あの背中を覚えている


「ほら、あそこ、わかるか?」
 自分の小さな体を胸に抱え上げた人間が言葉と目線で、水面がきらきら輝いている川の向こう側を示した。
 なんだろう?
 腕の中で、おれはうながされた場所を見つめる。
 小さな町がある。その外れには、横に長い瓦葺きの平屋が建っている。他の建物とは明らかに違う感じに、視線は自然とそれに奪われた。
 じっと見ていると、平屋に出入りする人間が何人もいるのがわかった。
 不思議だ。建物の周りはほとんどが田畑で、平屋の前に一本だけ生えた柳の枝葉が静かに風に吹かれているような場所だ。そんなところに、なぜあんなに集まっているのか。
「ねぇ……」
 あの平屋は何なのか。尋ねようとしたときだった。
 突然、ポーッという空気を割くような大きな音が響いてきて、おれはびっくりして人間のほうに向けかけた顔を川向こうへと戻した。
 平屋のほうから鈍色の煙が空にのぼっていく。
 火事かと思ったが、すぐにそうではないことを知った。
 平屋の端から大きな黒色が出てきた。まるで夜の闇を寄せ集めて固めたかのように真っ黒で、人間よりも大きい。煙をたなびかせながら、生き物のように大地の上を進んでいく。
「蒸気機関車だ」
 人間が言う。
「……蒸気機関車……」
 おれは囁くように繰り返した。
 黒色のそれが何であるのかを理解した途端、心臓の鼓動がどくどくと速く鳴り出した。体を巡る血がやけに熱く感じる。
 驚いたせいでも怖いわけでもない。理由は、誰に教えられなくともわかった。
 人間の肩に乗せている手をぎゅっと握りしめる。
 ――あれが、己の存在意義だ。
「おまえも、ああやって走るんだぞ」
「うん」
 おれは鉄路を進む蒸気機関車から目が離せないまま、自分を抱える人間に深く頷いた。

   ◆

 薄暗い車庫の中にあってもその存在感は少しも衰えない。手のひらで触れてみれば、火の入っていない黒色の車体はひんやりと冷たかったが、自分の心は逆に暖かくなっていく気がした。
 あと少し……あと、少しだ。
 走り出す日を思うと、衝動のような強い感情がわき上がってくる。おれはそれが体の中で爆発してしまわないように、そっと長い吐息に変えた。
「――ここにいたのか、豊川」
 ふいに聞き覚えのある声音に名前を呼ばれ、おれは振り返った。
 大きな扉が開いた車庫の出入口、陽光と薄闇の境界のそこに一人の壮年の男が立っている。耳を出した髪型に、黒色の制服。
 少し逆光だが、自分が所属する豊川鉄道に勤める人間だとわかった。
 名は、角田。おれの乗務員。開業の日、最初の運行を共にする人物だ。
 明らかにおれを捜しにきた様子の角田乗務員に疑問を覚える。
 今日は一日、休みを言い渡されている。運行に際しての最終的な調整は明日のはずだ。何の用なのだろう。
 おれは蒸気機関車のそばから離れて、角田乗務員の正面に歩み寄った。
「?」
 妙なことに気づいた。いつもよりも相手の眼差しが鋭く見える。
 気のせいか。極端な明暗のせいだろうか。
「今から、挨拶をしに豊橋駅に行く。すぐに身だしなみを整えろ」
 光のせいでも思い違いでもなかったようだ。目つきの他に、短い言葉の中で角田乗務員の声色は硬さを帯びていき、言い終えたあとのその表情はすっかり強張っている。
 ――官設鉄道の豊橋駅に挨拶? 何のために? どうして?
 おれは新たにいくつかの疑問を抱いたが、こちらを見下ろす相手からただならない気配を感じ取り、わかったと返事をするだけにした。
 そして、本当はまだ自分の車両のそばに居たかったが、言われた通りに身だしなみを正すために車庫を後にした。


