んだところで、ぼんやりとしていたロキの頭が本来の動きを取り戻し始める。
 脳裏に残っていた明るい草原の景色が遠退いて、黒褐色と白色、対照的なふたりの男の姿が浮かんできた。
(アッハルド……オーディン……? そうだ。俺は、どうしてこんなところで寝ているんだ……?)
 思い出せる最後の記憶は食堂でのことなのに、寝台に横たわっている現状を訝りながらロキは上半身を起こした。
「っ……」
 ずきりと首の後ろが鈍く痛んだ。右手で痛むところに触れてみる。傷はないようだが、少し熱をもっている。
(一体なんだよ……)
 顔をしかめて、状況を把握しようと室内に視線をやった。
「?!」
 視界に入ってきた光景にロキは目を見開き、息を呑んだ。
 暗色の外套を羽織った白髪の男がひとり、机の横にある椅子に座っている。灰色の隻眼が視線を返してくる。
「……オーディン……?」
「よく寝ていたな、ロキ」
 口元に薄く笑みを浮かべた表情、他者をからかうような響きのある言葉は、間違いない。
 ――なぜ、彼が自分の前にいるのか。
 毒薬で意識を失い、牢に入れられたはずだ。
(まずい)
 ロキは一連のそれに自分が荷担していたことを思い出して、頭から血の気が引くような感覚に襲われた。
 そっと腰に手を伸ばす。が、 求めた硬質な感触はなかった。視線を向けても、手にしようとしたものは見つからない。
(短剣は? どこだ……)
「探しているものはこれか?」
 オーディンがそう言い、ロキに手を掲げて示したのは装飾のない一本の短剣。
 ロキは寝台の上で体を硬直させた。
 あれは、たしかに自分の短剣だ。
 ――どうして? どうする?
 焦りが忙しなく思考を巡らせる。だが、自分をとらえる隻眼は物静かで、相手の感情も考えも少しも読み取ることができない。
 今、自分のとるべき行動が定まらず冷えた感覚だけが増していく。
「ロキ」
「!」
 オーディンが名前を呼ぶや、持っている短剣をロキに向かって放り投げた。
 宙で弧を描きながら飛んでくる短剣を、ロキはほとんど反射的に両手で受け止めた。馴染んだ重みと感触を手のひらに感じる。
(なんで……?)
 オーディンは自分にこれを渡したのか。
 ロキが困惑した面持ちで短剣を、オーディンを見れば、察したように視線の先から答えは返された。
「なに、自分の荷物を取り戻すときに見かけたから、ついでに持ってきただけだ」
 オーディンが椅子から腰を上げる。隻眼はまだロキに向けられたままだ。
「で、おまえはこれからどうする? わたしは今からこの館で捜し物をしてくるが、ついてくるか?」
(は……?)
 重なる疑問に脳の処理が追いつかない。
 オーディンは愉快そうに口元の笑みを広げた。
「まだ自分の置かれた状況がわかっていないのか? おまえはアッハルドに捕まったんだ」
(捕まった……俺が……?)
 ロキの首の後ろがずきりと鈍く痛んだ。そこに重い衝撃がよみがえり、自分を見下ろすアッハルドの姿が脳裏を過った。
(……そうだ)
 オーディンの言葉が思考に染みて、ロキはようやく過去をともなった現在を認識した。
 あらためて部屋を見回す。寝台や机や椅子がある程度の簡素な室内だが、少なくとも牢ではないようだ。
(……他のも取り上げられてるか)
 ロキは服を触り、自分の持ち物が短剣の他にもなくなっていることに気づいた。思わず舌を打つ。
 ――オーディンのように自分も捕まった……何も裏切ってはいないのに、なぜ。
「大方、深紅石の話を聞いたからだろう」
 またもや、ロキの考えを読んだかのようにオーディンが言った。
 軽い口調で放たれたそれに、ロキは違和感を覚えた。
 目の前の平然とした様子の相手と、毒薬を口にして倒れた記憶がない交ぜになって、胸中でわだかまっていた疑問の一つがこぼれ出る。
「ちょっとまてよ……そもそも、なんで、あんたがここにいるんだ? 牢に入れられたはずじゃ……」
「逃げてきたからに決まっている」
「逃げてきたって……」
 ――アングルボダの毒薬を飲んだのに?
