過去を思い、未来を想う


 駅のホームでまっすぐな目をして汽車を迎える彼を認めた途端、わたしは視線を動かせなくなってしまった。
 肩に届かない長さの黒髪と、飾り気のない白色のシャツに紺色のズボン。彼の姿はどこにでも見かけるようなありきたりなそれである。
 なのに、なぜだろう。とても気になる。知り合いでもないのに目が離せない。
 彼の存在を意識するにつれて、心臓がどくんどくんと強く速くなっていく。湯船に浸かったときのように体温が上がっていく感じがする。頭の芯がざわざわと騒ぎ出す。
 ……あの彼と、話をしてみたい。
 あそこに行ってみよう。
 わき上がった考えのままにわたしは彼がいるほうへ一歩、足を踏み出した。
「――こら、どこに行く気だ。岡崎線」
 ぺしっと軽く頭をはたかれた。
 突然の衝撃と声によって夢見心地な気分を強制的に覚まされ、わたしはむっとして後ろに振り向いた。
 こざっぱりとしたシャツ姿で坊主頭をした壮年の男が一人立っている。がっしりとした体格につり目がちなその顔立ちは怖いと言う人が多いが、わたしはもう慣れてしまって何とも思わない。
 だから、叩かれたところをさすりながら文句を言ってやる。
「いきなり痛いよ。運行に支障が出たらどうするの?」
「こんなことでそうなるほど、柔に作った覚えはない」
 自信満々にばっさりと言い返された。
 わたしはさらに怨めしげに睨んだが、男はちっとも動じない。相変わらず、岩のような奴だ。
 目の前の男は、自分が所属する愛知電気鉄道――通称『愛電』の社員の一人で、名を戸倉という。有松線時代からのわたしのお守り役だ。悪い人間ではないけれど、物言いに遠慮がなく、真面目なのがわりと傷である。
「おまえが勝手に出歩いたほうが運行に関わるだろ」
「わたし、馬鹿じゃないもん。自分の危機管理ぐらいできるよ」
 ふいっと顔を戸倉からそらす。と、視界に再びホームの景色が戻った。
 彼が駅員と思わしき人間と話をしている。
 けれど、残念ながら声はここまで聞こえてこない。
 ……気になる。
「岡崎線、用事はすんだから本社に帰るぞ」
「ねぇ、あそこにいるの誰だか知ってる?」
「あそこ……?」
「前の、駅のところ。話をしてる二人の、背の高いほうじゃなくて低いほうだよ。彼、わたしと同じ鉄路を走る者だと思うんだけど……あっ」
 説明しているうちに彼は駅員と別れて、停車している汽車の中に入っていってしまった。
「あーあーぁ……」
 急速に寂しさがこみ上げてくる。たまらず、足が彼のほうに出る。
 が、肩をつかまれて、軽くつんのめるようにしかならなかった。
 わたしはいつのまにか隣に来ていた戸倉を睨み付ける。
 しかし、戸倉はわたしの右肩に片手を置いたままで、こっちを横目でちらと見てから駅に視線をやった。
「あれは、『豊川鉄道』だな」
 一呼吸のあとに発せられたのは、自分が求めていた答えだった。
 耳にした途端、不安がまるで桶の水をかけられた泥汚れのように流れ去っていった。
「豊川、鉄道……」
 それが彼の正体か。
 呼べる名前がわかっただけなのに、すっかり落ち着いていた胸の鼓動がまた速くなり始める。
 すぐに新たな問いがわいてきた。
「豊川鉄道の何線なの? どこを走ってるの?」
「路線は、豊橋と奥三河の方面を繋ぐ一つしかなかったはずだ。さらに信州のほうへ行く鳳来寺鉄道とかいう会社と直通はしているようだが」
「そっか、一人なんだ。奥三河って山のほうだよね。大変そうだなぁ」
 新しい情報を得て、どきどきがそわそわに変わる。心がふわふわとしてくる。
 あー、やっぱり……!
