Loki‐隻眼のアース神‐ 4


「まさか、このようなもてなしを受けるとはな」
 自分の身長より背もたれの高い大きな椅子に座ったオーディンが、ぬるい笑みを浮かべてそう言った。彼の視線の先には、パンや肉などの食べ物が盛られた皿、カップやスプーンといった木製の食器類が整然と並んでいる。
 つぶやくように発したその矛先は相手へか、それとも自分への皮肉か。どちらにも取れる言葉に、縦に長い食卓を挟んで正面に座るアッハルドは淡白に応答した。
「古き因縁に縛られ、遠方からの客人をもてなせない礼儀知らずどもとは違う」
「ほう、今の地位を築いてなお、殊勝な心を忘れていないとは喜ばしいな」
 黒色の双眸が睨むようにオーディンを見、灰色の隻眼が穏やかな目つきでアッハルドを見返す。
(なんだ……?)
 オーディンの隣の椅子に座るロキは、向かい合うふたりの様子に奇妙なものを感じた。
 初対面というには会話の距離が近く、互いをとらえる瞳には警戒の中にどことなく気安さの気配がある。
 もしかして……とロキが一つの考えを抱いたとき、アッハルドが交わる視線を解いて、壁のほうに控えるふたりの女巨人の給仕に向けて手を一回振った。給仕は一礼して食堂の奥にある扉へと消えていく。
 ――始まりだ。
 ロキは引っかかる疑問をひとまず思考の隅に置いて、眼前の場に意識を集中させた。
 扉から食堂に給仕が戻ってくる。その手には細長い木製の容器があり、アッハルド、オーディン、ロキのカップへ容器から麦酒を注いで回った。
 アッハルドがカップを持ち上げる。
「遠路はるばるようこそ、アース神族のオーディン。たいしたものはないが、遠慮なく食べるといい」
 そう言って、麦酒を口にした。
 オーディンは一呼吸分ほど自分のカップを見つめてから、手に取ると口に運んだ。その喉が一度、二度、動く。
(思っていたよりも躊躇しないんだな……)
 ロキも場に合わせて麦酒を飲んだ。ほろ苦さと酒精の味やにおいを感じたが、緊張のせいか普段のような心地よさを感じることはできなかった。
 オーディンが食卓にカップを戻して、揺れる黄金色の水面から正面に視線を移した。
「寛大なもてなしに感謝する。話に入る前に、貴殿に約束しておこう。わたしはこの地や貴殿の地位をおびやかしにきたわけではない。互いに有益な話をしにきたのだ」
「………」
 アッハルドがカップを置く。そばに控えていた給仕が麦酒を注ぐために動いたが、アッハルドは手を上げてそれを制して、彼女を含めた他の使用人を全員食堂から退出させた。
 質量が減ったせいだろうか。肺に落とす空気が妙に冷たい。
 息を呑みそうなロキの隣で、オーディンが唇に薄く笑みを象ったままで発言する。
「こいつは、追い払わなくていいのか?」
 隻眼がちらりと横に動いた。
 その言動の示すものが自分だとロキはすぐに悟ってむっとして隣を見たが、オーディンの目線はすでに前を向いていて全く相手にされない。
「ロキは我らの話の証人だ。同時に、不穏な事態のための見張りでもある」
「ほう。わたしの案内役がこの短時間でずいぶんと信頼されたものだな」
「オーディン」
 アッハルドが語調を強める。
「ここは巨人族の世界ヨツンヘイム、そして、この場所は我が領地であり我が館の中だ。アース神族の世界アースガルドの統治者であろうと、ここでの軽はずみな言動は慎んでもらおうか」
 黒の眼が言外の警告を見据える相手へ如実に伝える。
 オーディンは笑みを引いた。
「気分を害したのなら謝ろう。貴殿はひどく警戒しているようだが、わたしは友好的に話がしたいだけだ」
「例の石についての話……『深紅石』のことか」
 未だ険しさを残してアッハルドが本題を口にした。
(しんくせき……?)