 そう続きそうになった言葉をロキは寸前でこらえた。
 周囲から『鉄の森の魔女』と呼ばれ、一部には畏怖の念を抱かれているアングルボダの毒薬を飲んで、短時間で普通に動けるまでに回復したなんて信じられない。もしかして、自分が毒薬の量を間違えたのだろうか。
 ロキの脳裏に、紅いかぎ爪の絵が描かれた箱を手にして説明する灰色髪の女の姿が浮かぶ。
「おまえは、面白い知り合いをもっているな」
「っ……」
 視界の中で記憶の像が現実と重なった。
 オーディンが懐から取り出してロキに見せたのは、かぎ爪の絵のついた小さな木箱。それは見間違いようもなく、アングルボダの毒薬が入った箱だ。
 驚きが戸惑いに変わり、凍りつくような恐怖が生まれる。短剣を握る手に無意識に力が入る。
 オーディンが箱を持つ手を小さく左右に振った。
「そんな顔をするな。おまえがしたことは、この箱をもらうことで目をつぶろう」
 冷静な声音がロキの頭の中に鋭く響く。意味を理解して、聞かずにはいられなかった。
「あんたは、どこまで知ってるんだ……?」
 だが、その問いにオーディンは何も答えなかった。この話題は終わったとばかりに、箱を懐へ戻してしまった。
 隻眼がちらと部屋の扉のほうを見やる。
「ロキ。わたしはそろそろ行くとするが、おまえはどうする? ここであの男の顔色をうかがいながら生きるか、わたしに協力してここを出るか、どちらを選ぶ?」
「………」
 差し出された選択肢に感情が拒否を示す。どちらも選びたくはない。
(……考えろ)
 ロキは揺らぐ感情に影響されそうな思考を制して、この状況下での最善の答えを探す。
(オーディンは、正直信用できない。だけど、ここにひとりで残るのはまずい……)
 捕まえたはずのオーディンがいなくなったとアッハルドに知られれば、彼をここに連れてきた自分の身は確実に危うくなる。再度アッハルドをうまく説得することも、ここからひとりで逃げ出すことも難しいだろう。
 それぞれの可能性を測れば、選び取るべき答えはおのずと決まってくる。
(くそ、またか)
 脳裏を過ぎるのは森での出来事、こみ上げてくるのは屈辱的な悔しさだ。
 ロキは、嫌がる心をねじ伏せて口を開いた。
「俺は、あんたについていく」


 赤褐色の通路をできるだけ足音を立てないように進んでいく。床の端や壁の中央には発光石が埋め込まれ、動く二つの影を辺りにぼんやりと映し出す。
「もう少しこちらにこい。あまり離れていると気づかれる恐れがある」
 振り向かずにそう言われ、ロキはむっとしながらも前を歩くオーディンとの距離を半歩分詰めた。
(どういうつもりなんだ……)
 紺色の外套に覆われた背中を見据えながらロキは考える。
 オーディンとともにアッハルドの館から脱出することを選んだが、相手にたいする不信感は全く薄れていない。
 なぜ、オーディンは自分を誘ったのか。逃げるにせよ捜し物をするにせよ、ひとりのほうが効率がいいはずだ。しかも、自分は一度彼を裏切っている。行動に支障をきたす可能性がある不穏な存在をどうしてそばに置くのか。武器を返して、近づけて、背後から襲われるとは思っていないのか。
(……わからん)
 思考が読めない。疑問は深まるばかりだ。
「ロキ」
 オーディンが足を止めて顔だけで振り返る。
「向こう側に一気に駆け抜ける」
 その言葉にロキが覗くように通路の前方を見れば、四歩ほど先で十字路になっていた。向こう側までそんなに距離はないが、もたもたしていたら左右どちらかの通路から見つかる危険があるだろう。
 あらためて緊張感を覚えながら、ロキは隻眼と視線を合わせてうなずいた。
 オーディンが前に向き直る。
「行くぞ。遅れるなよ」
 言うや走り出したオーディンのあとにロキは続く。過ぎる視界の中に巨人の姿を見た気がして一瞬どきりとしたが、目的の通路に入っても追ってくる者はいなかった。
