東海の営む者と走る者


 すっかり暗くなった空の下に出て、JR東海の主幹である彼女は柳眉をひそめた。湿り気を帯びた風が肩上で切り整えられた黒髪を小さく揺らしていく。
 まだ雨の気配は残っているが、視界には人や車が行き交う、いつもの名古屋駅の夜の景色が広がる。朝からしつこく降り続いていた雨は、日が沈む頃には嘘のように止んだ。地面にできた水溜まりの名残りが周囲の灯りをぼんやりと反射して、どこからか秋を告げる虫の鳴き声が聞こえてくる。
(こっちはこんなに穏やかになったのに、静岡では新幹線が走れないほど雨が降っているなんてね……)
 東海主幹は小さな息とともに、紺色のスーツをまとう肩を少し落とした。
(厄介なものね、線状降水帯っていうのは……)
 濡れたコンクリートの道を歩き出す。自動車が走る音と足音が湿った空気に淡々と響く。
 事の起こりは、『台風』だった。
 台風――それ自体は、特段珍しいものではない。東海道新幹線の運行に影響が出ることはほぼ毎年あることで、夏から秋にかけての風物詩のようなものだ。時の流れとともにJR東海は台風に対しての対策を考え、講じてきた。ここ数年は計画運休も積極的に行い、何本も列車が立ち往生するようなひどい事態になることを避けるようにしてきた。
 だが、今回の台風は例年とは……いや、これまでとは違った。培った経験からの予測をことごとく打ち壊してくるものだった。
 ――線状降水帯。
 ゲリラ豪雨よりも、ここ最近よく耳にするようになった言葉だ。長時間にわたって降り続く雨は、バケツをひっくり返したような局地的で短時間の雨よりも厄介で、被害が大きくなる傾向がある。他の地域で注意が促されているのを、その被害の様子をニュースで見聞きしたことは何度もあった。しかし、これまで東海道新幹線の線路上には発生したことがなかった。
 だから今日、線状降水帯に関してのノウハウの弱さが露呈した。今回の台風が、新幹線では前日から計画運休を立てるほどの強さではなかった点も不運のひとつだ。
 台風が近づくにつれて雨は強さを増していき、東海道新幹線の雨量計は規定値を越えた。すぐに一部区間で東海道新幹線は運転を見合わせた。ここまでは予想できたことで、幸い風のほうは暴風とまではいかず、雨足が弱まったら運行が再開できる見込みだった。しかし突然、愛知県の東部で線状降水帯が発生した。それは台風の風に流される形で静岡のほうへ動き、ちょうど東海道新幹線の線路上にかかった。
 予想に反して雨が止まない。雨雲は次々と流れ込んできて一向に雨足は弱くならず、豊橋駅から静岡駅間の列車は運転再開の見込みも立たないまま、ついに二十一時、運輸指令は今日の運行を諦める判断を下した。
(東海道新幹線……変にすねていないといいけれど)
 運転の打ち切りが決まったあと、電話越しに聞いた東海道新幹線の擬人の覇気のない声を思い出す。
 東海主幹は手に持つビニール袋の中身が傾かないように注意しながら、少しだけ歩く速度を速めた。
 JR東海本社が入っている名古屋駅のビルをあとにして、向かった先は幹線道路沿いにある大きな集合住宅だ。まるで団地のように建物が整然と並ぶそこは、JR東海の社宅だ。そして、東海主幹が訪ねようとしている者の住まいでもある。
 東海主幹は五階の端のほうにある窓に視線を向けた。濃い色のカーテンが閉められており、室内は見えないが、明かりがついていることはわかった。
 エントランスへ入り、自動扉前のインターホンで三桁の部屋番号を馴れた手つきで押していく。最後に『呼出し』を押すと、ピロンピロンと電子音が鳴って、不意に途切れた。
「……はい」