 真新しい橋梁が川にかかっている。
 己の名の由来とも言えるこの地域に流れる河川の豊川と、そこを跨ぐ線路のために造られた橋を視界の端に小さくとらえながら、おれは角田乗務員の後ろについて歩いていく。
 目の前の相手の足取りは一歩一歩がどこか重く、背中からは車庫にいたときと変わらない濃い緊張感が漂ってくる。
 支度を整えて戻ったおれに、角田乗務員は「行くぞ」と言っただけで理由を明かすことはなかった。尋ねる機会もないまま、脇目も振らずに町中を抜けて、外れにある平屋造りの駅に入る。
 さらに奥に向かって少し歩いたところでようやく、角田乗務員が無言で突き進むのをやめた。相手が足を止めてこちらに振り返った場所は、豊橋駅の構内にある駅長室の前だ。
 もしかして、官設鉄道の駅を間借りするから、その挨拶のために来のだろうか?
 そう思ったのだが、
「豊川、おまえはここで待っていろ」
 出入口の扉の前で角田乗務員は言い、こちらの返事を待たずに一人でさっさと室内に入っていってしまった。
 おれは閉まる扉を見つめて数秒間立ち尽くしていたが、言いつけに従って、通行の邪魔にならないように駅長室の出入口の横に移動して待つことにした。
 やることは何もない。だから、通路を行き交う人々を見るともなしに眺める。
 人の声、足音、衣擦れ、それらに混じって汽車の音が聞こえてくる。
 ……近いうちに、自分もああやって走るんだ。
 おれは瞼を下ろして、頭の中に重厚な黒色の車体を思い浮かべた。
 ホームに止まった蒸気機関車は客を乗せ、荷物を積み込み、汽笛を鳴らすと、前に動き始める。天に高々と煙を吐き出して、大気を震わせながら力強く鉄路を駆ける。駅を出て、町を離れ、やがて豊川にかかる橋梁へと差し掛かる。
「――おい」
 突然、短い言葉が意識に入り込んできた。
 低い男の声音だった。しかし、それは知っている誰のものでもない。
 おれははっとして目を開いた。
 眼前に黒色が見えた。けれど、それは空想していた黒色とは違う。
 円形の金のボタンが二列並んだ片前の上着、それと同色のズボンだ。
 どこかで見たことがある。
 そうだ。ここの駅員が着ている制服だ。
「おまえ、こんなところで何をしている?」
 訝しさに満ちた問いかけに、おれは答えようとさらに視線を上げて、思わず息を呑んだ。
 珍しい銅色の短い髪をした若い男だ。こちらを見下ろしてくる、その茶色がかった暗色の瞳からは磨き上げられた鉄のような鋭い強さを感じる。
 ぞくりと背筋に冷たい感覚が駆け抜けた。
 上着の左胸にある『工』の形をした赤い刺繍が、妙にくっきりと視界に映る。
「もういらしていたんですか!」
 馴染みのある声が聞こえてきた。
 正面の彼の顔がおれから横に動く。
 おれも同じ方向に振り向けば、駅長室から角田乗務員が出てくるところだった。
「お久しぶりです。豊川鉄道の者です。今日はご挨拶に参りました」
 角田乗務員は足早におれの隣に並ぶと左肩に片手を置いた。
「こいつが、七月からここを借りて走ることになる、豊川鉄道の路線です。豊川、官設鉄道にご挨拶を」
「!」
 その台詞にどくんっと心臓が跳ねた。
 おれは強張る体を動かして、正面に立つ人物を再び見やった。
 銅色の髪、茶みを帯びた瞳。胸にある刺繍は、よく思い返せば駅員にはないものだ。
 『官設鉄道』という言葉が頭の中で渦を巻く。
 自分と同じ鉄路を走る者だが、自分とは違う。
 目の前にいる彼は、国が作った、日本で最初に誕生した鉄道路線だ。
 初めて、会った。
 自分は彼の線路の近くで生まれ育ったが、遠く東側から延びている路線であるためか、話に聞くだけで姿を見たことすらなかった。
 ――今、あの官設鉄道と対している。
 そう認識すると、さらに体が固くなってしまう。豊川鉄道の路線としてしっかりとするべき場面だとわかってはいるが、全身を縛りつけるような緊張が解けない。まだ子供の姿――人間で例えるところの十三歳ほど――のおれとは違って、青年のそれの官設鉄道の威圧感は圧倒的だ。
「……豊川」
 無言で立ち尽くすおれを、見兼ねたように急かすように角田乗務員が呼ぶ。
 ……恐れることはない。挨拶をするだけなんだ。
 おれは気力を奮い起こして、喉の奥から言葉を絞り出した。
「初めまして。豊川です。よろしくお願いします」
 勢いよくおじぎをする。
 どうにか言い切ったが、声はかすれてしまったし、震えてしまってもいた。ちゃんと聞こえた、だろうか?
 おれはすぐに強い不安を感じて、ゆっくりと上半身を起こした。
 先程と変わらない官設鉄道の姿があった。彼とまっすぐに目が合う。そらしたくなる衝動に駆られたが、おれは握り拳を作って堪えた。
「話には聞いている。こちらの運行の邪魔にはならないようにしてくれ」
「は、はい」
 表情は微動だにせず、素っ気ない物言い。返ってきたのは、それだけだった。
 官設鉄道はおれ達に背を向けて改札のほうに歩き出す。
「よろしくお願い致します」
 隣で角田乗務員が一歩前に出て深く頭を下げる。自分もそうするべきだとわかっていたが、おれはしなかった。
 ……気に入らない。
 優しく手を伸べられるようなことを期待していたわけではない。だが、あの態度には、胸の奥がもやもやとして気分が悪くなった。
 立ち止まるどころか振り返りもしない官設鉄道の黒い背中を、おれは目に力を込めて見送った。