 通路が左に折れる。突き当たりに木製の扉が一つあるのが見えてくる。周りに他に道はない。
 オーディンが歩を緩めて、扉にそっと片耳を当てた。ロキは彼から二歩分離れたところで立ち止まって、背後にも意識をやりながらその様子を見守る。
「……中には誰もいないようだ。入るぞ」
 ロキを一瞥してからオーディンは扉を開いた。
 現れた空間は、ロキが捕らわれていた部屋より広い。壁際に背の高い棚があり、周囲には大小の木箱や麻袋がいくつも置かれている。
 躊躇せずにオーディンが足を踏み入れて、麻袋の中身を確認する。
「どうやら、ここは食料庫のようだな」
 ロキも木箱のふたを開けて中を見ると、言葉の通り、土のついた大量のいもが入っていた。棚に並ぶ短い木筒には、独特な香りのする木の実や葉が詰まっている。
「捜し物はあるのか」
「ここにはない。次へ行くぞ」
 食料庫を一周するとオーディンは早々と出て行く。簡単に見つからないものだとわかっているのか、その顔に落胆の色は少しもない。
 十字路まで引き返して、次は分岐を右に曲がる。こそこそと、しかし素早く、隠れ動きながら着いた場所は大量の樽が置かれた部屋だった。
「酒の貯蔵庫か」
 オーディンが樽の中身を一舐めして、少し眉間に皺を寄せながら言った。
「巨人族の酒は、やはり辛めで苦みが強いな」
「……捜し物は」
「ここにはないようだ」
 ロキの問いに即答して、オーディンは貯蔵庫を立ち去る。
(一体何を捜してるんだ?)
 眉を寄せながらロキもあとについていく。
 次に着いたのは、物置だ。ロキやオーディンが使うには大きすぎる箒や桶などが整然と置かれている。引き出しのついた棚もあり、これまでの飲食物に関した場所よりかは何かありそうな雰囲気だ。
 オーディンが逆さまの桶をひっくり返して中を見、続いて引き出しを開ける。対象物に向ける隻眼はこれまでと同じく真剣そのものだ。
 時間が経てば経つほど逃げづらくなるのに、そうまでして捜し出したいものとは何なのか。
「……なぁ、何を捜してるんだ?」
 部屋の出入り口のそばで探索の様子を静かに眺めていたロキだったが、そろそろ聞かずにはいられなくなった。
 オーディンが収穫のなかった引き出しを閉め、別の段に手をかけて新たな一つを開ける。
 やはり無視されるか、とロキがとくに落胆もなく思ったときだった。
「深紅石だ」
 碧眼を見開く。
 木材の擦れる音とともにロキの耳に届いたのは、聞き慣れないが聞き覚えのある言葉。食堂でのオーディンとアッハルドの会話がよみがえってくる。
 互いに相手の一挙一動を見据える眼、腹の底を探る物言い。
 部外者の自分でも、話題に上っているものが重要なものだとわかる応酬だった。
 ――深紅石とは、具体的に何なのか。
 知りたい。だが、自分がこれ以上知っても大丈夫なのか。オーディンは自分がアッハルドに捕まったのはそれが原因だと言っていた。
 視線の先で、全ての引き出しを確認し終えたオーディン周囲を見回す。端のほうの赤褐色の岩壁に近づいてその壁面を数秒間見つめたあと、ざらついたそこに触れた。隠し扉でも探しているのだろうか。
(神族の長が、巨人の世界にまできて、こんなに欲しがる深紅石……)
 考えれば考えるほど好奇心がうずく。警戒心が揺らぐ。
 ロキは意識的に一回深呼吸した。オーディンの姿を見据え、閉ざした口をゆっくりと開いた。
「深紅石って、何なんだ?」
「名の通り、深い紅色をした石のことだ」
「………」
 ――違う、そうじゃない。
 返答にロキは反射的に思ったが、灰色の隻眼と目が合って発しようとしていた言葉を喉の奥に呑み込んだ。
「知りたいか?」
 静かな問いかけだ。静謐に満たされた森の中にいるような気分になる。静けさに、逆に意識が騒ぐ。
「ロキ」
 呼ばれてもロキは瞬きをするだけで答えられない。本当にその先を聞いていいのか、どう対応すれば悪い方向には進まないのか、思考ばかりが忙しなく動くだけだ。