「だめだ。帰るぞ」
 唐突に、戸倉がわたしを見据えてぴしゃりと言い放ってきた。
「わたしっ、何も言ってないよ!?」
 どきっとして、反射的に言葉が口から飛び出していた。
 戸倉は少しだけ目を細める。
「『あそこに行きたい』とか『あいつと話をしたい』とか、そんなようなことだろ。何年おまえの面倒を見ていると思っているんだ。それくらいわかる。ほら、寄り道しないで帰るぞ」
「うー」
 図星だ。腹が立つほどに悔しい。
 でも、はい、とは言いたくない。頭を縦に振りたくない。
 そうだ。見透かされているのなら、いっそ本気で駄々をこねようと思いついた。
「いやだ。十分ぐらいならいいでしょ? 何か今後の運行に役立つかもしれないしさー。挨拶だけでもしたいな。豊川鉄道の彼と直接会ってみたいなぁ!」
 言いながら、肩に伸ばされている戸倉の腕をばしばしと叩く。
 戸倉はしかめっ面をして指一本動かさずに黙っている。
 叩いている手のひらが痛くなってきたが、こっちも意地だ。抗議はやめない。
「ねーえー! せめて、九分だけでも!」
「……そんなに会いたいのか?」
「うん!」
「どうしても?」
「うん!」
「じゃあ、実績を上げて豊橋まで延伸しろ」
「……へ?」
 予想の中にはなかった台詞を聞いて、わたしは思わず手を止めてしまった。
 戸倉は真面目な調子で続ける。
「豊橋まで延伸できたら、好きなだけ奴に会ってかまわない」
 魅力的な響きに頭の中がくらりとする。
 けれど、言われた言葉を頭の中で復唱して、気がついた。
「え、それって、つまり……今は会えないってことじゃん!」
「そうだ。それに、どうせ今はもう会えないだろ」
「?」
 戸倉の言葉の意味について考えようとしたとき、ジリリリと特徴的な音が聞こえてきた。
 なんだか、覚えがあるような……もしかして、発車を知らせるベルの音?
 わたしははっとして駅のホームを見た。
 汽車が汽笛を一回鳴らす。そしてまもなくして、思った通りに漆黒の車体は空気を震わせながらゆっくりと動き出した。
 ……やられた。
 わたしは戸倉に勢いよく向き直った。
「ひどい! 行っちゃう!」
「残念だったな」
 戸倉には罪悪感も悪びれた様子も全くない。相変わらずの強面で冷静な態度で、わたしの右腕をつかむと踵を返す。ぐいぐいと引っ張られる。
「ちょっと……」
「ここにいる必要はない。今のおまえに他社と関わる理由はない。それらを望むなら、するべきことをして良い結果を出せ」
「うわー、腹立つ」
 しかし、わたしは戸倉の手を振り払わず、引かれるままに足を動かした。
 不愉快で文句を返したが、言われたことは正論だとわかっているからだ。
「ねぇ、ちゃんと走っていたら、豊橋まで延伸、絶対してくれるんだよね?」
「良い結果が出たらな。上に交渉してやる」
「本当だね? 約束だよ! わたし、頑張るから」
「ああ」
 肯定の返事を耳にして、後ろを振り返る。
 離れていく小さな駅に、先程見た豊川鉄道の彼の姿を思い描き、わたしはいつか堂々と会うことを心に誓った。

   ◆

「ふーんふーん、ふふふーんっ。でーきた!」
 鼻歌のきりのいいところで貼り終えた。
 わたしは壁の掲示板から少し離れて全体を確認する。
 銀フレームに囲われた横長の板には真ん中のポスターを中心にして、古い写真が左右に六枚ずつぴたりとおさまっている。
 ポスターはわかりやすさを重視した簡素な年表と路線の図で、写真は主に白黒ということもあって、一番上に貼った赤文字の題名が小さめだがちゃんと目立つ。
 『名古屋本線 伊奈・豊橋間 開通90周年 2017.6.1 ミニ写真展』
「……もうそんなに経つのか……」
 完成した形を眺めていると、あらためて感慨がこみ上げてきた。
 あの日、偶然訪れた場所で見かけた飯田ちゃん――もとい、豊川ちゃんへの胸のときめきは忘れられない。念願が叶い、初めて言葉を交わしたときのことも今でもはっきりと覚えている。
 九十年の間に、互いに所属する会社が変わったり、戦争があったりなどしたが、現在もこうしてすぐそばに居られているのは奇跡、いや運命を感じる。
「それを会社で祝ってもらえるなんて、わたしって幸福者だなぁ」
 ふふふと笑みがこぼれる。
 あっ、どうせなら、写真にわたしの秘蔵のものも入れておけばよかったかも。
「――おい、愛電。あと一時間で始発だぞ。企画の準備は終わったのか」
 暖かく幸せな心地は、唐突に背後から浴びせられたその冷たい声音によって害された。
 誰か、なんてわかっている。
 だから、わたしは不愉快が面に出るままにして声のほうに振り返った。
 予想通り、自分と同じ赤いネクタイと濃紺色の制服が視界に入る。
「名岐。君こそ、自分の持ち場を離れて何してるの? さぼらないでよね。わたしに皺寄せがくるじゃない」
「それはこちらの台詞だ。そんな企画に浮かれて運行を乱したら、ただではおかないからな」
 腕を組み偉そうに言い返してきたのは、金山駅を境に岐阜方面へ走る名古屋本線を務める男だ。