 ややくぐもった男の声がスピーカーから発せられた。インターホン越しだから、ではないだろう。
「私よ。これ、持ってきたわ」
 東海主幹が、中央より上につけられたカメラのレンズの高さまで白いビニール袋を持った右手を挙げる。
「………」
 沈黙。
 レンズの向こう側でしかめっ面を作る相手の像が、東海主幹の脳裏を過った。
 黙りこんでから時間的にはおよそ十秒ほど。
「……どうぞ」
 小さな声がそう言って、自動扉が開く。
 東海主幹はインターホンから離れて、自動扉の先へと足を向けた。


 雨風の跡が残るコンクリート造りの廊下は静かだ。ここに住む者の何人かは、まだ業務に従事しているのだろう。
(東海道新幹線の部屋は……ここね)
 探していた部屋番号を見つけて、東海主幹が足を止める。玄関の明かりはついていない。
 黒色の扉横にあるインターホンの丸いボタンを押すと、少しの間があってから、曇りガラスが白色の光を灯した。
 ガチャリと音を立てて目の前の扉が開く。
 若い一人の男と視線が重なった。
「こんばんは」
 室内から現れた相手に、東海主幹はいつもと変わらない調子で挨拶をした。
「……お疲れさま」
 茶色がかった黒色の瞳をほんの少しだけ細めて、東海道新幹線は東海主幹を部屋に入れた。
 前を歩く彼のその背中に流れる白い髪の毛は、業務中に見かけるときとは異なり一つに結われてはおらず、動く度に自由に揺れる。だが、開放的なのはそこだけで、格好は上着を脱いだだけのワイシャツ姿だ。
(一時間……は経ってるわね)
 眼前の相手が退社した時間を思い返して、東海主幹は密かに眉をひそめた。
 玄関から短い廊下を通って、台所が端に位置する居間に入る。
「お茶でいいか?」
「必要ないわ。それよりも、これ」
 戸棚に手をかけた東海道新幹線を遮るように、東海主幹が手にしていたビニール袋を四角い食卓へ置いた。
 東海道新幹線が訝しげにビニール袋と東海主幹を交互に見やる。
「貴方の食事よ。どうせ食べてないんでしょう」
「……ああ」
 どこか観念したように応えて東海道新幹線がビニール袋の中を覗く。静かに眉間の皺が深くなった。
 東海道新幹線が袋の中の物を取り出していく。駅弁が一つ、二つ、三つ、と菓子パンが二個。
「多くないか?」
「貴方が何を食べたいのかわからなかったから。足りないのも困ると思って、適当に買ってきたわ」
「……ありがとう」
 一拍置かれて発せられた返事は相変わらず覇気がなく、表情も冴えない。そこから見て取れるのは、疲労。鉄路に降った大雨が擬人である彼の身体に負担をかけているのだろう。
 だが、それだけではない。
(本当にこの意地っ張りは……)
 予想はしていたが、東海主幹は呆れずにはいられなかった。
 昔から変わらない。すでに判断は下されたというのに、まだ願っているのか、負けたくないのか。
 負けず嫌いは《鉄路を走る者》として悪いことではない。簡単に心を折られては困る出来事が、この世には多かれ少なかれ起こるのだから。
 けれど、現状にはふさわしくない。
(しょうがないわね)
 夕飯を渡しておとなしく帰ることも念頭に入れていた東海主幹だったが、彼の上司として、《営む者》として言うことにした。
「東海道新幹線」
 駅弁に落ちていた視線が正面に引き上げられる。
 相手の目をまっすぐに見据えて東海主幹は言葉を続けた。
「貴方の今日の運行は全面運休よ。明日も昼頃までは動けない可能性が高いわ」
「っ……」
 東海道新幹線が一瞬呼吸を詰まらせて、顔を強ばらせる。
「今この状況で貴方が何をするのが最善なのか、理解しているかしら?」
「わかってる!」