   ◆

 体格にあったものを着ているはずなのに、腕を通したばかりの黒色の制服はひどく着心地がよくない。動かす一足一足はまるで紐が絡みついているかのように鈍くなり、両肩は岩が乗っているかのように重たい。
 もしかして、ここ数日で身長が伸びたのだろうか。己の走るべき『道』が増えたから。
「……まったく笑えないな」
 おれは廊下を歩きながら小声で独りごちた。自分以外誰もいない廊下で返ってくるものは何もなく、漂う静けさにため息がこぼれ出る。
 おれのこの姿を見たら、あいつらは何と言うのだろうか。
「……くそ……」
 少し前まで共に三河と信州を繋いでいた三信鉄道と伊那電気鉄道のことを思い出して、胸の奥から顔のほうへとこみ上げてきそうになる感情を抑え込む。
 今は悲しみにとらわれているときではない。そんなことをしていたら、存在意義を奪われて消えていった二人に失礼になる。
「おれが、あいつらの代わりに全てを走るんだ」
 自分自身に言い聞かせて、うつむきがちになっていた顔をぐっと上げた。
 角を曲がる。進む先に一つの部屋が見えてきた。扉の上部に『路線事務室』と書かれた横長の標識がついている。目指していた場所だ。
 おれは扉の前で足を止めた。持ち上げた右手で一瞬ノックをしそうになって、今の自分の立場に気づき、ドアノブを握った。力を入れて引けば、かたり、と小さな音が鳴って扉は難なく外側に開いた。中に入ると、たばこのにおいを微かに鼻先に感じた。
 おれのような鉄路を走る者専用の事務室として使われているその部屋は、大きな窓が一つの六畳ほどの広さで、中央には仕事のための机と椅子が二つずつ、端には書類や本が入った棚に引き出し、通信機器などが置いてある。
 ざっと室内を見回してから、おれは瞳をそこで唯一の人影に固定した。
「東海道本線」
 おれが入室してからも変わらず、椅子に座って書類に目を通していた銅色の髪の人物は、呼ぶとやっと顔だけでこちらに振り向いた。見知った鋭い眼が、おれの制服姿を上から下まで確認していくのがわかった。
 数秒の沈黙を経てから、視線が交わる。
「まずは駅長やその他の社員に紹介する。行くぞ、飯田線」
「っ、……わかった」
 さらりと発せられた聞き慣れない名前に、おれは喉に詰まるような感覚を覚えながらもなんとか返事をした。
 飯田線。それが、今日からのおれの新しい名前だ。東海道本線と中央本線を結ぶための、国鉄の新しい路線。
 もう、複数の私鉄が並んでそれぞれの想いを乗せて繋げていた鉄道ではない。
 ――自分は、豊川鉄道でも、鳳来寺鉄道でもなくなった。
 あらためて現実を突きつけられて胸が苦しくなる。
 東海道本線が席を立って、躊躇のない歩みで横を通り過ぎていく。おれの過去を知っているはずの彼は全く関心がないようだ。
 おれは同じ黒色の制服を目で追って、奥歯を噛みしめた。
 まさか、自分自身が、気に入らないお国路線になる日がくるなんて考えもしなかった。しかも、自分がこうして生き残った代わりに消えていった者達がいる。
 今のおれにあるのは人間の希望ではない。あるのは、屍の上の存在意義だ。
 悔しい。情けない。やるせない。
 だからこそ、やってやる。やるしかない。
 息を吸い、吐く。
 おれは、東海道本線の背中のほうへ足を踏み出した。