 感情に揺れる碧眼を見据えたまま、オーディンが口元に笑みを作った。
「そう怖がるな。わたしはアッハルドとは違う。巻き込んでしまった詫びだ、教えてやろう。深紅石というのは、強い力を宿した特別な石だ。これぐらいの大きさのもので、ちょっとした山ぐらいなら消し飛ばせるほどの力がある」
 オーディンが人差し指と親指で小さな丸を作った。
 ロキの頭の中に、河原に落ちているような丸い形をした、濃い赤色の小石の像が浮かぶ。
「深紅石がなぜ強い力を宿しているのか、わかっていない。そもそも、それが本当に石なのかすら不明だ。だからこそ、わたしはそれが本当は何であるのかが知りたくて捜しているんだ」
「………」
「今おまえに話せるのはこれぐらいだな。どうだ? さらに興味がわいたか?」
 まるで酒でも勧めるように気軽に求められた感想に、ロキができたのは顔を苦く歪めることだけだった。しかし、オーディンは返事を催促することなく、三秒ほど無言で目を合わせたあと、深紅石の捜索に戻っていった。
(……本当に、そんなものがあるのか……?)
 オーディンの姿を目で追いながらロキが真偽を疑う。あの話が真実なら、深紅石は強力な武器になる。平和という言葉が存在してはいるが、しょせんは弱肉強食の世界だ。強い力は誰もが欲しがるものだ。
 ――自分も、そうだ。
 無意識にロキが拳を握りしめる。自分を見下す同族の記憶が望んでもいないのに浮上してくる。向けられる蔑みの言葉、表情、視線。まるで、そのときに戻ったかのように忌々しさを覚える。
 ――深紅石があれば、あいつらを見返してやれるのか。
「ロキ」
「っ、」
 不意に己の名前が思考の中に響いてきてロキははっとした。不愉快な記憶が退いて、白髪の男の姿が視界に鮮明に映る。
「次に行くぞ」
「……あ、ああ」
 何事もないように横を通り過ぎていったオーディンに三歩ほど遅れて、ロキも物置から出た。


 巨人の目を盗みながら進み、見つけた部屋に入り、室内を物色する。
 あれから何度も繰り返しているが、深紅石は未だ見つけられない。手がかりさえ得ているように感じない。
「なぁ、あんたの話の通りのすごいものなら、深紅石はアッハルドの近くにあるんじゃないのか?」
「そうだな」
 ロキの助言にオーディンは淡泊な反応しか示さなかった。顔を振り向かせることもなく、中の様子を探っていた扉を開けるやさっさと入っていってしまう。
(ちょっと待てって……)
 ロキも慌てて内側に体を滑り込ませた。
 扉を超えたところで、思わず立ち止まる。
 後ろ手に閉めていた扉が背中に当たったがかまわない。それ以上に気になるものがロキの意識を前方に引きつけていた。
 そこは、これまでとは異なっていた。赤褐色の空間は同じだが、部屋ではなく下に続く階段になっている。巨人がひとり通れる程度の手狭の階段だ。階段の先に何があるのかは上からでは暗くてよくわからない。
 ロキが二の足を踏む。しかし、階段を下っていくオーディンの足取りに躊躇いはない。
(……くそ)
 ロキは心の中で悪態を吐くと、意を決して足を踏み出した。
 かつかつと硬い足音が反響する。影がゆらゆらと動きながら赤褐色の壁を滑っていく。
 後ろから誰かこないか。前から誰かこないか。
 行く先に何が現れるのか。
 緊張しながら最後の段を踏み終える。ようやくはっきりと前方に見えたのは、今までよりも古びた扉だ。
 オーディンがちらとロキに振り返ってから、扉を押し開いた。
 ――水のにおいがする。
 鼻先に漂ってきたやけに湿っぽい空気にロキは顔をしかめながら、オーディンに続いて中に入った。
 開けた空間だ。物は木でできた桶や柄杓がいくつか端のほうに置かれているだけで広々として、壁や天井は今まで通ってきた館のどの場所よりも岩の凸凹感が強い。まるで雨でも降ったかのように床がところどころ濡れている。
(あれは、池、か……?)
