おそれる話
橙色を帯びた空が広がっている。
夜明けか、夕暮れか。
どちらにも思える景色の中に一人の男が立っている。
鮮やかな周囲の色に呑まれない、茶色い髪と同色の眼。身にまとうのは黒色の制服、その左胸で光る金の記章。
――ああ、これは、夢だ。
切れ長の瞳と視線が交わって、彼女は思った。
だって、この世界に彼はもういないのだから。
◇
「……国鉄の最期を見たのは、貴方?」
二人きりの会議室内にぽつりと一つの問いが落ちた。
机の上の書類に目を通していた男――JR東日本の主幹が顔を上げ、机を挟んだ向こう側に座る女――JR東海の主幹を見た。
「いきなり、なんだい?」
「聞いたのは私よ」
東の問い返しに東海が眉をひそめて口調を強くする。
言外に理由の返答の拒否を漂わす言葉に東は瞬きを一回、呼吸を一つ、間に置いてから再び口を開いた。
「国鉄最後の日の朝には会った。だけど、彼が消えていくところは見ていないよ」
僕も忙しかったからね、とつけ加えてほんのりと笑みを浮かべる。
だが、東海は相手の表情に全く引きずられない。顔は険しいままで無言で東を見据え続ける。
自分と同じ、黒い髪に茶色の強い黒の眼。だが、自分を含めた他のJRの擬人達とは異なり、切れ長の瞳と鼻筋の通った顔立ちはじっくり見れば見るほどに、彼に……国鉄に似ているように思える。他者を射竦めるような視線こそないが、まとう雰囲気に漂う絶対的な自信も似ていて、さらにその印象を強くする。
頭の隅がちりっと痛む。東海は念のため、もう一度問おうと唇を動かした。
「悪い夢でも見たのかい?」
発したのは、東だ。
東海は開きかけた唇を一文字に引き結んだ。
「心配しなくても、国鉄はもういないよ。彼がいなくなるから、僕達が生まれたんだから。一九八七年三月三一日に国鉄はなくなった」
「……心配なんて、していないわ」
東の言葉から丸々二呼吸分の沈黙を挟んで東海が言い返した。
脳裏に橙色の背景に立つ彼の人の姿が過ぎる。
「じゃあ、おそれているの?」
「っ、」
一瞬、東海は息を詰まらせた。胸の中を鋭い爪で引っかかれたかのような嫌な感覚がした。
意識的に大きく息を吸ってから睨むように東海が東を見据え直す。
冷静に視線を受け止め返してくる相手の表情からは笑みが消え、やはり、見つめていると不愉快な気持ちになってくる。
同時に、思考の端でわだかまっていた疑問が喉に落ちてきた。
「東、貴方は――」
トン、トン、トン。
不意に室内に響いた物音に東海はとっさに口をつぐんだ。
二つの黒茶色の双眸がやや忙しないノックの音がした扉へと移動する。
「はい、どうぞ」
東が応えると、扉が外側から開かれた。
「二人とも遅れてごめん! 在来線のトラブルが重なっちゃって、さぁ……」
扉を開けるなり発せられた苦笑混じりの声が、部屋の雰囲気と寄越された視線の重さに気づいて失速する。
「……え、ええっと、本当に、遅れてすみません、でした……」
ドアノブから手を放すことも忘れて、男の目線が室内の二人を行き来する。
冷や汗すら垂れてきそうなほど急速に顔色を悪くする来訪者から、東海は顔を机上の書類に移した。
「その連絡なら聞いてるわ。お疲れさま」
「お疲れさま、西。席に座って。さあ、本州三社の会議を始めようか」
東が笑顔で言って、来訪者の男――JR西日本の主幹はぎこちなくうなずいた。
◇
部屋の扉が閉まる。
足音が、気配が遠ざかり、完全になくなった。
「……東海の奴、ずいぶん機嫌が悪かったけど、なんかあったのか?」
会議終了後、早々と席を立った東海が出て行った扉から西が目を外して、のんびりと書類を鞄にしまっている東に尋ねた。
東は忘れ物の有無を確認して鞄の口を閉じてから、西の黒茶色の瞳を見た。
「君が来る前に少し話をしていてね」
「えっ、それって、俺のことじゃないよな……?」
西が少し表情を歪める。そこには過去の様々を思い返した感情がにじんでいた。
東は考えるように顎に軽く丸めた片手を当てた。
「そうだな……君がおそれるような話かな」
「いっ」
俺またなんか東海の怒りを買うことをしたっけ……などと、焦りを浮かべてぶつぶつとつぶやき始めた西に、東は穏やかな声をかけた。
「大丈夫、君のことじゃないよ。……僕もおそれる話さ」