 その返事はまるで投げ放つようだった。明らかな動揺を浮かべながらも、双眸には燃えるような意志が宿っている。
 東海主幹は相手のとげついた感情を受け止め、冷静な態度を崩さない。
「本当に? 理解しているの? 今、貴方がすべきことは、走れないことを受け入れて、走れるときが来るまで心身を休めることよ。子供のように意地を張って走ることを望んでいないで、今日はさっさと走ることを諦めなさい」
「………」
 東海道新幹線の唇が少し開いて、すぐに結ぶように閉じられた。鋭くなった瞳を顔ごと台所のほうにそらす。
「東海道新幹線――」
 ピンポーン
 東海主幹の言葉に軽快な電子音が重なった。
 ピンポーン
 それはもう一度室内に響く。玄関の呼び鈴だ。
 東海道新幹線が怪訝そうに食卓を離れて、壁につけられたインターホンの機械から受話器を取った。
「はい。……じじい? こんな時間に何の……は? 別にいらな……、ああっ、わかった! わかった! くそっ」
 受話器を戻すと、面倒臭そうに小さく舌を打った。
「……東海道本線が来た」
 東海道新幹線は最後の二文字で東海主幹に気まずげに視線を寄越してから、足早にその横を通り過ぎていき、玄関の扉を開けた。
「こんばんは、シン」
 立っていたのは、銅色の髪をした一人の男。若い見目には合わない老人的な口調が妙に耳につく。
「今日は災難じゃったのう。大丈夫か?……ん? 先客か?」
 来訪者の黒茶色の瞳が東海道新幹線の向こう側を見やる。
 彼――東海道本線の擬人と目が合って、東海主幹を口を開いた。
「ご苦労様、東海道本線」
「お疲れさま、東海主幹殿。……ふむ、わしはお邪魔だったかな」
「かまわないわ。もう帰るところだから」
 東海主幹が玄関に足を進める。
「二人とも、ちゃんと休みなさいね」
「おぬしもな」
 返事は東海道本線だ。東海道新幹線は何か言いたげな顔をしていたが、その唇が動くことはなかった。
(東海道本線が来たから、まあ、大丈夫かしら)
 二つの視線に背を向けて、東海主幹は部屋を後にした。


 上着のポケットから取り出した携帯端末が、雨雲がようやく静岡から去りそうだと伝える。明日の天気は一転して晴れの予報だ。
(東海道新幹線は、相変わらずね……)
 他に重要な連絡がないことを確認して携帯端末をしまい、東海主幹は短いため息を吐いた。
 予想はしていた。彼が必死に走ろうとする性格だということは、もう何十年も前から知っていることだ。
『どうせ、《営む者》なんかに俺の気持ちなんてわからない!』
 ふと、頭の中に怒りの声がよみがえる。
 それは過去に東海道新幹線から放たれた言葉だ。あのときのことを思い返せば、現在は多少は丸くなった、と言えなくもない。
(もっとそうなってくれたら、こちらとしては気が楽なのだけれど)
 上がってきたエレベーターに東海主幹が乗り込む。一階のボタンを押したとき、携帯端末のメッセージアプリの着信音が耳に届いた。
 携帯端末を取り出して見れば、送り主はJR西日本の主幹。画面に映し出された文章に東海主幹は眉を寄せた。
『東海、お疲れさま。今日は大変だったね。大丈夫?』
(こいつも、相変わらずね……)
 相手の性格からして、このメッセージは単純な心配からだとはわかるが、今日この瞬間は少し癪に障った。
 すぐに返信を打つ。
『疲れたわ。労ってくれるのなら、明日、新大阪に行くから美味しいものをおごりなさい』
『ええー……』
『楽しみにしているわ。おやすみなさい』
 東海主幹が会話を一方的に締めくくってアプリを閉じる。
 今頃、遠く離れた関西の地で慌てているだろう西主幹の姿が思い浮かんで、くすりと笑みがこぼれた。