 聞いたことのない名称に疑問を抱くロキの隣で、オーディンがうなずく。
「そうだ。新たな深紅石の在処がわかった」
「なんだと」
 アッハルドが瞠目して体を前に出す。ロキからオーディンの来訪を聞いたときよりも明らかに強い反応だ。
「どこに」
「ミッドガルドの西方に位置する山だ」
 尋ねるというよりは思わずといった風に発せられた疑問に、オーディンはあっさりと答えを寄越した。
「貴殿が長年探しているものだ。興味はあるだろう?」
 アッハルドの眉間にしわが寄る。急いた気を抑えるように上半身をゆっくりと背もたれに戻した。
「そうだと知っていて、なぜ俺に教える? 貴様も探しているものだろう」
「ああ。だが、見つけた深紅石は我々では採掘するのが難しくてな。そこで、採掘に関して高い技術力をもち、かつ、深紅石のことを知っている貴殿に力を貸してほしいのだ。むろん、ただでとは言わない。無事に採掘できたときは、礼として採掘した深紅石を渡そう」
「……どういうことだ。何を企んでいる?」
 不信感をあらわにしてアッハルドがオーディンを睨むように見据える。
 当然の反応だ。助力を得てまで採掘したものを礼に渡すなんて矛盾している。
 話題の主軸がわからないロキでもその点はすぐに理解できた。裏があるのではと疑わずにはいられない。
 しかし、漂い始めた疑念にオーディンは少しも動じない。
「企みはない。わたしもたしかに深紅石を探しているが、その目的は貴殿とは異なる。わたしは深紅石について知りたいのだ。あれが何であるのかを詳しく知りたい。そのために、石とそれがあった場所を調べられればいい」
「深紅石に強大な力があったとしてもいらないと?」
「目的地へは、道を知らなければたどり着くのは困難を極めるが、道さえ知っていればたどり着くことは可能だ」
「何があっても自分ならなんとかできると? 相変わらずの強気だな」
「それに、貴殿なら深紅石を悪いように扱わない、そうわかっているからな」
「……戯言を」
 攻め合うような応酬がアッハルドのため息混じりの一言で途切れる。無言の視線が下方に向き、一回の瞬きを挟んでから正面に戻った。
(まただ)
 静けさの中でロキは気づく。
 深く呼吸することを躊躇うほどに張りつめた空気は変わらない。アッハルドから鋭い刃のような気配は消えていない。なのに、漂う覇気が自分と対峙していたときよりも薄いように感じる。
 アッハルドがオーディンに屈したのか……いいや、弱気とは違う。
 これは少し前に覚えた違和感と似ている。
 やはり、もしかして。
(知り合い、なのか……?)
 旧知の仲。そう考えれば、これまでの会話の様子や妙な距離感にも納得がいった。
 ロキが思考の隅に置いていた疑問の答えを探すように、向かい合うふたりに視線を行き来させる。
「悪い提案ではないだろう?」
 オーディンが黙るアッハルドに問いかけた。
「……たしかに、その話に興味はある」
 ややあって、アッハルドはゆっくりと口を開いた。
「だが、オーディン、貴様のことはまだ信用できない。その提案にうなずくには信用が必要だ。こちらが要求する方法でその信用を示してもらいたい」
 黒の眼がオーディンから少し横にずれる。
(きた)
 ロキの心臓が一度大きく鼓動した。強い緊張が背筋を這い上っていく。
「ロキ」
「はい」
 アッハルドに呼ばれ、ロキは椅子から腰を上げた。隣から隻眼がまっすぐ向けられるのを感じながら、食卓を離れて食堂の右端に歩いていく。足を止めたのは、胸ほどの高さがある円形の台の前だ。台の上には、給仕が持っていたような容器と三つのカップがトレーにのせて置かれている。容器は黒っぽい液体に充たされ、カップの底には赤色の粉が少しだけ入っている。
 ロキは慎重にトレーを手にしてふたりのいる食卓に戻った。アッハルドの斜め左にトレーを置いて立ち止まる。
「これは我が一族に伝わる酒だ。その麦酒よりも酒精が高く、独特な苦みと酸味がある。これを一杯分飲み干せたら、貴様のことを信用しよう」
「よかろう」
 アッハルドがトレーを一瞥して言えば、オーディンは快諾した。
 きっとそう簡単には了承しないだろうと思い、彼を了承させる他の方法を考えていたロキは若干拍子抜けしながらもアッハルドを見る。アッハルドは小さくうなずいた。
 ロキが容器から中身をカップに均等に注ぐ。赤い粉はたちまち黒い液体の中へと溶け消えて、酒の強いにおいが鼻先に漂ってくる。
 半分より少し上まで注ぎ終えると、ロキは目視で酒に妙な変化がないことを確認してから、カップを乗せたトレーを持ってオーディンのそばへ行った。
「どうぞ」
「どうも」
 オーディンが差し出したトレーからカップを受け取る。ロキはこちらの思考が読まれないように交じり合った視線をすぐに離して踵を返すと、アッハルドにもカップを渡した。
 ふたりの間の食卓にトレーを置き、ロキも残ったカップを手に取った。
 黒色の水面から堅い顔が見返してくる。
(アングルボダは、毒薬はオーディンにしか効かないと言ってた。大丈夫、だよな……)
 自分で提案したことだが、いざそのときとなると不安と恐怖が決意を揺るがせる。アングルボダの魔女としての能力を信用していないわけではないが……。
 ロキの視界の端でアッハルドがカップの中身を飲み始める。眉一つ動かさず、途中で止めようとする気配は全くない。
 その様子を見て、尻込みするロキの心が熱を帯びる。
 ――ここまできたら、やるしかない。
 ロキはカップを持つ手に力を入れて、酒を口にした。
「っ、」
 口内に広がる苦味、次いで酸味と酒精が味覚だけでなく嗅覚も刺激する。喉から腹にかけて酒特有の熱さを感じる。
 アッハルドが言ったとおり、麦酒と比べて全てが強い。酒が得意な者でも、一口飲んだだけで遠ざけてもおかしくはないくせがある。
 独特な衝撃にロキは思わず飲むのを止めたが、カップを口から離すことはなく、一呼吸置いてから一気に飲み干した。
 内側から体がかっと熱くなる。カップを置いて、空いた手をそっと握っては開いてみる。あれ以外の異変は感じられない。
(大丈夫、か。アッハルドも大丈夫のようだな。……オーディンは?)