 奥へ視線を向けたロキは目を疑った。
 端から端までいっぱいに水を湛えた池がある。岩肌にそって水が流れているのか、水面が微かに揺れて波紋が立ち、耳を澄ますと流水の音が小さく聞こえてきた。
 周りの岩の景色と合わせて見ると、部屋というよりも洞窟のように感じた。
「水場か」
 オーディンが感想をつぶやく。
 なるほど。外に行かず、ここで水を汲んだりしているのか。
 納得すると同時にロキは落胆を覚えた。
(さすがにここにはないんじゃ……)
 念のため、端から端まで視線をやったが、予想通り深紅石らしきものは見当たらなかった。棚などの収納場所はなく、広さはあるが捜すところは少ない。
 だから、すぐにオーディンはここを出るだろう、そうロキは思ったが、オーディンは置いてある桶や柄杓を見たあと、池のほうに寄ってその場にしゃがみ込んだ。そこからなかなか立ち上がる気配がない。
 何をしているのだろうか。そこに何かあるのだろうか。
「オーディン?」
 呼びかけた背中がゆるりと動く。隻眼がロキのほうに向けられる。
「ロキ、気をつけろ」
「?」
 何に気をつけろというのか。ロキが疑問の視線を返すが、オーディンは答えず隻眼を向けてくるばかりだ。
(……なんだ?)
 ふと、困惑するロキの耳に重みのある音が微かに聞こえてきた。
 連なっているが不規則な音はだんだんと大きくなっていく。
 それは、自分の背後から響いてくる。自分達が下ってきた階段に続く扉のほうだ。
 ロキが振り返るのとほとんど同時に、扉が勢いよく開いた。
 湿った空気の中に肌をざわつかせるような鋭い気配を感じる。
「!?」
 ロキはほとんど反射的に横へと飛び退いていた。
 硬質な音が短く響く。
 ロキがそちらへ目を向ければ、自分がさっきまで立っていた床に矢が二本突き立っていた。
「物騒だな」
 後ろからオーディンの冷静な声がする。しかし、ロキに振り向く余裕はなかった。嫌な緊張感を覚えながら短剣の柄に手をかける。
 乱暴に扉を開けて中に入ってきたのは、巨人の男達だ。弓矢を構えるふたりの巨人の後ろから、黒褐色の髪の険しい表情をした男が進み出てくる。
(アッハルド……)
 見つかってしまった。
 ロキは顔を歪めて、アッハルドを、オーディンを交互に見やる。
 だが惑う碧眼とは対照的に、灰色の隻眼は黒い眼をまっすぐ受け止めていた。
「残念だったな、オーディン。もう逃げられんぞ」
「逃げる? わたしは捜し物をしているだけだ」
 アッハルドの鋭い声音に、オーディンは飄々と応える。その顔に焦りはわずかもなく、身構えることすらしない。
 目的の深紅石に関して何の手がかりも得ていないのに、なぜあんなにも余裕なのだろうか。
(策があるならどうにかしてくれ)
 胸の内でロキは唸らずにはいられない。
 状況は最悪だ。この部屋の唯一の出入り口である扉の前にはアッハルドとその部下達が武器を手にして立ちはだかり、背後には深さのわからない大きな池がある。岩壁には窓や通り抜けられそうな穴はない。
 ――戦うしかないのか。
 重たい喉で唾を呑み込み、ロキは短剣の柄を握る手の力を強くした。
「オーディン、貴様の本当の目的は何だ?」
「本当の目的? わたしの目的は話した通りだ」
「嘘を吐くな」
「信じてもらえないか。どうやら貴殿に協力を得ることはできないようだな。しかたがない」
(……なんだ……?)