   ◆

 自分のものと並ぶ線路の一つに、静岡方面から電車が入ってくる。高いブレーキ音を上げながらホームの定位置に止まったそれからは人々が出て行き、そして新たに入っていく。
 淡々と動く人波の中で、唯一の銅色の髪が目に止まった。前を歩いていた人間が過ぎて行き、その人物が身につけている見覚えのある制服が明らかになる。
 銅髪の人物がこちらに振り向いた。
 自分を見るのは、茶に近い黒色の瞳。
 やっぱり、東海道本線か。
 そのつもりはなかったのだが、見ていたら、彼と目が合ってしまった。こちらをとらえたままで立ち止まられたら、何もせずに去るわけにはいかない。
 仕方なく、おれは久しぶりに顔を合わせた相手に歩み寄った。
「よう」
「飯田線か。久しぶりじゃの」
 耳に入ってきた声音に、知っていたのに頭の中がざわついた。ほんのりと微笑が滲む穏やかなその表情にも、違和感を覚える。
 だから、無難な仕事の話やどうでもいい世間話よりも皮肉が口をついて出た。
「新幹線が開業して、すっかり客を奪われたようだな」
 視線を東海道本線の線路に向ければ、ちょうど発車を知らせるベルが鳴り響き、電車が扉を閉めて走り出した。窓から見える車内の人の数は、いつか見たことのあるそれよりも確実に減っている。
「そうじゃのう」
 あっさりとした返事だった。見直した東海道本線の顔はさっきと変化してない。わずかな澱みも見受けられない。
 ……心から、そう思っているのか。
 おれは苛っとした。
 東海道新幹線が誕生してから、東海道本線は腑抜けてしまったように思える。
 時速二〇〇キロ以上で鉄路を駆ける世界初の高速鉄道は、国鉄内部の嫌悪とは正反対に外部の人々を魅了して、東海道本線の輸送量を助けるための複々線としての役割以上の結果を出した。
 一躍持て囃されるようになった新線。その反面で、東海道本線は新参者に人気をとられてしまう形となった。
 しかし、それにたいしての強い感情を彼が露わにするところを見たことはない。逆に、縁側に座って茶を飲みながらのんびりと余生を送る人間の老人のように、態度はすっかり軟化してしまった。
 悔しくないのか。日本が造った最初の鉄道としての威厳、あの偉そうな態度は一体どこにいったのだ。現状に甘んじていていいのか。
「時代の流れというものは、本当におもしろいのう」
 ふと、東海道本線が自身の路線よりも奥に位置する東海道新幹線の線路のほうに目をやって、どこか感慨深げに言った。
 肯定がほしいのか。否定がほしいのか。
 言葉に何かありそうな気配を感じたが、おれは込められた意味をつかみ取れずに、ただ訝って相手を見据える。
 瞬きを一つ挟んでから、東海道本線が再びこちらを向いた。
「飯田線。わしは事務室へ行く。豊橋には十三時までおる予定じゃ」
「……ああ」
 思わず身構えた自分に寄越されたのは仕事のための台詞で、なんだか肩すかしをくらった気分になる。けれど、その場を去り行く東海道本線を止める気にはなれなかった。
 小さくなっていく黒い背中を見つめながら、おれはため息を吐いた。
 外見は変わっていないのに、昔と比べて理解できない部分が増えた、ように思える。
「――飯田ちゃーん!」
 唐突に、後方から大きな呼び声が聞こえてきた。
 面倒くさいのがきた……。
 もやつく思考を吹き飛ばしたそれに三秒ほど迷ってから、おれは体ごと後ろに振り返る。
 遠くからでもはっきりとわかる赤いネクタイを身につけた人物が一人、歩いてくるのが視界に入った。
「飯田ちゃん」
 わざわざもう一度名前を呼んで、目の前で立ち止まる。一つに束ねた黒髪を右肩から前に流しているその男は、おれの真隣にホームをもつ名鉄名古屋本線の東側だ。
「なんだ、メイ。共有区間で問題でも起きたのか?」
「ううん。至って正常運行だよ。わたしはね、飯田ちゃんが東海道の奴に絡まれているようだから助けにきたの。でも、どうやら、わたしに恐れをなして逃げたようだけどね!」
 言い切ってメイが胸を張る。
 いや、違うだろう。おまえに気づいて東海道本線がここを離れたのだとしても、理由はきっと恐れじゃなくて、面倒の二文字からだ。
 そう考えたがおれは言うことはせずに、得意になっているメイを横目に自分のホームに向かって歩き出した。
 メイはすぐに、当たり前のように隣に並んでついてきた。
「ねぇ、飯田ちゃん。今日、一緒にお昼食べよう?」
「昼までに何の問題も起こらなかったらな」
「やったー!」
 聞き慣れた問いに言い慣れた答えを返せば、メイは満面の笑みを浮かべて祈るように両手を胸の前で組んだ。それはもう見慣れた反応だ。
 ……そういえば、こいつは豊川鉄道時代に出会ってから、ずっとこんな感じだな。
 過去と現在のこと。そして、東海道本線の先程の言葉が脳裏を過ぎって、おれはなんだか不思議な心地になった。