 わけあって名古屋本線は東西で分かれて二人で担当している。東側担当はわたしで、西側担当が目の前にいるこの名岐。制服の名札にはどちらにも『名古屋本線』としか書かれてないが、見分け方は一応ある。一つに結って肩の前に流している髪の方向だ。わたしは右へ、名岐の奴は左にしている。
 ちなみに『名岐』というのはこいつの元の会社のときの名前で、会社が合併して名鉄の名古屋本線となったあとも、わたしは面倒くさいから変えずにそう呼んでいる。わたしのことを前の会社の『愛電』と呼び続ける向こうも、きっとそんな感じなのだろう。
「子供じゃないんだからそんなことにはなりませんー。っていうか、この企画は君も賛同したじゃん」
 名鉄では、路線を盛り上げるために積極的に記念の企画を行っている。それを決める会議で、思いつきでわたしが豊橋までの延伸記念を発案したところ、意外なことに名岐がのってきたのだ。いつもは文句ばかり言うくせに。
「そうだな」
「じゃあ、放っておいてよ。わたしが企画の準備をするって決まったんだし」
 名岐が次に何か返してくる前に顔を背ける。
 こいつに関わっている場合ではない。準備はまだ終わってはないのだ。ミニ写真展の他に、7000系『逆さ富士』と記念イラストの系統板も展示しなくては。あと、立て看板も置かないと。
 わたしは隅に置いてある展示物のそばに立って、配置を考える。
 開催場所は伊奈駅の改札内だ。そもそもイベント用のスペースではないから、質素で狭い感じがするのが少し残念なところだが、その分うまくやれば、人々の目にはつきやすい。もちろん展示は、通行の邪魔にならないように注意しなければいけない。
「意気込んでいたわりには小規模だな」
 ……窓際はどうだろうか。
 系統板を置いてみて、ミニ写真展とのバランスを確認する。
「よくこんな写真がまだあったな」
 うん、なかなか良い。陽光も当たって凛々しく見える。
「今見ても趣味の悪い駅だな、この吉田駅は」
 ぷつん、とわたしの中で理性の一部分が切れる音がした。
 立て看板に向かっていた足をミニ写真展の掲示板のほうへと素早く変えて、その前にいる名岐を怒鳴る。
「ちょっと! せっかくの記念展で他人の思い出をけなすのやめてくれない!? どこが趣味悪いの! 三角屋根でちょっとこじんまりしているところが可愛いじゃない! 隣の東海道線のすました駅舎なんかより賑やかで素敵じゃない!」
 威嚇するように名岐をきっと睨み付ける。
 吉田駅はわたしが豊橋延伸の際に間借りした駅で、建てたのは他でもない豊川鉄道――そう、飯田ちゃんの過去の会社だ。彼が国鉄化したあとも、わたしは東海道線のほうではなくこっちに乗り入れを続けていた。
 今は無くなってしまった、わたしのとてもとても大切な場所だ。それを悪く言うなんて許せない……!
「前言撤回して、名岐!」
「はいはい。きさまは飯田線が関わると、相変わらずうるさくなるな」
 見返してくる名岐に反省の色はわずかにもない。どころか、呆れたようなため息まで吐いた。
 わたしは頬を膨らませる。
 今さらだが、性格が悪くて相手にするのが本当に嫌になる奴だ。
「わかってるなら言わないでよ! この企画に君も賛同したくせに、全然お祝いする気ないみたいじゃない。何なの?」
「おれは別に、豊橋延伸したことを祝いたいわけではない」
「はあ?」
 意味不明。
 しかし、名岐はわたしの怪訝の視線なんて意に介した様子はなく、改めてミニ写真展に目を向ける。
「今年は民営化三十周年でやたらJRが目立っているから、その管轄である豊橋駅が関係している記念事を他社がしてやったら面白いかも、と思っただけだ。実際は、ぱっとしなくて残念だ」
 また、ため息。
 本当に失礼な奴だ。
「そんなことにわたしの記念を使わないでよ! 祝う気がないなら、もうどこか行って。企画の邪魔!」
「言われなくても、そろそろ時間だから行く。きさまも業務をさぼるなよ」
「しませんよーだっ」
 去っていく名岐の背中に向かってあっかんべーをしてやる。
 名岐は背筋をまっすぐに伸ばしてすたすたと歩いていき、一度も振り返らなかった。そこがまた腹立たしいことこの上ない。
 ……まったく、至福の一時が台無しだ。
 視界から鬱陶しい姿が消え、靴音も聞こえなくなってから、わたしは展示に向き直った。深呼吸して名岐への怒りを意識の端に追いやってから、最後の仕上げに取りかかる。
 系統板は、ここ。立て看板は……この辺りがいいかな。
 よし、これで完成だ。
 豊橋延伸九十周年記念展の全体を眺める。
 延伸の歴史についてのミニ写真展に、活躍した特急の系統板の展示。この他に外では、記念のカードやメモ帳が配布される予定だ。
「……いいじゃない」
 わたしは一人頷く。
 名岐の言う通り、たしかに規模は小さいかもしれない。でも、こういうことをやるのとやらないのとでは大きく違うものだ。これを機会にして少しでも多くの人に、名古屋本線の東側の歴史を知ってもらえたら嬉しい。
 あと、豊川鉄道の存在についても。
「……百周年のときは、もっと豪華にしようかな」
 未来を想いながら、わたしは九十年目の大事な節目を写真におさめた。