 張りつめた空気がざわめくように動くのをロキは感じた。
 殺気とは違う。心地の良いものではない。空気が異質な何かに変化するようだ。
「“Feoh”“Ur”」
 ぽつりと空間に落とすようにオーディンが発したのは、奇妙な音の塊だった。
「“Thorn”“Ansur”」
 訝る巨人達の中でロキだけが表情を青ざめさせる。
(まさか……)
 思考が答えを導き出して、意識が記憶を呼び起こす。
 ――ルーン魔術。
 忘れていた。そうだ。オーディンは秀でた魔術師だった。
「“Rad”“ Ken”」
 この違和感が高まる魔力の圧だと悟って肌が粟立つ。
 どうにかしなければ……ロキはとっさに思ったが、対策を考えている時間はなかった。
「“Lagu”“Hagall”“Sigel”」
 そこでオーディンの声が止む。
 それに続くように周囲の大気が不意に止まる奇妙な感覚。
 静寂。
 しかし、それも一瞬のこと。
 どんっ、と地響きのような音が響いて空間が揺れ始める。
「なっ、なんだ?」
 巨人達が驚き、狼狽えた様子で辺りを見回す。
 揺れは徐々に大きくなっていき、上からぱらぱらと細かな石が落ちてくる。
 ――まずい、崩れる。
 ロキは本能的に察して、唯一の出入口のほうに目を向けた。
 階段の前、退路を閉ざすように並んでいた巨人達の列が乱れている。ある者は天井を見上げ、ある者は落ち着きなく周囲を見回す。巨人のひとりがアッハルドに耳打ちして階段を指さした。脱出することを促しているようだ。
(混乱に乗じて、俺も逃げられるか……?)
 今にも駆け出したい衝動を堪えてロキは脱出の時機を計る。
 揺れは収まらない。壁にひびが入る。
「おまえ達、ここから退避しろ」
 室内にアッハルドの低い声が響く。命令を受けて、巨人達が階段へと向かって動き出す。
 自分もあの最後尾に……。そう考えてロキはいつでも駆け出せるよう、足を一歩前に出した。
「――始祖たるユミルの住んでいた太古には、大地もなければ岩もなく、海もなければ天もなく、奈落の口があるばかりで、まだどこにも草さえ生えていなかった」
 それは、焦る思考の中に妙にはっきりと聞こえてきた。意識が自然と引っ張られる。
 動かした視線の先には、平然とした様子で崩れかけの空間に立っているオーディンの姿。
「あるとき、理想とする世界を欲しがったブルの息子達がユミルをうち殺した。彼らはその肉から大地を、骨からは山や岩を、流れ出た血は川や海に変えた。また、大きな頭蓋骨は大地に置いて天とした」
(ユミルの、詩……?)
 聞き覚えのあるそれにロキは気づいた。
 巨人ならば誰もが知っている、自分達の始祖ユミルが殺されたときの詩だ。神や人間からすると世界創造の話であり、そこに登場する人物のひとりが今唱えている本人だ。
 ――いきなり、なんだ?
 困惑と戸惑いに動きを止めたのはロキだけではない。階段に足をかけた体勢でアッハルドは振り返り、オーディンを睨みつけるように見据えた。
 オーディンはこの場の全ての視線を受け止めて唇に笑みを浮かべた。
「始祖の死に巨人達は憤った。しかし、ブルの息子達がいる土地に足を踏み入ることはできなかった。ユミルの血であった荒れ狂う水に飲まれ、世界の端へと押し流されてしまった。……では諸君、生きていたらまた逢おう」
 オーディンが言い終わると同時に、どんっ、と地響きが鳴り渡った。
 一度だけではなく、二度、三度。立っているのがやっとの揺れとともに視界が赤褐色の粉塵に覆われ、不意にロキは体に重い衝撃を感じた。まるで突き飛ばすようなそれに踏ん張りがきかずに地へ倒れ込む。
 ――冷たい。
(っ、水……?!)