 ロキが視線を向ければ、ちょうど飲んでいる最中だった。喉が何度が動いたあと、静かにカップが置かれた。
「個性的な味だな。おもしろい」
 オーディンが感想を述べて微笑む。
「望みどおりに飲み干した。これで、わたしのことを信用してくれるか?」
 カップを傾けて空になった中身を見せるその表情も、声の調子にも変わったところはない。
「……ああ」
 アッハルドが低い声色で返事をする。
 ロキは気まずさのあまり、どちらの顔も直視することができず、自分のカップに視線を落とした。
(まだなのか? まさか効かないってことはないよな……)
 アングルボダは即効性だと言っていた。オーディンにわずかの不調も感じられない様子にロキは不安になる。
(お願いだ、効いてくれ)
 冷たいものを背に覚えながらロキが願う。その耳に新たな声が入ってくる。
「それでは、――」
 オーディンの言葉が不意に途切れた。
 気配の変化にロキが顔を上げてオーディンを見る。灰色の隻眼が見開かれ、顔色は青白く変わり、苦痛に歪んでいる。
「ぅ……」
 か細いうめき声。右手が胸の辺りをつかみ、苦しげな呼吸とともにオーディンの体が背もたれに倒れかかる。何度か体を起こそうとするような仕草があったが、小さく震えながら瞼は完全に閉じて、持ち上げていた右手はだらりと体の横に落ちた。
 室内が静寂に包まれる。
 オーディンはうなだれるように座ったまま、微動だにしない。
(薬が効いたのか……?)
 アッハルドと一度目を合わせてから、ロキは慎重にオーディンに近づいた。そっと口に手をかざし、首に触れる。
 息はある。脈もある。
「オーディン?」
 呼びかけに反応はない。
「うまくいったようだな」
 アッハルドがそばに歩いてくる。意識を失ったオーディンを見下ろす顔には安堵の色がにじんでいる。
 だが、ロキは少しも安心することができなかった。たまらず、わき上がって消えない疑問をアッハルドに投げかける。
「本当に殺さなくてよかったのですか?」
 ロキの提案は、オーディンを毒薬で殺すというものだった。けれど、アッハルドはオーディンを殺さずに捕らえることを望んだ。オーディンが死んだ場合、他のアース神族達が躊躇うことなく報復してくる可能性が高く、捕らえるほうが危険が低いからだという。
 しかし、ロキにはその理由が腑に落ちなかった。
 オーディンを殺したあと、間を置かずに、長を失って混乱するアースガルドを攻めたほうがいいのではないか、絶好の機会ではないのか、そう思えてならない。
 ふたりの会話の様子を目にした今は、他の理由もあるような気もしてきている。
 アッハルドはロキを見据えてさらりと答えた。
「これでいい」
「………」
 もやもやとするロキの傍らで、アッハルドは懐から短い笛を取り出すと一吹きした。
 細く高い音色が室内に響き、使用人が去った扉から彼らとは違う大柄の男の巨人がふたり出てきて、アッハルドのそばにやってきた。
「オーディンを牢に連れて行け」
 アッハルドの命令に、巨人のひとりがオーディンを肩に担ぎ上げて食堂の外へと出て行く。
 これから、アッハルドがオーディンをどうするのか。ロキは知らない。
(アース神族とやりあうための人質か……それとも、あの深紅石とやらの……)
「ロキ」
 アッハルドに呼ばれて、ロキは考え事を止めて、オーディンの姿が消えていった扉から顔を動かした。
「はい」
 黒の双眸がまっすぐ碧眼をとらえる。
「ここで聞いた話を誰にも話さないと、約束できるか?」
「? え、ええ……」
 真剣な面持ちでの問いかけは、これまで相手がまとっていた威圧感や険しさとはどこか異なっていた。本能的に奇妙なものを覚えて、ロキはややぎこちなくうなずいた。
「………」
 三秒ほどの間を置き、アッハルドが黙したままでロキから上のほうに視線を移す。
(なんだ……、っ!)
 ロキが怪訝に思った直後、首の後ろにどんっという強い衝撃を感じた。
 体が前によろめく。勝手に四肢から力が抜ける。意識が急速に薄れていく。
(アッハルド……)
 黒褐色の巨人と目が合ったのを最後に、ロキの意識はふっつりと途切れた。