 自分の体にぶつかり、浸しているものの正体をロキは知って、同時に血の気が引くのを感じた。
 赤褐色の幕が晴れた視界に見えたのは、壁が崩れてあちこちから流れ込んでくる大量の水。奥にあった池と地面との境はすっかりわからなくなり、半身を起こしたロキの胸元まで水が迫ってきている。
「早く! 上へ!」
 地響きに似た水流の音の中で怒号のような声が響き、アッハルド達が階段を上っていく姿が視界の端に映る。
 ロキも続こうとするが、勢いのある水の流れに足を取られて立ち上がることもできない。水位は容赦なく上昇していく。
「くそっ……」
 悪態を吐きながらロキは懸命に四肢を動かす。服が水を吸って重い。水圧のせいか呼吸がし辛い。
 しかし、諦めたらそこで終わりだ。
 どどどっ、と嫌な音が鼓膜を震わせる。ロキの必死の努力をあざ笑うかのように、新たに壁の一部が崩れて水が噴き出すように流れてきた。
「っ……」
 流水はたちまち速さを上げて量を増して、あがく体にまとわりつき自由を、気力を奪っていく。
 心臓が耳元で早鐘のように鳴り響く。体が言うことをきかない。息が乱れる。寒い。苦しい。頭がぼんやりとしてくる。
 開けた口に冷たい水が入ってきてロキは激しくむせた。
(このまま……俺は、死ぬのか……)
 ――ユミルの詩にあるような、溺れ死んだ巨人達のように。
 絶望が心身を呑み込む。
 抗う術は、もうロキには何もない。
 碧眼が静かに閉ざされた。


 途切れたはずの意識が眩しさを感じた。
「ぅ……」
 ロキはもがくように手や頭を左右に何度か振って、ゆるゆると瞼を開いた。
 碧色の眼に光が差し込む。照らされる視界に映る色と形。曖昧な思考に疑問が浮かぶ。
(俺は……どうしたんだ? ここは……)
 目の前に広がるのは、灰色がかった青と濃い緑の景色――それが、馴染みのある空と木の葉だと思い至ったとき、記憶が押し寄せるようによみがえってきた。
 赤褐色の空間に勢いよく流れ込んでくる水。冷たさが全身にまとわりついて自由を奪われる。逃れられない苦しみ、意識が呑み込まれていく恐怖。
「っ、」
 ロキは跳ね起きた。ぽたり、ぽたりと、頭から雫がこぼれ落ちる。
 全身濡れ鼠のようだ。しかし、記憶にあるような水に浸かっている部分はどこにもない。ここは地面の上だ。
 荒い呼吸を整えながら、ロキがゆっくりと周囲を見回して自分の置かれている状況を把握しようとする。
 左には草木が生い茂り、右には川が流れている。前と後ろは川に沿って短い草の生えた地が続き、頭上は枝葉が張り出した薄暗い空だ。脳裏に見える赤褐色の岩の景色はどこにもない。
(外……? どういうことだ? オーディンは……? アッハルドは……?)
 何度見回してもここはアッハルドの館ではなく、自分以外に誰もいない。喧噪とはほど遠い静かな空気の中、ゆったりとした川のせせらぎが聞こえてくる。
(俺は、助かったのか……)
 ずぶ濡れの、しかし、けがはない自分の体にロキは思った。水に呑まれたあと、あの部屋と繋がっていた川まで流されて運良くここにたどり着いた。
「………」
 ロキが顔をしかめる。
 なんだか釈然としない。素直に喜べない。これもオーディンの罠で、今にも次の危険が忍び寄ってきているのではないか。
 注意深くロキが視線を巡らせる。
 風が吹いて、木々や茂みをざわめかす。
 ロキは揺れる濃緑を注視した。
 ――見通せない向こう側から何か出てくるのでは……?
 嫌な考えが過って、ぶるりと体が震える。
 しかし、それは不安や恐怖からくる悪寒のせいだけではなかった。
 くしゅんっ、と大きなくしゃみが出た。
「さむ……」
 濡れた体に風は冷たく、じわじわと体温が奪われる。放っておいたら服が乾く前に風邪を引いてしまうだろう。
「……火を起こすか……」
 色々と考えなければならないことはあるが、ロキはひとまず暖を取ることにした。たき火に使う枝や葉などを集めるために立ち上がる。
 最初は川沿いでなんとかしようとしたが、使えそうな枝や葉が乏しい。気乗りはしないが、しかたない。ロキは周囲を警戒しながら茂みの先へと足を踏み入れた。
 風がおさまった森の中は静寂に包まれて、自分が立てる物音ばかりが聞こえてくる。妙な気配はしない。
 奥のほうへ行かないように気をつけながら、ロキはたき火に適した乾燥している素材を集めていく。
「しゅっ……」
 くしゃみが出る。体を動かしていても全然温かくならない。むしろ、自分の動きで切る空気に冷やされていくようだ。
「ああ、くそ……」
 思わずこぼした悪態は力ない。再びくしゃみをしてロキは鼻水をすすった。
 強い風が木々の間を通り抜けていく。身震いした拍子に左の脇に抱えていた枝が数本地面に落ちた。
 ロキは枝を拾おうと身を屈めて手を伸ばす。が、目測を誤って空振りした。二度目で拾い上げたが、今度は別の枝が左脇から落ちていった。
 音もなく地に転がった枝を見て、ロキの口からため息が漏れる。
(……こんなところで、何をしてるんだ、俺は……)
 ずぶ濡れになって、寒い思いをしながら枝を拾って……。情けない。これもそれも全部オーディンのせいだ。神族の長がヨツンヘイムになんてこなかったら、自分はこんな虚しいことをせずにすんだ。
 寒さと疲労、気だるさも感じてきて、自然と思いが負のほうへと傾いてしまう。しかし、普段のように苛立ちはわいてこない。そんな余裕さえ今はない。
 ロキが頭上を仰ぐ。木々の合間から見える空は暗さが増しているように見えた。
(日が暮れる前に、火を起こそう)
 だらだらと続きそうな不満を合理的な思考で遮って、ロキは視線を拾うべき枝に戻した。
「――ロキ」
「!」
 突然、自分の名を呼ばれた。ロキはぎょっとして慌てて辺りを見回した。
 離れたところに立つ、灰色の髪をしたひとりの女と目が合う。冷えた鉄のような輝きのある黒い眼がほんの少し見開かれた。
 見覚えがある。
「……アングルボダ……?」
「ああ、やっぱり。どうしたんだい、ひどい有り様だねぇ」
 ロキのぼんやりとした声に呼応するように、女が紫がかった唇の両端を上げる。
 愉快そうな中にどことなく慈愛を感じるその笑みは、間違いない。彼女だ。
「アングルボダ……」
 先程よりもはっきりと名前を呼んで、ロキは崩れるようにしゃがみこんだ。抱えていた枝や葉が地面に落ちる。視界の隅でそれを見ながらも、拾う気にはなれなかった。
「あらあら、そんな子供みたいに。珍しい」
 アングルボダがロキに歩み寄って、濡れた黒髪をすくように撫でる。
 数種類の薬草が混ざりあった馴染みのあるにおいが鼻先に漂い、触れられる感覚に胸の内側がむず痒くなってくる。
 ロキは彼女の手を受け入れながらも唇を尖らせた。
「子供扱いするな」
「はいはい」
 アングルボダは笑みを深くして黒髪から手を離した。
「何があったのか、家で温かい茶でも飲みながら聞こうじゃないか、ロキ」